2003年06月の記事
2003 06/30 18:36
Category : 日記
聖書日課
◆『 主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。』
詩篇118−8
見えない神にのみ頼る代わりに、見えるものに頼ろうとする誘惑を経験したことがあるだろう。
クリスチャンはしばしば人に助けを求めて、神に対する単純な信頼をだいなしにしてしまう。
今夜の聖句が、一時的なものに頼ろうとする神の子どもに適切であるとすれば、
しばらくこのことを論じ合おうではないか。
あなたは、自分の救いについては、ただイエスのみを信頼している。ではなぜ心を騒がすのか。
「大きな心配があるため」とあなたは答える。
しかし「あなたの重荷を主にゆだねよ」、
また「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と記されてはいないか。
あなたは、この世のことでは神に信頼することができないのか。
「そのようにできたら」とあなたは言う。
しかしこの世のことについて神に信頼できなくて、
どうして霊的なことについて神に信頼すると言えるのか。
あなたは、たましいの贖いについては神に信頼できるが、
それよりはるかに小さなあわれみについては、信頼できないと言うのか。
神はあなたにとって十分ではないと言うのか。
神の満たしもあなたの必要を満たすのに不十分であると言うのか。
一切の秘密をご覧になる神の目のほかに、別の目がほしいのか。
神は気が弱すぎると言うのか。神の腕が疲れていると言うのか。
もしそうであるなら、別の神を求めよ。
しかし、もし神が無限で、全能で、忠実で、真実で、
そして全知であられるならば、なぜほかに頼るべきものを求めようとするのか。
神こそ大いなる岩であり、すべての重量を支えてくださるのに、
あなたはなぜ地中をかき回して他の基礎を求めようとするのか。
クリスチャンよ。あなたのぶどう酒を水で割ってはならない。
あなたの信仰の黄金に、人間的な信頼というかすを混ぜてはならない。
神にのみ仕え、神にのみ期待せよ。
ヨナのとうごまをほしがらないで、ヨナの神に憩え。
暴風を予見する者のように、千歳の岩の上にあなたの家を建てよ。
・・・・「Charles Haddon Spurgeon著 『夕ごとに』より」
◆『 主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。』
詩篇118−8
見えない神にのみ頼る代わりに、見えるものに頼ろうとする誘惑を経験したことがあるだろう。
クリスチャンはしばしば人に助けを求めて、神に対する単純な信頼をだいなしにしてしまう。
今夜の聖句が、一時的なものに頼ろうとする神の子どもに適切であるとすれば、
しばらくこのことを論じ合おうではないか。
あなたは、自分の救いについては、ただイエスのみを信頼している。ではなぜ心を騒がすのか。
「大きな心配があるため」とあなたは答える。
しかし「あなたの重荷を主にゆだねよ」、
また「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と記されてはいないか。
あなたは、この世のことでは神に信頼することができないのか。
「そのようにできたら」とあなたは言う。
しかしこの世のことについて神に信頼できなくて、
どうして霊的なことについて神に信頼すると言えるのか。
あなたは、たましいの贖いについては神に信頼できるが、
それよりはるかに小さなあわれみについては、信頼できないと言うのか。
神はあなたにとって十分ではないと言うのか。
神の満たしもあなたの必要を満たすのに不十分であると言うのか。
一切の秘密をご覧になる神の目のほかに、別の目がほしいのか。
神は気が弱すぎると言うのか。神の腕が疲れていると言うのか。
もしそうであるなら、別の神を求めよ。
しかし、もし神が無限で、全能で、忠実で、真実で、
そして全知であられるならば、なぜほかに頼るべきものを求めようとするのか。
神こそ大いなる岩であり、すべての重量を支えてくださるのに、
あなたはなぜ地中をかき回して他の基礎を求めようとするのか。
クリスチャンよ。あなたのぶどう酒を水で割ってはならない。
あなたの信仰の黄金に、人間的な信頼というかすを混ぜてはならない。
神にのみ仕え、神にのみ期待せよ。
ヨナのとうごまをほしがらないで、ヨナの神に憩え。
暴風を予見する者のように、千歳の岩の上にあなたの家を建てよ。
・・・・「Charles Haddon Spurgeon著 『夕ごとに』より」
2003 06/29 00:21
Category : 日記
久しぶりに太陽が顔を出しました。
昨夜のTV・NEWSでも何度も流れ、本日新聞のTOP記事は共産党の筆坂議員の辞職問題。
酒席でセクハラとは、あな 愚かしや。
清潔さを売り物にする共産党としては せめて迅速で厳正な処分をとの思惑も・・・・なんだかねぇ。
セクハラの内容を一切明らかにしない・・・・疑惑は深まるばかりですし。
志位氏に向けたインタビューの答えは、言葉も途切れがちで、僅かながら目もうるうるしていました。
”ブルータスおまえもか”の 心境です。
このモラルの低下は共産党に限ったことではありませんが。。。。。。
それにしても、あれだけ勢いよく 鈴木宗雄氏を追求したあの舌鋒の鋭さも 自らのスキャンダルで辞職とは 空しい。
他人を裁く人は 自らもきよく、己を律しなければ と思います。
『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。
人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。
赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。』 ルカの福音書 6章37
昨夜のTV・NEWSでも何度も流れ、本日新聞のTOP記事は共産党の筆坂議員の辞職問題。
酒席でセクハラとは、あな 愚かしや。
清潔さを売り物にする共産党としては せめて迅速で厳正な処分をとの思惑も・・・・なんだかねぇ。
セクハラの内容を一切明らかにしない・・・・疑惑は深まるばかりですし。
志位氏に向けたインタビューの答えは、言葉も途切れがちで、僅かながら目もうるうるしていました。
”ブルータスおまえもか”の 心境です。
このモラルの低下は共産党に限ったことではありませんが。。。。。。
それにしても、あれだけ勢いよく 鈴木宗雄氏を追求したあの舌鋒の鋭さも 自らのスキャンダルで辞職とは 空しい。
他人を裁く人は 自らもきよく、己を律しなければ と思います。
『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。
人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。
赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。』 ルカの福音書 6章37
2003 06/29 00:18
Category : 日記
聖書日課
■『人の道は主の目の前にあり、
主はその道筋のすべてに心を配っておられる。』箴言5章21節
本日の箴言の聖句は 時にかなったみ言葉で感謝致します。
よちよち歩きをしている子どもを見守るお母さんは 皆やさしい目をしています。
そして子どもに危険がないように、そっと心を配っています。
子どもはお母さんの目の前にいるのです。
同じように私達は、主の目の前にあり、主はちいさなことにも気を配り、
守ってくださるのです。なんと感謝なことでしょうか。
慈しみ深い父なる神様、尊い御名を崇め 賛美を致します。
今日も支え お守り下さって、ありがとうございます。
私の歩む道は あなたさまの目の前にあるのですから、少しも心配いたしません。
どうぞ これからもあなたさまだけを 見上げ従って参りますから 導き続けてください。
この感謝と願いを 救い主イエス・キリストさまのお名前を通して 御前にお奉げいたします。
アーメン
■『人の道は主の目の前にあり、
主はその道筋のすべてに心を配っておられる。』箴言5章21節
本日の箴言の聖句は 時にかなったみ言葉で感謝致します。
よちよち歩きをしている子どもを見守るお母さんは 皆やさしい目をしています。
そして子どもに危険がないように、そっと心を配っています。
子どもはお母さんの目の前にいるのです。
同じように私達は、主の目の前にあり、主はちいさなことにも気を配り、
守ってくださるのです。なんと感謝なことでしょうか。
慈しみ深い父なる神様、尊い御名を崇め 賛美を致します。
今日も支え お守り下さって、ありがとうございます。
私の歩む道は あなたさまの目の前にあるのですから、少しも心配いたしません。
どうぞ これからもあなたさまだけを 見上げ従って参りますから 導き続けてください。
この感謝と願いを 救い主イエス・キリストさまのお名前を通して 御前にお奉げいたします。
アーメン
2003 06/24 22:33
Category : 日記
今日も雨です。呆れるほどよく降ります。
ベランダの花々は 開花以前 つぼみのままで朽ちていきます。
あれ程見事に咲いていた八重咲きインパチェンスなども 根元から朽ちて無残な姿になりました。
ニューギニア・インパチェンスは雨がかからない所に移動したので 何とか凌いでいます。
この時期 花はなかなかです。緑(葉)どんどん鮮やかに茂っていくようですが・・・・・。
さて、聖日礼拝の説教のお分かち合いです。
ガラテヤ人への手紙5章1節・13節から
「私達の自由」と題して みことばを取り次いで戴きました。
『5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを
負わせられないようにしなさい。
5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。
ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。』
自由とは・・・辞書には 他からの束縛や支配から解放されること と記されていました。
私達は間違った自由を求めることがないように。
ともすれば 感情や欲望に支配されて 自由どころか、不自由になってしまいます。
何か 悪いことを止めようとする時、自分は不自由だと気がつくのです。
例えば、愛煙家がタバコを止めようと禁煙する時・・・・なかなか止められないといったように。
これは 不自由・・・・・です。
パウロも「わたくしは不自由な人間です」と告白しています。
聖書がいう自由とは
・何かから自由になる。(悪いことから自由になる)
その当時 ユダヤ教の教えを守らないと救われない という律法がありました。
イエスさまを信じる人は 迷信・縁起・律法・・・・そのようなことから自由なのです。
.私たちを縛りつけるものから自由。
13日の金曜日は縁起が悪いとか、運勢が悪い日であるとか、この色がよくない 等々、
これは縛られています。イエスを主と告白する人は、迷信・縁起 このようなことから自由です。
.何かをする自由とは。
神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。
あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを聖く、また尊く保ち、互いに仕え合い、愛し合うべきです。
自由を自分(我)の為に・・・ではなく、このように 自由を用いるのですよ と主は言われます。
・習慣的に罪のとりこになってはいませんか?
・高慢になったり、他者を容易に裁いたり、嘘、自己憐憫などから自由になっているでしょうか?
みことばに照らされ 生活や心のあり方を変えたいと思った時、初めて自分が自由ではないことに気がつくのではないでしょうか?
