満月のルビー2
 オレははっとして目を見張ったのだけど、その場所から1歩も動くことはできなかった。目の前で人が倒れたらまずは駆け寄って声をかけるのが常識だ。それもこれもぜんぶあとから思ったことで、そのときのオレにはそうできないちゃんとした理由があった。目の前で倒れた男を、たった今までキスを交わしていた女が立ち尽くしたまま冷たい視線で見下ろしていたから。
 オレが見ている前で、女は自分の口の中に指を入れて、赤い何かを取り出した。
 飴玉のようなそれを指でつまんでくるくる回しながら月光に透かし見る。暗闇に白く浮かび上がる女の顔を初めてはっきりと見て、オレは彼女が相当な美人であることに気がついた。女は口の中で何かをつぶやいたあと、不意にオレに視線を移す。目が合って、オレは一気に心臓が跳ね上がるのを感じた。
(まさか、先月の通り魔って……!)
 常識で考えたらありえないことを思って足がすくんだ。だって、普通に考えたらこんな小柄で華奢な女が人殺しなんかできるはずない。被害者のOLも会社員も身体中を切り裂かれていたんだ。それに、さっき倒れた男は彼女の倍くらいはありそうな巨体で、彼女に何かされるなんてぜったいに思えなかったから。
 震えるオレを、女は無表情で見つめた。
 互いに見つめ合っていたのが数分だったのか、それともほんの数秒の出来事だったのか、それは判らない。気がつくと女はくるりときびすをかえしていて、路地の向こうの袋小路へと歩いていくところだった。そして、軽く2メートルはありそうなフェンスを助走もつけずに飛び越えたのだ。それからはもうオレを振り返ることもしないで、瞬く間に視界から消え去ってしまっていた。
 オレはたぶん、しばらく呆然としたままそこに立ち尽くしていた。そのあとどうやって自分が自宅へ帰ったのかは覚えていない。翌日も平日だったのだけど、学校へ行く気力すらわかずにベッドに寝転んで過ごしていた。この夜のことを独りで繰り返し辿りながら。
 さらに翌日、気になって朝刊をひっくり返したけれど、あの駅周辺で何か事件が起こった形跡はなかった。日常というものに意識を戻すとまるで夢だったようにも思えてくる。そうだよ、あの彼女が通り魔なんかであるはずがないんだ、常識で考えれば。
 食卓で親父に睨まれて新聞を手渡したあと、オレは朝食もそこそこに家を出た。