記憶・36
 暗く、ぼんやりしたところを、オレは漂っていた。
 再びオレはここに戻ってきた。夢の中。オレの記憶が沈殿した無意識に通じる唯一の通り道。相変わらず右も左も判らなかったが、オレは自分が下だと思う方向に向かって、静かに移動してゆく。風景は変わらないから本当に移動しているのかどうかは定かでない。だが、この場所のどこかに、オレの記憶は眠っている。記憶の全貌を直接見ることができるとしたらここしかないとオレは思っていた。
 不意に、なんの前触れもなく、暗闇が揺れた。
 あいつがくる。オレに嘲笑を浴びせ、オレの神経のささくれを際立たせるために存在する、あいつが。
「よお、少しは何か思い出せたのかよ」
 靄のようなものから顔だけを出現させて、奴が言う。オレの悪意。オレの闇。奴に勝てなければオレは永遠に記憶を取り戻せない気がした。闇よりも強い光を持たなければ、オレはいずれ奴に飲み込まれてゆくだろう。
「オレの名前は伊佐巳だ。32歳になる。だからオレはてめえとは違う。てめえの名前を教えろ」
 奴の顔は、オレをバカにし切ったような歪んだ表情で笑った。
「お前はそれを思い出したんじゃねえ。あの女に聞いただけだ。あの女……ミオ、とか言ったな。誰にでも媚を売るあばずれ女だ」
 ミオのことを言われて、オレはカッと頭に血を上らせた。
「ミオはお前が気安くどうこう言えるような女の子じゃない! 訂正しろ!」
「必要ねえな。だいたいお前、あの女のこといったいどれだけ知ってるってんだよ。あの女が今まで何人の男とヨロシクやってきたか、どんなアブノーマルセックスしてきたか、てめえはなにを知ってんだよ。イった時の声なんかすげえぜ。こっちが白けちまうくらいな」