積極的な自由・・・・>その時自由だなぁと感じるように人は創られているのですから。
私たちは「自由とされた」身として生きることを学ぶべきです。
罪の奴隷状態から開放され 聖霊の導きのままに 新しく、力強く生きることができる自由を与えられたのですから 愛の業の為には 隣人に対して、特に主に対して むしろ喜んで奴属する僕とならしめていただきましょう。
ベランダの花々は 開花以前 つぼみのままで朽ちていきます。
あれ程見事に咲いていた八重咲きインパチェンスなども 根元から朽ちて無残な姿になりました。
ニューギニア・インパチェンスは雨がかからない所に移動したので 何とか凌いでいます。
この時期 花はなかなかです。緑(葉)どんどん鮮やかに茂っていくようですが・・・・・。
さて、聖日礼拝の説教のお分かち合いです。
ガラテヤ人への手紙5章1節・13節から
「私達の自由」と題して みことばを取り次いで戴きました。
『5:1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。
ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを
負わせられないようにしなさい。
5:13 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。
ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。』
自由とは・・・辞書には 他からの束縛や支配から解放されること と記されていました。
私達は間違った自由を求めることがないように。
ともすれば 感情や欲望に支配されて 自由どころか、不自由になってしまいます。
何か 悪いことを止めようとする時、自分は不自由だと気がつくのです。
例えば、愛煙家がタバコを止めようと禁煙する時・・・・なかなか止められないといったように。
これは 不自由・・・・・です。
パウロも「わたくしは不自由な人間です」と告白しています。
聖書がいう自由とは
・何かから自由になる。(悪いことから自由になる)
その当時 ユダヤ教の教えを守らないと救われない という律法がありました。
イエスさまを信じる人は 迷信・縁起・律法・・・・そのようなことから自由なのです。
.私たちを縛りつけるものから自由。
13日の金曜日は縁起が悪いとか、運勢が悪い日であるとか、この色がよくない 等々、
これは縛られています。イエスを主と告白する人は、迷信・縁起 このようなことから自由です。
.何かをする自由とは。
神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。
あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを聖く、また尊く保ち、互いに仕え合い、愛し合うべきです。
自由を自分(我)の為に・・・ではなく、このように 自由を用いるのですよ と主は言われます。
・習慣的に罪のとりこになってはいませんか?
・高慢になったり、他者を容易に裁いたり、嘘、自己憐憫などから自由になっているでしょうか?
みことばに照らされ 生活や心のあり方を変えたいと思った時、初めて自分が自由ではないことに気がつくのではないでしょうか?
積極的な自由・・・・>その時自由だなぁと感じるように人は創られているのですから。
私たちは「自由とされた」身として生きることを学ぶべきです。
罪の奴隷状態から開放され 聖霊の導きのままに 新しく、力強く生きることができる自由を与えられたのですから 愛の業の為には 隣人に対して、特に主に対して むしろ喜んで奴属する僕とならしめていただきましょう。
2003 06/24 22:04
Category : 日記
復活前日の聖書日課
◆『 キリストは、人としてこの世におられたとき、
自分を死から救うことのできる方に向かって、
大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、
そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」ヘブル人への手紙 5章7節 (新改訳)
ゲッセマネ
◆◆その恐れのゆえに聞き入れられた。(ヘブル5・7英訳)
この恐れは、ご自分が神から全く捨てられることを思って、起こったのであろうか。
これ以上の試練が、あるいはあるかもしれない。
しかし神から全く捨てられるということは、たしかに最悪の試練の一つである。
サタンは主に言った。
「見よ。あなたの友はどこにもいない。あなたの父はあわれみの心をあなたに閉ざした。
神の宮の天使はだれ一人、手を伸べて助けない。
天は全くあなたから遠ざかり、あなたは孤立無援だ。親しかった友を見よ。
何の値打ちがあるか。マリヤの子よ。ヤコブ、愛していた弟子のヨハネ、
また大胆な弟子ペテロは、あなたの苦難の時眠ってしまった卑怯者ではないか。
天にも地にも、あなたは一人の友もいない。地獄はあなたに向かって敵対している。
私は悪魔たちを総動員した。あらゆる地に手紙を送り、すべての暗黒の君たちを召集し、
今晩あなたを攻撃させ、一本の矢も残らず射尽くし、すべての地獄の力をもって、
今やあなたを押しつぶそうとしている。これに対してどうしようというのか」と。
これは誘惑であったろう。なぜなら天使が現れて主を強め、その恐れを取り去ったからである。
主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」のである。主はもはや孤独ではなく、天は主と共にあった。
主はこのために、三度までも弟子たちのところに来られたのであろう。
ハートが歌ったとおりである。
彼は人の助けを求めるように 前に、後ろに、三度足を運ばれた。
主は、本当にすべての人が主を捨てたかどうかをご自身で見たいと思われたのであった。
主は弟子たちが皆眠っているのを見られた。
しかし彼らの眠りは裏切りではなく悲しみの為であり、心は燃えていても肉体が弱いから
であることを思い、かすかな慰めを得られたことと思う。
いずれにしても、主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」。
イエスの祈りは、最も深い悩みの中にある時に聞かれたのである。
私のたましいよ。
おまえの祈りもまた聞かれるであろう。
By Charles Haddon Spurgeon
◆『 キリストは、人としてこの世におられたとき、
自分を死から救うことのできる方に向かって、
大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、
そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」ヘブル人への手紙 5章7節 (新改訳)
ゲッセマネ
◆◆その恐れのゆえに聞き入れられた。(ヘブル5・7英訳)
この恐れは、ご自分が神から全く捨てられることを思って、起こったのであろうか。
これ以上の試練が、あるいはあるかもしれない。
しかし神から全く捨てられるということは、たしかに最悪の試練の一つである。
サタンは主に言った。
「見よ。あなたの友はどこにもいない。あなたの父はあわれみの心をあなたに閉ざした。
神の宮の天使はだれ一人、手を伸べて助けない。
天は全くあなたから遠ざかり、あなたは孤立無援だ。親しかった友を見よ。
何の値打ちがあるか。マリヤの子よ。ヤコブ、愛していた弟子のヨハネ、
また大胆な弟子ペテロは、あなたの苦難の時眠ってしまった卑怯者ではないか。
天にも地にも、あなたは一人の友もいない。地獄はあなたに向かって敵対している。
私は悪魔たちを総動員した。あらゆる地に手紙を送り、すべての暗黒の君たちを召集し、
今晩あなたを攻撃させ、一本の矢も残らず射尽くし、すべての地獄の力をもって、
今やあなたを押しつぶそうとしている。これに対してどうしようというのか」と。
これは誘惑であったろう。なぜなら天使が現れて主を強め、その恐れを取り去ったからである。
主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」のである。主はもはや孤独ではなく、天は主と共にあった。
主はこのために、三度までも弟子たちのところに来られたのであろう。
ハートが歌ったとおりである。
彼は人の助けを求めるように 前に、後ろに、三度足を運ばれた。
主は、本当にすべての人が主を捨てたかどうかをご自身で見たいと思われたのであった。
主は弟子たちが皆眠っているのを見られた。
しかし彼らの眠りは裏切りではなく悲しみの為であり、心は燃えていても肉体が弱いから
であることを思い、かすかな慰めを得られたことと思う。
いずれにしても、主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」。
イエスの祈りは、最も深い悩みの中にある時に聞かれたのである。
私のたましいよ。
おまえの祈りもまた聞かれるであろう。
By Charles Haddon Spurgeon
2003 06/23 19:12
Category : 日記
神さまに祈るとき、イエスさまの御名を通して感謝と願いをおささげします。
しかし最後は主の御心がなりますように・・・・・これに尽きるのです。
人は 人生の多くのことが偶然によって支配されているように思うものです。
わたくしがこの時代に、日本という国に、さらにこの家に生まれてきたこと、
それらすべてのことが偶然に依るものであると。
しかし、偶然見える事柄も実はすべて神さまが決定し、全能の力によってなさったことだ
と聖書は告げています。
神さまがおられる限りこの世界に偶然というものは存在しないということを。
そうであるなら、私たちの人生で起こるあらゆることには神さまの意志と目的があり、
現在戦闘の真っ只中にあるイラク戦争もすべて主の御手の中にあることなのだ
と理解することができます。
神はご自身の正義、聖さ、愛、美にかなったすばらしい目的の為にすべてのことをなさるお方です。
ですから私たちに起こるあらゆることは神さまの目から見て最善のことなのだと信じることができるのです。
「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」 箴言16章33節
photo by M's
しかし最後は主の御心がなりますように・・・・・これに尽きるのです。
人は 人生の多くのことが偶然によって支配されているように思うものです。
わたくしがこの時代に、日本という国に、さらにこの家に生まれてきたこと、
それらすべてのことが偶然に依るものであると。
しかし、偶然見える事柄も実はすべて神さまが決定し、全能の力によってなさったことだ
と聖書は告げています。
神さまがおられる限りこの世界に偶然というものは存在しないということを。
そうであるなら、私たちの人生で起こるあらゆることには神さまの意志と目的があり、
現在戦闘の真っ只中にあるイラク戦争もすべて主の御手の中にあることなのだ
と理解することができます。
神はご自身の正義、聖さ、愛、美にかなったすばらしい目的の為にすべてのことをなさるお方です。
ですから私たちに起こるあらゆることは神さまの目から見て最善のことなのだと信じることができるのです。
「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」 箴言16章33節
photo by M's
2003 06/23 19:02
Category : 日記
晴天に恵まれた週の初め 礼拝をお捧げする為に教会へ、
今週はいよいよ受難週に入りました。その頂点の出来事が ”十字架と復活”です。
本日の礼拝説教は「マタイ27章」から みことばを取り次いでいただきました。
約2000年前の今日
・日曜日・・・エルサレム入城
・月曜日・・・宮清め
・火曜日・・・会堂で説教
・水曜日・・・最後の説教、ベタニヤのマリアによる香油注ぎ。。
・木曜日・・・最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ユダの裏切り、夜中、偽りの裁判
・金曜日・・・午前9時、十字架につけられた。--->午後3時
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれ 肉体の死を遂げられた。
・日曜日・・・朝早く、復活された。
「神さまに捨てられたイエスさま」と題しての牧師先生による解き明かしでした。
『三時ごろ、イエスは大声で、 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、
「 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
