記憶・39
 夢の中の顔が言った言葉を思い出す。試してみたくなる。あの男の言葉が真実であるのか。
 オレがあんな奴の誘惑に乗せられてどうするんだよ。
 あいつはもしかしたら、オレと一体化したいだけかもしれないのだ。オレがあいつの言葉をまに受けたら、オレという人格はあいつに乗っ取られるかもしれない。どんな理由でも構わない。あいつの言うことは1つも信じてはいけないんだ。
 これ以上ここで眠ることなんか、オレにはできそうになかった。だからと言ってこんな暗闇の中で何もせずにいたら、オレは夜が明けるまでずっと、ミオの寝息に悩まされつづけるだろう。明かりをつけてはミオを起こしてしまう。しばらく考えて、オレは暗闇の中、手探りでパソコンに向かった。
 スイッチを入れると、わずかな音とともに画面があたりをぼんやりと照らし出す。その明かりを頼りに椅子を探し、パソコンの前に座った。オレが思った通りだった。オレはすぐにミオを忘れることができた。
 何かをしたいと思うとオレは何をするにもどうしたらいいか判らなかったが、何も考えずに座っていたらやるべきことは自然に身体が覚えていた。自分の指が次々と画面を変えてゆく様を見ながら、もう一人のオレはそんな自分の行動を観察する。空手のときと同じだった。オレの肉体は完璧にコンピューターの操作を覚えているのだ。
 数字とアルファベットと記号。オレは打ちつづけながら、その意味を思い出そうとした。しかし、肝心なことは何も思い出せない。その記号の意味も、オレがいったいなにを作っているのかも、全てはオレの指以外記憶しているものはないのだ。
 オレは失望を抱えながら、まるでオレ自身が1つのコンピューターになってしまったかのように、無機質な記号を打ちつづけていった。