という意味である。
すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、
「 この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、
葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
ほかの者たちは、「 私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。』マタイ27章46〜50節
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
となぜ主は弱音を吐かれたのでしょうか。
これには二つの意味があります。
1)
イエスさまが生まれる1000年前の旧約聖書(創世記、イザヤ書、ミカ書、詩篇 )に記されおり”メシヤの受難の死”は約束されていたことであった。
「 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」 詩篇22章1節
メシアであること---世界の救い主、私たちを罪から救ってくださるおかたであることを示している。
2)
神さまから見捨てられる・・・・霊的な死を意味する。
主は肉体の死と霊の死を経験なさった。
霊的死とはかみからの断絶、神が関わることをいっさいなさらないことです。
主は父なる神から見捨てられたのです。
神は罪深い私達を見捨てることをなさらず、ひとりごイエス・キリストを見捨てられたのでした。
神は聖く、罪を決して見過ごすことが出来ないおかただからです。
肉体の苦痛は恐ろしいものです、しかし、神からの霊的断絶はもっとも究極的な苦悩なのです。
主は二重の死を負ってくださいました。
人間の罪をずっと追い詰めていくと自分が第一、我、自己中心に行き着きます。
主は、十字架にかかり身代わりに死んで下さったばかりではなく
3日目に蘇って下さり、今も神にとりなしの祈りをして下さっているのです。
私たちが神から永遠に捨てられることがないようにと。
「御手と御足のみか 心も裂けて、きみは死にたまいぬ 我らのため。」
今週はいよいよ受難週に入りました。その頂点の出来事が ”十字架と復活”です。
本日の礼拝説教は「マタイ27章」から みことばを取り次いでいただきました。
約2000年前の今日
・日曜日・・・エルサレム入城
・月曜日・・・宮清め
・火曜日・・・会堂で説教
・水曜日・・・最後の説教、ベタニヤのマリアによる香油注ぎ。。
・木曜日・・・最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ユダの裏切り、夜中、偽りの裁判
・金曜日・・・午前9時、十字架につけられた。--->午後3時
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれ 肉体の死を遂げられた。
・日曜日・・・朝早く、復活された。
「神さまに捨てられたイエスさま」と題しての牧師先生による解き明かしでした。
『三時ごろ、イエスは大声で、 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、
「 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
という意味である。
すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、
「 この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、
葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
ほかの者たちは、「 私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。』マタイ27章46〜50節
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
となぜ主は弱音を吐かれたのでしょうか。
これには二つの意味があります。
1)
イエスさまが生まれる1000年前の旧約聖書(創世記、イザヤ書、ミカ書、詩篇 )に記されおり”メシヤの受難の死”は約束されていたことであった。
「 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」 詩篇22章1節
メシアであること---世界の救い主、私たちを罪から救ってくださるおかたであることを示している。
2)
神さまから見捨てられる・・・・霊的な死を意味する。
主は肉体の死と霊の死を経験なさった。
霊的死とはかみからの断絶、神が関わることをいっさいなさらないことです。
主は父なる神から見捨てられたのです。
神は罪深い私達を見捨てることをなさらず、ひとりごイエス・キリストを見捨てられたのでした。
神は聖く、罪を決して見過ごすことが出来ないおかただからです。
肉体の苦痛は恐ろしいものです、しかし、神からの霊的断絶はもっとも究極的な苦悩なのです。
主は二重の死を負ってくださいました。
人間の罪をずっと追い詰めていくと自分が第一、我、自己中心に行き着きます。
主は、十字架にかかり身代わりに死んで下さったばかりではなく
3日目に蘇って下さり、今も神にとりなしの祈りをして下さっているのです。
私たちが神から永遠に捨てられることがないようにと。
「御手と御足のみか 心も裂けて、きみは死にたまいぬ 我らのため。」
2003 06/23 19:00
Category : 日記
◆『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、
彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』 黙示録3−20
今夜のあなたの願いは何か。それは天のことに集中しているか。
永遠の愛の、崇高な教えを楽しみたいと願っているか。
神との親しい交わりの自由を求めているか。
あなたは、その広さ、長さ、高さ、深さを知ることを願うか。
では、イエスに近づきなさい。あなたは、主の尊さ、完全さをはっきり見なければならない。
そのみわざ、務め、ご人格を見なければならない。
キリストは、すべての神の部屋を開く偉大なかぎであられる。
神の宝庫は、イエスに近く住むたましいに対して開かれ、その宝のすべてが提供される。
あなたは「主が私の胸に住まれるように」「主が私の心を永遠のすみかとされるように」と言うのか。
愛する者よ。では戸を開け。そうすれば、あなたの魂の中に主は来られるであろう。
主はもう長い間戸をたたいておられる。
それは主があなたと食事を共にされ、あなたが主と食事を共にするためである。
主があなたと食事を共にされるのは、あなたの家、すなわちあなたの心を主に提供するからである。
そしてあなたが主と食事を共にするのは、主が食物を整えて来られるからである。
あなたが家を、すなわち心を提供しないならば、主は食事を共にされない。
またあなたの戸棚には何もないので、主が食物を持って来られなければ、
あなたは主と食事を共にすることができない。
あなたのたましいを広く開けよ。主はあなたの慕い求める愛をもって来てくださるであろう。
また、あなたのあわれな、沈んだ霊では味わい得ない喜びをもって来られるであろう。
あなたの中に今はない平安を、主は与えてくださるであろう。
主はぶどう酒のつぼと甘美な愛のりんごを携えて来て、あなたを力づける。
そしてついにあなたは苦しみも憂いも打ち忘れて、溢れるばかりの神の愛を褒め称えるようになる。
ただ戸を開いて主を迎えよ。
主の敵を追い出せ。
あなたの心のかぎを主に渡せ。
主は永遠にあなたの心の中に住まれるであろう。
おお、驚くべき愛よ。このような客を心の中に住まわせることができるとは。 スポルジョン著「夕ごとに」より
だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、
彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』 黙示録3−20
今夜のあなたの願いは何か。それは天のことに集中しているか。
永遠の愛の、崇高な教えを楽しみたいと願っているか。
神との親しい交わりの自由を求めているか。
あなたは、その広さ、長さ、高さ、深さを知ることを願うか。
では、イエスに近づきなさい。あなたは、主の尊さ、完全さをはっきり見なければならない。
そのみわざ、務め、ご人格を見なければならない。
キリストは、すべての神の部屋を開く偉大なかぎであられる。
神の宝庫は、イエスに近く住むたましいに対して開かれ、その宝のすべてが提供される。
あなたは「主が私の胸に住まれるように」「主が私の心を永遠のすみかとされるように」と言うのか。
愛する者よ。では戸を開け。そうすれば、あなたの魂の中に主は来られるであろう。
主はもう長い間戸をたたいておられる。
それは主があなたと食事を共にされ、あなたが主と食事を共にするためである。
主があなたと食事を共にされるのは、あなたの家、すなわちあなたの心を主に提供するからである。
そしてあなたが主と食事を共にするのは、主が食物を整えて来られるからである。
あなたが家を、すなわち心を提供しないならば、主は食事を共にされない。
またあなたの戸棚には何もないので、主が食物を持って来られなければ、
あなたは主と食事を共にすることができない。
あなたのたましいを広く開けよ。主はあなたの慕い求める愛をもって来てくださるであろう。
また、あなたのあわれな、沈んだ霊では味わい得ない喜びをもって来られるであろう。
あなたの中に今はない平安を、主は与えてくださるであろう。
主はぶどう酒のつぼと甘美な愛のりんごを携えて来て、あなたを力づける。
そしてついにあなたは苦しみも憂いも打ち忘れて、溢れるばかりの神の愛を褒め称えるようになる。
ただ戸を開いて主を迎えよ。
主の敵を追い出せ。
あなたの心のかぎを主に渡せ。
主は永遠にあなたの心の中に住まれるであろう。
おお、驚くべき愛よ。このような客を心の中に住まわせることができるとは。 スポルジョン著「夕ごとに」より
2003 06/23 18:58
Category : 日記
礼拝をお捧げした後、CS(クリスチャンスクール)の進級式、最後にポトラック式の愛餐・歓送迎会がありました。
ご主人の転勤の為に この地を離れる姉妹とは、私たちの教会に転会されて一年強と短いお交わりの期間でしたが
本当に主を心から愛し、堅くみことばにたっておられた主の証人でした。
また 数年後には戻って来られることとは思いますけれど。お迎えするほうはとても嬉しいことですが、
送るほうは胸がいっぱいになってしまいます。
会の最後にみんなで賛美歌405番を賛美いたしました。賛美をしながら不覚にも途中で声がつまってしまい、
元気に賛美出来ませんでした。
歌詞もメロディも素晴らしい讃美歌なのでアップいたします。
讃美歌405番
1.
神ともにいまして 行く道を守り
あめの み糧もて 力をあたえませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り なが身を離れざれ
2.
荒野を行くときも あらし吹くときも
ゆくてをしめして たえず導きませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ
3.
みかどに入る日まで 慈しみひろき
みつばさのかげに たえずはぐくみませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ
ご主人の転勤の為に この地を離れる姉妹とは、私たちの教会に転会されて一年強と短いお交わりの期間でしたが
本当に主を心から愛し、堅くみことばにたっておられた主の証人でした。
また 数年後には戻って来られることとは思いますけれど。お迎えするほうはとても嬉しいことですが、
送るほうは胸がいっぱいになってしまいます。
会の最後にみんなで賛美歌405番を賛美いたしました。賛美をしながら不覚にも途中で声がつまってしまい、
元気に賛美出来ませんでした。
歌詞もメロディも素晴らしい讃美歌なのでアップいたします。
讃美歌405番
1.
神ともにいまして 行く道を守り
あめの み糧もて 力をあたえませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り なが身を離れざれ
2.
荒野を行くときも あらし吹くときも
ゆくてをしめして たえず導きませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ
3.
みかどに入る日まで 慈しみひろき
みつばさのかげに たえずはぐくみませ
また会う日まで また会う日まで
神の守り 汝が身を離れざれ
2003 06/23 18:57
Category : 日記
今日の聖書日課
[ 聖書を調べなさい。] ヨハネの福音書5章39節
ここに「調べる」と訳されたギリシヤ語は、人が黄金を探す時のような、
また猟師が熱心に獲物を追跡する時のような、厳しい、綿密な、勤勉な探索を意味する。
聖霊の灯火を掲げ、慎重に、みことばの隠れた意味を尋ねなければならない。
聖書は調べることが必要である。
その大部分は、注意深い研究によってのみ学ぶことができる。
ラビたちが、聖書の一語一語、一点一画に、山のような問題が含まれている
と言ったのは正しい。
テルトゥリアヌスは「私は聖書の豊かさをあがめる」と叫んだ。
神のみことばである聖書の表面のみを走り読みする人は、益を受けない。
隠れた宝を得るまで、私たちは掘らなければならない。
みことばの戸は、勤勉のかぎによってのみ開くことができる。
聖書は調べることを要求している。
それは神によって書かれ、神の印が押され、神によって認可された。
したがって、だれがそれを軽率に扱うことができようか
聖書を軽蔑する者は、それを書いた神を軽んずる者である。
私たちが聖書をなおざりにしたため、審判の日に私たちを責める証拠として聖書がもち出されることなど断じてないように、注意しなければならない。
神のみことばである聖書は調べがいのあるものである。
神は私たちに、山のようなもみがらをふるいにかけて、少しばかりの穀物の粒をより出せとは命じておられない。
私たちはただ穀倉の戸を開いて、中の穀物を取り出せばよい。聖書は研究するにつれて深まっていく。それは驚きに満ちている。
聖霊の導きのもとで探し求める者の目には、聖書は啓示の輝きをいよいよ増し加え、金、ルビー、エメラルド、またあらゆる種類の宝石を散りばめた巨大な神殿のようになる。
聖書の真理のように貴重な商品はほかにない。
最後に聖書はイエスを啓示する。
「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」
これほど、聖書を読む者を励ますことばがあろうか。
主を見いだす者は、いのちを、天国を、そしてすべてを見いだす。
聖書を調べて、自分の救い主を発見する者は幸いである。Charles Haddon Spurgeon著 「夕ごとに」より
[ 聖書を調べなさい。] ヨハネの福音書5章39節
ここに「調べる」と訳されたギリシヤ語は、人が黄金を探す時のような、
また猟師が熱心に獲物を追跡する時のような、厳しい、綿密な、勤勉な探索を意味する。
聖霊の灯火を掲げ、慎重に、みことばの隠れた意味を尋ねなければならない。
聖書は調べることが必要である。
その大部分は、注意深い研究によってのみ学ぶことができる。
ラビたちが、聖書の一語一語、一点一画に、山のような問題が含まれている
と言ったのは正しい。
テルトゥリアヌスは「私は聖書の豊かさをあがめる」と叫んだ。
神のみことばである聖書の表面のみを走り読みする人は、益を受けない。
隠れた宝を得るまで、私たちは掘らなければならない。
みことばの戸は、勤勉のかぎによってのみ開くことができる。
聖書は調べることを要求している。
それは神によって書かれ、神の印が押され、神によって認可された。
したがって、だれがそれを軽率に扱うことができようか
聖書を軽蔑する者は、それを書いた神を軽んずる者である。
私たちが聖書をなおざりにしたため、審判の日に私たちを責める証拠として聖書がもち出されることなど断じてないように、注意しなければならない。
神のみことばである聖書は調べがいのあるものである。
神は私たちに、山のようなもみがらをふるいにかけて、少しばかりの穀物の粒をより出せとは命じておられない。
私たちはただ穀倉の戸を開いて、中の穀物を取り出せばよい。聖書は研究するにつれて深まっていく。それは驚きに満ちている。
聖霊の導きのもとで探し求める者の目には、聖書は啓示の輝きをいよいよ増し加え、金、ルビー、エメラルド、またあらゆる種類の宝石を散りばめた巨大な神殿のようになる。
聖書の真理のように貴重な商品はほかにない。
最後に聖書はイエスを啓示する。
「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」
これほど、聖書を読む者を励ますことばがあろうか。
主を見いだす者は、いのちを、天国を、そしてすべてを見いだす。
聖書を調べて、自分の救い主を発見する者は幸いである。Charles Haddon Spurgeon著 「夕ごとに」より
2003 06/23 18:54
Category : 日記
受難週はHPはお休みしようかなと思いましたが、出来る範囲で更新です。
受難週はイエスさまの十字架のお苦しみを覚え、自分の救い出された
深い穴を見つめる時としたいと思います。
今日の聖書日課
◆それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
マタイの福音書26章39節
救い主の試練の時の祈りに、私たちが教えられることが幾つかある。
●まず、それは孤独な祈りであった。
主は三人の愛する弟子たちからさえ離れられた。
主にある友よ。たびたび孤独の祈りをせよ。試練の時こそ特にそうすべきである。
家庭礼拝、友との祈り、教会での祈りは、尊いが十分ではない。
最上の香料はあなたの個人的な礼拝の香炉の中 神の他聞く者のない場所でたかれるものである。
●それはへりくだった祈りであった。
ルカは「ひざまずいて」と述べているが、他の福音書記者は「ひれ伏し」と言っている。
それなら、偉大な主の卑しいしもべであるあなたはどうすれはよいのか。
へりくだりは祈りに確かな足場を与える。神が適当な時に私たちを高められるように、自らを低くするのでなければ、神に聞かれる見込みはない。
●それはまた従順の祈りであった。
試練の時、あなたは「アバ、父よ」と神の子として懇願することがいかに心強いものかを知るであろう。
あなたは裏切りによって臣下としての権利は失った。
しかし、子が父の保護を求める権利は、何ものによっても奪われることはない。
「父よ。私の叫びを聞いてください」と言うのを恐れてはいけない。
●この祈りは忍耐強い祈りであった。
主は三度祈られた。祈りが聞かれるまではやめてはならない。
初めの願いが聞かれなかったにもかかわらず、執拗に懇願を続け、ついに聞き入れられたやもめのようであれ。祈り続けよ。そして感謝の思いのうちに待て。
●最後に、それはゆだねきった祈りであった。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」とある。
あなたがゆずるなら、神もまたゆずってくださる。みこころにゆだねさえするなら、神は最善をなされる。いつどのようにして、何を与え何をさし控えるべきかを知っておられる。
それゆえ、熱心に、執拗に、しかも謙遜と信頼をもって祈るならば、必ず聞かれるのである。
By Charles Haddon Spurgeon
愛なる天のお父様 御名を崇め感謝をいたします。
受難週の真っ只中にあって、主がゲッセマネで祈られたその情景を思います。
悲しみもだえながら、血のような汗を流して
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われたそのお祈りのお苦しみを覚えます。
ありがとうございます。あなた様のお苦しみは、私の罪のためであったことを 強く思います。今 己の罪を覚え悔い改めをいたしました。どうぞ主よ、赦して下さい。聖めて下さい。また、私の気づかない隠れた罪をもお赦し下さい。
この感謝と願いを 救い主イエス・キリストの御名前によって御前にお捧げいたします。アーメン
受難週はイエスさまの十字架のお苦しみを覚え、自分の救い出された
深い穴を見つめる時としたいと思います。
今日の聖書日課
◆それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
マタイの福音書26章39節
救い主の試練の時の祈りに、私たちが教えられることが幾つかある。
●まず、それは孤独な祈りであった。
主は三人の愛する弟子たちからさえ離れられた。
主にある友よ。たびたび孤独の祈りをせよ。試練の時こそ特にそうすべきである。
家庭礼拝、友との祈り、教会での祈りは、尊いが十分ではない。
最上の香料はあなたの個人的な礼拝の香炉の中 神の他聞く者のない場所でたかれるものである。
●それはへりくだった祈りであった。
ルカは「ひざまずいて」と述べているが、他の福音書記者は「ひれ伏し」と言っている。
それなら、偉大な主の卑しいしもべであるあなたはどうすれはよいのか。
へりくだりは祈りに確かな足場を与える。神が適当な時に私たちを高められるように、自らを低くするのでなければ、神に聞かれる見込みはない。
●それはまた従順の祈りであった。
試練の時、あなたは「アバ、父よ」と神の子として懇願することがいかに心強いものかを知るであろう。
あなたは裏切りによって臣下としての権利は失った。
しかし、子が父の保護を求める権利は、何ものによっても奪われることはない。
「父よ。私の叫びを聞いてください」と言うのを恐れてはいけない。
●この祈りは忍耐強い祈りであった。
主は三度祈られた。祈りが聞かれるまではやめてはならない。
初めの願いが聞かれなかったにもかかわらず、執拗に懇願を続け、ついに聞き入れられたやもめのようであれ。祈り続けよ。そして感謝の思いのうちに待て。
●最後に、それはゆだねきった祈りであった。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」とある。
あなたがゆずるなら、神もまたゆずってくださる。みこころにゆだねさえするなら、神は最善をなされる。いつどのようにして、何を与え何をさし控えるべきかを知っておられる。
それゆえ、熱心に、執拗に、しかも謙遜と信頼をもって祈るならば、必ず聞かれるのである。
By Charles Haddon Spurgeon
愛なる天のお父様 御名を崇め感謝をいたします。
受難週の真っ只中にあって、主がゲッセマネで祈られたその情景を思います。
悲しみもだえながら、血のような汗を流して
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われたそのお祈りのお苦しみを覚えます。
ありがとうございます。あなた様のお苦しみは、私の罪のためであったことを 強く思います。今 己の罪を覚え悔い改めをいたしました。どうぞ主よ、赦して下さい。聖めて下さい。また、私の気づかない隠れた罪をもお赦し下さい。
この感謝と願いを 救い主イエス・キリストの御名前によって御前にお捧げいたします。アーメン
2003 06/23 18:52
Category : 日記
★レント最終木曜日の聖書日課
木曜日はイエスさまが弟子たちとの最後の晩餐を行い、
その場で弟子たちの足を自らお洗いになったことを記念する「洗足木曜日」。
最後の晩餐の聖書の箇所・・・・いつも聖餐式の時に読み上げられる慣れ親しんだ箇所です。
『イエスは言われた。
「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、
この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、
わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。
「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、
わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。
わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
人の子は、定められたとおりに去って行きます。
しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」』
ルカの福音書22章15〜22節
◆『ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。』ルカの福音書22章48節
「憎む者が口づけしてもてなすよりは……。」
世が笑顔をもってくる時、私たちは警戒しなければならない。
私たちもまた、主のように口づけによって売られるかもしれないからである。
人が信仰を害そうとする時には、必ず表面では深い敬意を見せる。
異端と不信仰の従者、なめらかな顔の偽善者に注意しようではないか。
不義な者には欺かれやすいことを知って、へびのようにさとく、敵の計略を察し、それを避けようではないか。
思慮のない青年は、妖しい女の口づけによって惑わされる。
私たちのたましいが今日の初めから終わりまで、世の「へつらいのくちびる」に動揺させられないように十分に訓練され得るように。
聖霊なる神様。弱い人の子である私が口づけによって売られることのないように守ってください。
しかし、もし私が滅びの子ユダのような憎むべき罪を犯しているとすれば、どうであろう。
私は主イエスの名によって洗礼を受けている。私は目に見える主の教会の会員である。
私は聖餐式に参加する。これらはすべて、私のくちびるをもってする口づけである。
これらに私は誠実であろうか。もしそうでなかったならば、私は卑しい裏切り者である。
私はこの世で他の人たちのように不注意に生きているのに、なお主に従う者だと公言してはいないのか。
もしそうであれば、私は信仰を人々の物笑いの種とし、人々に聖い御名の悪口を言わせることになる。
私の言行がこのように不一致であるならば 私はユダであり
生まれなかったほうがよかったのである。
この点に於いて私は果して旗色を鮮明にすることを望んでいるでしょうか。
主よ。私をそのように守ってください。私を誠実かつ真実な者として下さい。
すべての偽りの道から守ってください。決して救い主を裏切ることがありませんように。
イエス様。私はあなたを愛します。私はしばしばあなたを悲しませました。
しかし私の願いは、死に至るまであなたに忠実であることです。
神様、私が信仰を公言しつつ、主を口づけによって裏切り、
ついに火の池に投げ込まれることがないようにしてください。
木曜日はイエスさまが弟子たちとの最後の晩餐を行い、
その場で弟子たちの足を自らお洗いになったことを記念する「洗足木曜日」。
最後の晩餐の聖書の箇所・・・・いつも聖餐式の時に読み上げられる慣れ親しんだ箇所です。
『イエスは言われた。
「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、
この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、
わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。
「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、
わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。
わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
人の子は、定められたとおりに去って行きます。
しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」』
ルカの福音書22章15〜22節
◆『ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。』ルカの福音書22章48節
「憎む者が口づけしてもてなすよりは……。」
世が笑顔をもってくる時、私たちは警戒しなければならない。
私たちもまた、主のように口づけによって売られるかもしれないからである。
人が信仰を害そうとする時には、必ず表面では深い敬意を見せる。
異端と不信仰の従者、なめらかな顔の偽善者に注意しようではないか。
不義な者には欺かれやすいことを知って、へびのようにさとく、敵の計略を察し、それを避けようではないか。
思慮のない青年は、妖しい女の口づけによって惑わされる。
私たちのたましいが今日の初めから終わりまで、世の「へつらいのくちびる」に動揺させられないように十分に訓練され得るように。
聖霊なる神様。弱い人の子である私が口づけによって売られることのないように守ってください。
しかし、もし私が滅びの子ユダのような憎むべき罪を犯しているとすれば、どうであろう。
私は主イエスの名によって洗礼を受けている。私は目に見える主の教会の会員である。
私は聖餐式に参加する。これらはすべて、私のくちびるをもってする口づけである。
これらに私は誠実であろうか。もしそうでなかったならば、私は卑しい裏切り者である。
私はこの世で他の人たちのように不注意に生きているのに、なお主に従う者だと公言してはいないのか。
もしそうであれば、私は信仰を人々の物笑いの種とし、人々に聖い御名の悪口を言わせることになる。
私の言行がこのように不一致であるならば 私はユダであり
生まれなかったほうがよかったのである。
この点に於いて私は果して旗色を鮮明にすることを望んでいるでしょうか。
主よ。私をそのように守ってください。私を誠実かつ真実な者として下さい。
すべての偽りの道から守ってください。決して救い主を裏切ることがありませんように。
イエス様。私はあなたを愛します。私はしばしばあなたを悲しませました。
しかし私の願いは、死に至るまであなたに忠実であることです。
神様、私が信仰を公言しつつ、主を口づけによって裏切り、
ついに火の池に投げ込まれることがないようにしてください。
2003 06/23 18:47
Category : 日記
日曜日の礼拝説教をGOSPELにアップしていますが 見て頂ける機会を増すという意味で
同じものをb-berryのDiaryにもアップいたします。
今回の説教は牧師先生のお証もありました。私の拙いまとめ方では感動が薄らいでしまいますが、
大変心に響くみことばの解き明かしでした。
礼拝説教 「死んでも大丈夫」
第�Tコリント15章54〜58節
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、
動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
人間の究極的な敵は 死です。
しかし死んだらおしまいではありません。
●1.復活によって、イエス・キリストは人間ではなく神さまだったことがわかり
十字架の死によって 罪の贖いは完全なったのです。
●2.イエス・キリストは死を打ち破ったお方・死を克服できたお方なのです。
十字架を見ましょう。
復活されたので十字架につけられたままではありません。
●3.死んでも大丈夫
イエスさまは初穂として甦られました。
以前の姿とは違う。。。栄光の体に変えられたのです。
初穂とは・・・・甦りの第一号がイエス・キリストです。
次に過去に亡くなった聖徒たち、モーセもエリヤも、たくさんのクリスチャンがいます。
そして、私たちです。・・・・やがて主と同じ 栄光の体に変えられます。
主と共に永遠に生きることが出来るのです。
ですから 死を恐れなくてもいいのです。
キリストに希望を持たない人々にとっては死はすべての終わりのときです。
しかし、信じる私たちクリスチャンにとって 死は終わりではなく
永遠の命の 栄光への入り口に過ぎません。新しい命の始まりです。
イエス・キリストが死に打ち勝って甦られたことにより 主の復活こそ真の希望なのです。
30年前のことになりますが、当時3歳だった私の子供の行方がわからなくなりました。
翌日、団地の浄化槽から死体で発見されたのでした。
30年たった今でもその子の名前を口に出して呼ぶことが出来ません。
本当に苦しくて、苦しくて、
「神さま どうしてこんなことになったのですか?」と。
不思議と神さまに恨み言は言いませんでしたが、家内と共に一生懸命祈りながら聖書を読みました。
そして、第�Tコリント10章13節のみことばが心に刺さりました。
”あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような
試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。”
亡くなった子供は三歳でしたが神さまを信じていました。
亡くなる少し前のこと 風が強い日に 公園の砂場で
「神さま 風を止めてください」と祈っていた姿を家内は見ていました。
3歳のこどもであっても信仰をもてないということは無いのです。ちゃんと分かるのです。
ダビデも同じ体験をしています。
わが子が亡くなる前迄は、泣いて伏して祈ったと聖書にはあります。
しかし、亡くなったという知らせを受けてからは
体を清め着替えをし、しっかりとして姿を現したのです。
これは ”死んだ子供は帰って来ないけれども 自分が子供の所にやがて行ける”
という確信と希望を持ったからです。
ダビデは天国への希望を理解していたのです。
私も子供を亡くしたことで天国がより具体的になりました。
天国で再開するという希望があるというのは何と感謝なことでしょう。
それから神さまを知らずに子供のまま亡くなってしまう子供達がいることを覚えて、子供伝道のビジョンを与えられたのです。
私たちは死んだらおしまいではありません。
死は 新しい命の始まりなのですから・・・・・。
同じものをb-berryのDiaryにもアップいたします。
今回の説教は牧師先生のお証もありました。私の拙いまとめ方では感動が薄らいでしまいますが、
大変心に響くみことばの解き明かしでした。
礼拝説教 「死んでも大丈夫」
第�Tコリント15章54〜58節
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、
動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
人間の究極的な敵は 死です。
しかし死んだらおしまいではありません。
●1.復活によって、イエス・キリストは人間ではなく神さまだったことがわかり
十字架の死によって 罪の贖いは完全なったのです。
●2.イエス・キリストは死を打ち破ったお方・死を克服できたお方なのです。
十字架を見ましょう。
復活されたので十字架につけられたままではありません。
●3.死んでも大丈夫
イエスさまは初穂として甦られました。
以前の姿とは違う。。。栄光の体に変えられたのです。
初穂とは・・・・甦りの第一号がイエス・キリストです。
次に過去に亡くなった聖徒たち、モーセもエリヤも、たくさんのクリスチャンがいます。
そして、私たちです。・・・・やがて主と同じ 栄光の体に変えられます。
主と共に永遠に生きることが出来るのです。
ですから 死を恐れなくてもいいのです。
キリストに希望を持たない人々にとっては死はすべての終わりのときです。
しかし、信じる私たちクリスチャンにとって 死は終わりではなく
永遠の命の 栄光への入り口に過ぎません。新しい命の始まりです。
イエス・キリストが死に打ち勝って甦られたことにより 主の復活こそ真の希望なのです。
30年前のことになりますが、当時3歳だった私の子供の行方がわからなくなりました。
翌日、団地の浄化槽から死体で発見されたのでした。
30年たった今でもその子の名前を口に出して呼ぶことが出来ません。
本当に苦しくて、苦しくて、
「神さま どうしてこんなことになったのですか?」と。
不思議と神さまに恨み言は言いませんでしたが、家内と共に一生懸命祈りながら聖書を読みました。
そして、第�Tコリント10章13節のみことばが心に刺さりました。
”あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような
試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。”
亡くなった子供は三歳でしたが神さまを信じていました。
亡くなる少し前のこと 風が強い日に 公園の砂場で
「神さま 風を止めてください」と祈っていた姿を家内は見ていました。
3歳のこどもであっても信仰をもてないということは無いのです。ちゃんと分かるのです。
ダビデも同じ体験をしています。
わが子が亡くなる前迄は、泣いて伏して祈ったと聖書にはあります。
しかし、亡くなったという知らせを受けてからは
体を清め着替えをし、しっかりとして姿を現したのです。
これは ”死んだ子供は帰って来ないけれども 自分が子供の所にやがて行ける”
という確信と希望を持ったからです。
ダビデは天国への希望を理解していたのです。
私も子供を亡くしたことで天国がより具体的になりました。
天国で再開するという希望があるというのは何と感謝なことでしょう。
それから神さまを知らずに子供のまま亡くなってしまう子供達がいることを覚えて、子供伝道のビジョンを与えられたのです。
私たちは死んだらおしまいではありません。
死は 新しい命の始まりなのですから・・・・・。
2003 06/23 18:46
Category : 日記
受難日の聖書日課
◆『”どくろと呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。
犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。』ルカの福音書23章33節
ゴルゴダの丘
慰めの丘はどくろの丘である。慰めの家は十字架の木で造られている。
王の祝福の宮は裂かれた岩(それは主の脇腹を刺した槍で裂かれた)の上に建てられている。
聖書に記された歴史の中で、カルバリの悲劇ほど魂に喜びを与えるものはない。
この罪の世の暗いときに 御使いの歓喜にもまさる優しい力をもって慰められるとは
なんと不思議なことだろう。
ああ、悲しみに沈む目よ、ベツレヘムの星のあたりよりも 十字架にこそ向けられるように
ゴルゴタの、真昼なのに真夜中のように暗い所から光が輝き、
かつてののろいの木の陰からは野の花が美しく咲く。
水のない乾いた地に、神の恵みは水晶のような清水あふれる泉を掘りだし、
その一滴一滴は人類の苦悩をいやすことができる。
戦いの時を通ったあなたは、慰めを見いだしたのがオリーブ山でもシナイの丘でも
タボルの峰でもなく、ゲツセマネであり、ガバタであり、ゴルゴタであったことを告白するだろう。
ゲツセマネの苦菜がしばしばあなたのいのちの苦味を取り、ガバタのむちは心労を追い散らし、
カルバリの苦しみは、他のすべての苦痛を除く。
こうして、カルバリの苦しみは私たちに、他のものと比べることのできない豊かな慰めを与える。
もしキリストが死なれなかったとすれば、私たちは、
決してキリストの愛の高さ、深さを知らなかったであろう。
また父なる神が御子を与えて死なせられなかったならば、
その深い愛をさぐることができなかったであろう。
私たちが日々受けるあわれみは、すべて愛を歌っている。
それはさながら、耳をあてると故郷の深い海のささやきが聞こえる貝がらに似ている。
しかし私たちが、海そのものの音を開こうと願うなら、
日々の祝福を考えるだけでなく、十字架を見上げなければならない。
愛を知ろうと願う者は、カルバリに退き、そこで死なれた悲しみの人を見なければならない。
By Charles Haddon Spurgeon
◆『”どくろと呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。
犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。』ルカの福音書23章33節
ゴルゴダの丘
慰めの丘はどくろの丘である。慰めの家は十字架の木で造られている。
王の祝福の宮は裂かれた岩(それは主の脇腹を刺した槍で裂かれた)の上に建てられている。
聖書に記された歴史の中で、カルバリの悲劇ほど魂に喜びを与えるものはない。
この罪の世の暗いときに 御使いの歓喜にもまさる優しい力をもって慰められるとは
なんと不思議なことだろう。
ああ、悲しみに沈む目よ、ベツレヘムの星のあたりよりも 十字架にこそ向けられるように
ゴルゴタの、真昼なのに真夜中のように暗い所から光が輝き、
かつてののろいの木の陰からは野の花が美しく咲く。
水のない乾いた地に、神の恵みは水晶のような清水あふれる泉を掘りだし、
その一滴一滴は人類の苦悩をいやすことができる。
戦いの時を通ったあなたは、慰めを見いだしたのがオリーブ山でもシナイの丘でも
タボルの峰でもなく、ゲツセマネであり、ガバタであり、ゴルゴタであったことを告白するだろう。
ゲツセマネの苦菜がしばしばあなたのいのちの苦味を取り、ガバタのむちは心労を追い散らし、
カルバリの苦しみは、他のすべての苦痛を除く。
こうして、カルバリの苦しみは私たちに、他のものと比べることのできない豊かな慰めを与える。
もしキリストが死なれなかったとすれば、私たちは、
決してキリストの愛の高さ、深さを知らなかったであろう。
また父なる神が御子を与えて死なせられなかったならば、
その深い愛をさぐることができなかったであろう。
私たちが日々受けるあわれみは、すべて愛を歌っている。
それはさながら、耳をあてると故郷の深い海のささやきが聞こえる貝がらに似ている。
しかし私たちが、海そのものの音を開こうと願うなら、
日々の祝福を考えるだけでなく、十字架を見上げなければならない。
愛を知ろうと願う者は、カルバリに退き、そこで死なれた悲しみの人を見なければならない。
By Charles Haddon Spurgeon
2003 06/23 18:44
Category : 日記
◆『さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方、
マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。』 マタイ28章1節
どのようにして主イエスとの交わりができるか、マグダラのマリヤから学ぼうではないか。
どのようにして、彼女がそれを求めたかに注意せよ。
彼女は早朝に救い主を求めた。もしあなたがキリストを待つことができるならば、
そして主と交わることのできる時を気長に待っているならば、
あなたは決して主と交わることはできない。
主と交わるのにふさわしい心は、飢え渇いた心だからである。
彼女はまた、非常な大胆さをもって主を求めた。
他の弟子たちは墓から逃げた。驚き震えていた。
しかし、マリヤは「墓のところにたたずんでいた」と記されている。
もしキリストと共にありたいと望むならば、大胆に主を求めよ。
何ものにも妨げられてはならない。
彼女はキリストを忠実に求めた。彼女は墓に立っていた。
ある人々は生ける救い主のそばに立っていることすら困難である。
しかし彼女は死せる救い主のそばに立っていた。
私たちも、このようにキリストを求めよう。
主に関係ある些細なものにも愛着を覚え、他のすべての者が主を捨てても、
忠実に踏みとどまろう。
さらに、彼女が熱心にイエスを求めたことに注意せよ。
彼女は「泣きながら」立っていたとある。
その涙が救い主をとらえ、彼女の前に現れてくださったと見ることもできよう。
もしあなたがイエスの臨在を願うならば、そのために泣け。
主が来られて、「あなたはわたしの愛する者」と言われなければ満足できないと言うなら、
あなたはただちに主の御声を聞くであろう。
最後に、彼女は救い主だけを求めた。
キリストがあなたの唯一の愛の対象であるならば、
あなたの心がキリスト以外のすべてのものを追い出したならば、
あなたは遠からず、主のご臨在の慰めを受けるであろう。
マグダラのマリヤは非常に主を愛していたために、このように求めた。
私たちもマリヤのような強い愛をもとう。
私たちの心も、彼女のようにキリストに満たされ、
私たちの愛も、彼女のようにキリスト以外の何ものをもっても満足することのないように。
主よ。今夜あなた自身を私たちに現してください。 BY Charles Haddon Spurgeon
マグダラのマリヤと、ほかのマリヤが墓を見に来た。』 マタイ28章1節
どのようにして主イエスとの交わりができるか、マグダラのマリヤから学ぼうではないか。
どのようにして、彼女がそれを求めたかに注意せよ。
彼女は早朝に救い主を求めた。もしあなたがキリストを待つことができるならば、
そして主と交わることのできる時を気長に待っているならば、
あなたは決して主と交わることはできない。
主と交わるのにふさわしい心は、飢え渇いた心だからである。
彼女はまた、非常な大胆さをもって主を求めた。
他の弟子たちは墓から逃げた。驚き震えていた。
しかし、マリヤは「墓のところにたたずんでいた」と記されている。
もしキリストと共にありたいと望むならば、大胆に主を求めよ。
何ものにも妨げられてはならない。
彼女はキリストを忠実に求めた。彼女は墓に立っていた。
ある人々は生ける救い主のそばに立っていることすら困難である。
しかし彼女は死せる救い主のそばに立っていた。
私たちも、このようにキリストを求めよう。
主に関係ある些細なものにも愛着を覚え、他のすべての者が主を捨てても、
忠実に踏みとどまろう。
さらに、彼女が熱心にイエスを求めたことに注意せよ。
彼女は「泣きながら」立っていたとある。
その涙が救い主をとらえ、彼女の前に現れてくださったと見ることもできよう。
もしあなたがイエスの臨在を願うならば、そのために泣け。
主が来られて、「あなたはわたしの愛する者」と言われなければ満足できないと言うなら、
あなたはただちに主の御声を聞くであろう。
最後に、彼女は救い主だけを求めた。
キリストがあなたの唯一の愛の対象であるならば、
あなたの心がキリスト以外のすべてのものを追い出したならば、
あなたは遠からず、主のご臨在の慰めを受けるであろう。
マグダラのマリヤは非常に主を愛していたために、このように求めた。
私たちもマリヤのような強い愛をもとう。
私たちの心も、彼女のようにキリストに満たされ、
私たちの愛も、彼女のようにキリスト以外の何ものをもっても満足することのないように。
主よ。今夜あなた自身を私たちに現してください。 BY Charles Haddon Spurgeon
2003 06/23 18:40
Category : 日記
今夜の聖書日課
聖書の中で詩篇と箴言は、毎日少しずつ、くりかえし続けて読むと 心にストーンと降りてきて
知らず知らずのうちに 心にみことば蓄えられていきます。
短いですけれども 本当に知恵に溢れていて 聖書は初めてという方にも一番分かっていただけるのでは。と思います。
久しぶりに 箴言のみことば「今日の知恵・明日の知恵」からです。
◆平 安 の 秘 訣
『わが子よ
私のおしえを忘れるな。
私の命令を心に留めよ。
そうすれば
あなたに長い日と
いのちの年と平安が
増し加えられる。』
箴言31−2
ある哲学者は言いました。
「現代人は、ただ一つのことを除いて何でもできるようになった。その一つとは、魂の平安を得ることである。」
現代人は四つの不安を持っています。
● 今にも死ぬのではないか、死んだらどうなるかという死の不安。
● いつか失敗して生活に困るのではないかという将来の生活の不安。
● 一番近くて親しくあるべき人とうまくやっていけない人間関係の不安・・・。
愛されない・愛せないことの不安。
● 悪や罪があばかれて、はずかしめや罰を受けたりするのではないかという罪悪の恐れと不安。
心にほんとうの平安があり、しかもそれが増し加わっていくのは、この上なく望ましいことです。
それは、神を知り、神を恐れ、神の命令を守り、神と近い生活をする人に与えられます。
ダビデの詩篇103篇には、神に従って歩む生活の中にある、こんなにいくつもの平安の姿が描かれています。
・ 咎がゆるされる。
・ 病がいやされる。
・ 神の恵みと愛に満たされる。
・ すべての良いもので満たされる。
・ 若さは鷲のように新しくなる。
ほんとうに心に神を迎えていく時に、四つの不安が取り除かれるばかりでなく、
神の平安が増し加わってくるのです。
そのような平安を受ける者になりたいと思います。 アーメン
聖書の中で詩篇と箴言は、毎日少しずつ、くりかえし続けて読むと 心にストーンと降りてきて
知らず知らずのうちに 心にみことば蓄えられていきます。
短いですけれども 本当に知恵に溢れていて 聖書は初めてという方にも一番分かっていただけるのでは。と思います。
久しぶりに 箴言のみことば「今日の知恵・明日の知恵」からです。
◆平 安 の 秘 訣
『わが子よ
私のおしえを忘れるな。
私の命令を心に留めよ。
そうすれば
あなたに長い日と
いのちの年と平安が
増し加えられる。』
箴言31−2
ある哲学者は言いました。
「現代人は、ただ一つのことを除いて何でもできるようになった。その一つとは、魂の平安を得ることである。」
現代人は四つの不安を持っています。
● 今にも死ぬのではないか、死んだらどうなるかという死の不安。
● いつか失敗して生活に困るのではないかという将来の生活の不安。
● 一番近くて親しくあるべき人とうまくやっていけない人間関係の不安・・・。
愛されない・愛せないことの不安。
● 悪や罪があばかれて、はずかしめや罰を受けたりするのではないかという罪悪の恐れと不安。
心にほんとうの平安があり、しかもそれが増し加わっていくのは、この上なく望ましいことです。
それは、神を知り、神を恐れ、神の命令を守り、神と近い生活をする人に与えられます。
ダビデの詩篇103篇には、神に従って歩む生活の中にある、こんなにいくつもの平安の姿が描かれています。
・ 咎がゆるされる。
・ 病がいやされる。
・ 神の恵みと愛に満たされる。
・ すべての良いもので満たされる。
・ 若さは鷲のように新しくなる。
ほんとうに心に神を迎えていく時に、四つの不安が取り除かれるばかりでなく、
神の平安が増し加わってくるのです。
そのような平安を受ける者になりたいと思います。 アーメン
2003 06/23 18:39
Category : 日記
◆今日の聖書日課
私が いつも励まされ続けているみことばです。
かなり古びてしまっていますが、我家の玄関には洗礼を受けたときに頂いたこのヘブル書の聖句(タペストリー)が掛けられています。
『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』 ヘブル13章5節
約束はすべて個人的に解釈すべきではない。神がだれか一人の聖徒に語られたことは、
すべての者に語られたのである。
神がある者のために泉を開かれたならば、それはすべての者に飲ませるためである。
神が穀倉を開いて与えられる時には、だれか一人の飢えた者のためであることもあるが、
すべて飢えている聖徒は来て、それを食べることができる。
主にある友よ。神がアブラハムに語られたか、モーセに語られたかは問題ではない。
神は約束を受けた者のすえであるあなたにそれを与えられた。
あなたにとって高すぎるというような高遠な祝福はなく、広すぎるというほど広大な恵みもない。
あなたの目を上げて、北と南と東と西を見回せ。これはすべてあなたのものである。
ピスガの頂に登って神の約束の果てを望み見よ。これはみなあなたの領土である。
生ける水の川の流れの中で、あなたの飲んではならないものは一滴もない。その地に乳と蜜が流れているなら、その蜜を食べ、その乳を飲め。みなあなたのものだからである。
大胆に信ぜよ。
主が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われたからである。
この約束において、神はその民にすべてを与えられたのである。「わたしは決してあなたを離れない。」それなら、神のご性質のうち、私たちに示されないというものはないのである。
●神は全能であるか。神はご自身を信頼する者のためにその力を現される。
●神は愛であるか。それなら、神はいつくしみをもって私たちをあわれまれる。
神のご性質を形成している種々の属性は、ことごとく私たちのために傾けられるのである。
一言で言えば、あなたの欠乏、あなたの要求、あなたが一時的にまた永久に要するもの、生きているもの、死んでいるもの、この世のもの、次の世のもの、現在のもの、復活の朝のもの、また天上にあるもののうちで、この聖句「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」の中に含まれていないものは一つもないのです。
私が いつも励まされ続けているみことばです。
かなり古びてしまっていますが、我家の玄関には洗礼を受けたときに頂いたこのヘブル書の聖句(タペストリー)が掛けられています。
『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』 ヘブル13章5節
約束はすべて個人的に解釈すべきではない。神がだれか一人の聖徒に語られたことは、
すべての者に語られたのである。
神がある者のために泉を開かれたならば、それはすべての者に飲ませるためである。
神が穀倉を開いて与えられる時には、だれか一人の飢えた者のためであることもあるが、
すべて飢えている聖徒は来て、それを食べることができる。
主にある友よ。神がアブラハムに語られたか、モーセに語られたかは問題ではない。
神は約束を受けた者のすえであるあなたにそれを与えられた。
あなたにとって高すぎるというような高遠な祝福はなく、広すぎるというほど広大な恵みもない。
あなたの目を上げて、北と南と東と西を見回せ。これはすべてあなたのものである。
ピスガの頂に登って神の約束の果てを望み見よ。これはみなあなたの領土である。
生ける水の川の流れの中で、あなたの飲んではならないものは一滴もない。その地に乳と蜜が流れているなら、その蜜を食べ、その乳を飲め。みなあなたのものだからである。
大胆に信ぜよ。
主が「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」と言われたからである。
この約束において、神はその民にすべてを与えられたのである。「わたしは決してあなたを離れない。」それなら、神のご性質のうち、私たちに示されないというものはないのである。
●神は全能であるか。神はご自身を信頼する者のためにその力を現される。
●神は愛であるか。それなら、神はいつくしみをもって私たちをあわれまれる。
神のご性質を形成している種々の属性は、ことごとく私たちのために傾けられるのである。
一言で言えば、あなたの欠乏、あなたの要求、あなたが一時的にまた永久に要するもの、生きているもの、死んでいるもの、この世のもの、次の世のもの、現在のもの、復活の朝のもの、また天上にあるもののうちで、この聖句「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」の中に含まれていないものは一つもないのです。
2003 06/23 18:36
Category : 日記
聖書日課・・・「今日の知恵・明日の知恵より」
◆『愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。
これはいったいどうしたことか。』 箴言17-16
これは、当時のイスラエルに見られた、有名な先生のもとに
弟子になろうとして志願者が押しかける姿を言っているのだと、ある本では注釈していました。
見当はずれかもしれませんが、日本での裏口入学の風景を、私は連想しました。
よい学校へ入り、よい会社に就職すれば幸福なよい生活ができる。
そのためには金の力を借りてでも、よい学校に入学させなくては、こういう人生哲学が、
裏口入学の後ろにあります。
この哲学には二つの誤りというか、落とし穴があるのではないでしょうか。
○第一は、幸福の万能薬を求める間違いです。桃が枝に実るからといって、枝だけを取っていってもむだです。
財布を神棚にあげて拝んでもどうにもなりません。
A・B・シンプソンは、こう歌いました。
「かつては 我 よきものを求めて 主を忘れたり
たまものより 癒しより 与え主ぞ さらによき」(聖歌598番)
愛を喜び、平和といのちの源である神に結びついて生きる時、
私たちの人生も、愛と喜び、平和といのちの実が結ぶのです。
イエス・キリストは言われました。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます」 ヨハネ15−5
幸福の本体は物でなく、お方(パーソン)なのです。
○第二の間違いは、幸福を金の力や努力で買おうとし、取り引きしようとする間違いです。
よく考えてみましょう。人生で一番大切な根本的なものは、
努力や金で買うものではありません。
手足も妻子もいのちも愛も、みな与えられたものです。
信仰と感謝をもって、ただで受けるほかありません。
悔い改めて神を信じ、神に手をさし伸べる時、無尽蔵の恵みと祝福が流れてくるのです。
父なる神様 主の御名を心から賛美します。
箴言のみことばを感謝します。
主よ 私にとって本当に大切なものは何であるか、本当に必要なものは 何であるかを学びました。
どうぞ、この世の空しいものに心を奪われることがありませんように、守ってください。
主の み胸に叶う行い、歩みが出来ますように、自分の想いのままに歩むことがありませんように、導き続けて下さい。
イエス・キリストのお名前を通して祈ります。アーメン
◆『愚かな者が思慮もないのに、知恵を買おうとして、手に代金を持っている。
これはいったいどうしたことか。』 箴言17-16
これは、当時のイスラエルに見られた、有名な先生のもとに
弟子になろうとして志願者が押しかける姿を言っているのだと、ある本では注釈していました。
見当はずれかもしれませんが、日本での裏口入学の風景を、私は連想しました。
よい学校へ入り、よい会社に就職すれば幸福なよい生活ができる。
そのためには金の力を借りてでも、よい学校に入学させなくては、こういう人生哲学が、
裏口入学の後ろにあります。
この哲学には二つの誤りというか、落とし穴があるのではないでしょうか。
○第一は、幸福の万能薬を求める間違いです。桃が枝に実るからといって、枝だけを取っていってもむだです。
財布を神棚にあげて拝んでもどうにもなりません。
A・B・シンプソンは、こう歌いました。
「かつては 我 よきものを求めて 主を忘れたり
たまものより 癒しより 与え主ぞ さらによき」(聖歌598番)
愛を喜び、平和といのちの源である神に結びついて生きる時、
私たちの人生も、愛と喜び、平和といのちの実が結ぶのです。
イエス・キリストは言われました。
「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます」 ヨハネ15−5
幸福の本体は物でなく、お方(パーソン)なのです。
○第二の間違いは、幸福を金の力や努力で買おうとし、取り引きしようとする間違いです。
よく考えてみましょう。人生で一番大切な根本的なものは、
努力や金で買うものではありません。
手足も妻子もいのちも愛も、みな与えられたものです。
信仰と感謝をもって、ただで受けるほかありません。
悔い改めて神を信じ、神に手をさし伸べる時、無尽蔵の恵みと祝福が流れてくるのです。
父なる神様 主の御名を心から賛美します。
箴言のみことばを感謝します。
主よ 私にとって本当に大切なものは何であるか、本当に必要なものは 何であるかを学びました。
どうぞ、この世の空しいものに心を奪われることがありませんように、守ってください。
主の み胸に叶う行い、歩みが出来ますように、自分の想いのままに歩むことがありませんように、導き続けて下さい。
イエス・キリストのお名前を通して祈ります。アーメン
2003 06/23 18:10
Category : 日記
毎日蒸し暑い日が続きます。不安定な気候と疲れがピークに達している・・・自覚あり。
さて昨日 あのオウム裁判 地下鉄、松本両サリン・坂本弁護士殺害・・・など13の事件の論告求刑公判がありました。
8年前の事件・・・・もうかなり遠い過去の出来事のような感じさえします。
少しずつ記憶も薄れてきて 自分の中で風化しつつある事件でした。
否、決して風化させてはいけない事件です。
当時は連日のように報道されていましたから 嫌でも目と耳から情報が入ってきていました。
事件後 しばらくして出版された 村上春樹著「アンダーグラウンド」を 今もう一度読み返しています。
改めてこれ程の事件は未だかつてなかった・・・わが国においては犯罪史上 稀に見る凶悪な犯罪だと思います。
書き出すと止まりませんが、怒りを何処にぶつければいいのでしょうか。
検察側、松本被告に死刑を求刑・・・・当然です。無期懲役の方が精神的には極刑という考え方もありますが・・・・・。死刑以上の極刑が存在しないのですから。
それよりも何よりやり切れないと思うことは たくさんの被害者の方々には(亡くなった方々も含めて)国からの保障は何もなされていないこと、保証金はゼロという事実です。
それに引き換え、松本被告に対しては、国選弁護人が付き、国庫金から搬出された弁護士費用(現在まで)・・・・驚くことに四億円、四億円ですよ。何ということでしょう
これから何年かかって結審するのかはわかりませんが それまで松本被告の衣・食・住も税金で・・・・・ということでしょう。もう、言葉になりません。
気がかりなことは、未だにこの宗教団体は名前を変え存在し、活動をしているという不気味さです。
現在に至っても入信する人が何故いるのでしょうか。理解できません。
あぁ、気が滅入ってきました。今夜はこの辺で おやすみなさい。
「主よ。彼らの手のわざに応じて、彼らに報復し、横着な心を彼らに与え、
彼らに、あなたの のろいを下してください。
主よ。御怒りをもって彼らを追い、天の下から彼らを根絶やしにしてください。」
哀歌3章64-66節
2003 4/26 23:15 編集
さて昨日 あのオウム裁判 地下鉄、松本両サリン・坂本弁護士殺害・・・など13の事件の論告求刑公判がありました。
8年前の事件・・・・もうかなり遠い過去の出来事のような感じさえします。
少しずつ記憶も薄れてきて 自分の中で風化しつつある事件でした。
否、決して風化させてはいけない事件です。
当時は連日のように報道されていましたから 嫌でも目と耳から情報が入ってきていました。
事件後 しばらくして出版された 村上春樹著「アンダーグラウンド」を 今もう一度読み返しています。
改めてこれ程の事件は未だかつてなかった・・・わが国においては犯罪史上 稀に見る凶悪な犯罪だと思います。
書き出すと止まりませんが、怒りを何処にぶつければいいのでしょうか。
検察側、松本被告に死刑を求刑・・・・当然です。無期懲役の方が精神的には極刑という考え方もありますが・・・・・。死刑以上の極刑が存在しないのですから。
それよりも何よりやり切れないと思うことは たくさんの被害者の方々には(亡くなった方々も含めて)国からの保障は何もなされていないこと、保証金はゼロという事実です。
それに引き換え、松本被告に対しては、国選弁護人が付き、国庫金から搬出された弁護士費用(現在まで)・・・・驚くことに四億円、四億円ですよ。何ということでしょう
これから何年かかって結審するのかはわかりませんが それまで松本被告の衣・食・住も税金で・・・・・ということでしょう。もう、言葉になりません。
気がかりなことは、未だにこの宗教団体は名前を変え存在し、活動をしているという不気味さです。
現在に至っても入信する人が何故いるのでしょうか。理解できません。
あぁ、気が滅入ってきました。今夜はこの辺で おやすみなさい。
「主よ。彼らの手のわざに応じて、彼らに報復し、横着な心を彼らに与え、
彼らに、あなたの のろいを下してください。
主よ。御怒りをもって彼らを追い、天の下から彼らを根絶やしにしてください。」
哀歌3章64-66節
2003 4/26 23:15 編集
2003 06/23 18:09
Category : 日記
今日の聖書日課
◆神は、罪を知らない方を、
私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、
神の義となるためです。
�Uコリント5章21節
悲しんでいるクリスチャンよ。なぜ泣いているのか。あなたは自分の腐敗を嘆くのか。
しかし、あなたの完全な主を仰ぎ、あなたが主にあって完全であることを覚えよ。
あなたは神の目から見れば、かつて一度も罪を犯さなかったように完全である。
否、そればかりでなく、私たちの義である主は、あなたに神の衣をまとわせられたのである。
だからあなたは人の義以上のもの、すなわち神の義をもっている。
生来の罪と堕落とを悲しむ者よ。あなたの罪は決してあなたを罪としないことを覚えよ。
あなたは罪を憎むことを知ったと同時に、罪があなたになくキリストの頭に置かれたことをも知った。
あなたは自分で立っているのではなく、キリストのうちにあって立つ。
自己の力によって受け入れられたのではなく、主にあって受け入れられた。
あなたは罪の身を嘆くが、すべての汚れを除かれて御座の前に立つ時と同じように、
今 神に受け入れられている。
あなたに勧める。
「キリストにあって完全」というこの尊い思想を銘記せよ。
あなたは「キリストにあって、満ち満ちている。」
救い主の衣をまとっているあなたは救い主のように聖い。
「罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、
私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
主にある友よ。心から喜べ。愛する御子によって受け入れられているのに、何を恐れることがあろうか。
常に微笑をたたえ、主に近く住み、天の都の郊外に住め。
やがて時が来ると、あなたはイエスの座しておられる所に上げられ、
勝利の後イエスが父なる神の右にお座りになったように、イエスの右にあって統べ治める。
これはみな、神が「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた」からである。
それは「私たちが、この方にあって、神の義となるため」であった。
[ 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。]
ルカ23-31
この暗示に富んでいる聖句には、さまざまな解釈がなされるが、次のように見ると教訓深い。
「もし罪のない身をもって罪人に代わった自分さえこのような苦しみを受けるならば、
枯れ木である罪人自身が、お怒りになっておられる神の御手に陥る時、
その苦しみはいかばかりであろうか。」
神が罪人の位置にイエスをご覧になった時、それを見過ごしにされなかった。
その神が、キリストなく、生まれ変わっていない者をご覧になる時は、まずその者を赦されない。
罪人よ。イエスが敵に捕えられたように、あなたも悪魔によって定められた所に連れ去られる。
イエスは神に捨てられた。罪人の身代わりとなられたイエスが捨てられたとすれば、ましてあなたはどうか。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ 」
なんと恐ろしい叫びであろう。しかしあなたが
「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」
と叫ばなければならないとしたら! その時の答えはこうでなかろうか。
「あなたはわたしのすべての勧めと戒めを捨てた。ゆえにあなたのわざわいの時、
わたしは笑い、恐慌に出会う時、わたしはあざける。」
神がそのひとり子さえ赦されなかったとすれば、どうしてあなたを赦されることがあろうか。
あなたの良心があらゆる恐怖をもってあなたを打つ時、そのむちは焼け火ばしのようであろう。
罪人よ。「剣よ。目をさましてわたしを拒んだ者を攻めよ。彼に永遠の痛手を与えよ」
と言われる時、あなたは立ち得るだろうか。
イエスは顔につばきをかけられた。
それゆえ罪人よ。あなたの受ける恥辱はどれだけのものであろうか。
私たちのために死なれたイエスの頭上に降った多くの悲哀は一言では言い表せない。
それゆえ、あなたが現在の状態で死んだら、どのような苦悩の大波が襲うかは言い表せない。
あなたはそのような死に方をするかもしれない。
キリストの苦しみとその傷と御血潮によって、来るべき怒りを招かないようにせよ。
神の御子を信ぜよ。そうすれば決して死ぬことがない。
BY Charles Haddon Spurgeon
◆神は、罪を知らない方を、
私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、
神の義となるためです。
�Uコリント5章21節
悲しんでいるクリスチャンよ。なぜ泣いているのか。あなたは自分の腐敗を嘆くのか。
しかし、あなたの完全な主を仰ぎ、あなたが主にあって完全であることを覚えよ。
あなたは神の目から見れば、かつて一度も罪を犯さなかったように完全である。
否、そればかりでなく、私たちの義である主は、あなたに神の衣をまとわせられたのである。
だからあなたは人の義以上のもの、すなわち神の義をもっている。
生来の罪と堕落とを悲しむ者よ。あなたの罪は決してあなたを罪としないことを覚えよ。
あなたは罪を憎むことを知ったと同時に、罪があなたになくキリストの頭に置かれたことをも知った。
あなたは自分で立っているのではなく、キリストのうちにあって立つ。
自己の力によって受け入れられたのではなく、主にあって受け入れられた。
あなたは罪の身を嘆くが、すべての汚れを除かれて御座の前に立つ時と同じように、
今 神に受け入れられている。
あなたに勧める。
「キリストにあって完全」というこの尊い思想を銘記せよ。
あなたは「キリストにあって、満ち満ちている。」
救い主の衣をまとっているあなたは救い主のように聖い。
「罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、
私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
主にある友よ。心から喜べ。愛する御子によって受け入れられているのに、何を恐れることがあろうか。
常に微笑をたたえ、主に近く住み、天の都の郊外に住め。
やがて時が来ると、あなたはイエスの座しておられる所に上げられ、
勝利の後イエスが父なる神の右にお座りになったように、イエスの右にあって統べ治める。
これはみな、神が「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた」からである。
それは「私たちが、この方にあって、神の義となるため」であった。
[ 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。]
ルカ23-31
この暗示に富んでいる聖句には、さまざまな解釈がなされるが、次のように見ると教訓深い。
「もし罪のない身をもって罪人に代わった自分さえこのような苦しみを受けるならば、
枯れ木である罪人自身が、お怒りになっておられる神の御手に陥る時、
その苦しみはいかばかりであろうか。」
神が罪人の位置にイエスをご覧になった時、それを見過ごしにされなかった。
その神が、キリストなく、生まれ変わっていない者をご覧になる時は、まずその者を赦されない。
罪人よ。イエスが敵に捕えられたように、あなたも悪魔によって定められた所に連れ去られる。
イエスは神に捨てられた。罪人の身代わりとなられたイエスが捨てられたとすれば、ましてあなたはどうか。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ 」
なんと恐ろしい叫びであろう。しかしあなたが
「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」
と叫ばなければならないとしたら! その時の答えはこうでなかろうか。
「あなたはわたしのすべての勧めと戒めを捨てた。ゆえにあなたのわざわいの時、
わたしは笑い、恐慌に出会う時、わたしはあざける。」
神がそのひとり子さえ赦されなかったとすれば、どうしてあなたを赦されることがあろうか。
あなたの良心があらゆる恐怖をもってあなたを打つ時、そのむちは焼け火ばしのようであろう。
罪人よ。「剣よ。目をさましてわたしを拒んだ者を攻めよ。彼に永遠の痛手を与えよ」
と言われる時、あなたは立ち得るだろうか。
イエスは顔につばきをかけられた。
それゆえ罪人よ。あなたの受ける恥辱はどれだけのものであろうか。
私たちのために死なれたイエスの頭上に降った多くの悲哀は一言では言い表せない。
それゆえ、あなたが現在の状態で死んだら、どのような苦悩の大波が襲うかは言い表せない。
あなたはそのような死に方をするかもしれない。
キリストの苦しみとその傷と御血潮によって、来るべき怒りを招かないようにせよ。
神の御子を信ぜよ。そうすれば決して死ぬことがない。
BY Charles Haddon Spurgeon
2003 06/23 18:08
Category : 日記
本日の聖書日課、ゲッセマネにおいて、主が祈っておられる様がまざまざと目の前に現れるような聖書の箇所です。
◆「汗が血のしずくのように地に落ちた。」ルカ22章44節
誘惑に対する主の戦いから起こる心の緊張は、主のおからだを極度に緊張させ、その毛穴が血のしずくを地上に落とさせるに至った。
これは罪の重荷がいかに恐ろしいものであったかを証明するものであり、このために救い主は血の大汗をしぼり出されたのであった。
これは主の強い愛の力を証しするものである。
昔アイザク・アンブロースは、傷をつけないでも、したたり出る樟脳の木の樹液が常に最上質であることを発見したそうである。
この樟脳の木は、ごつごつしたむちに打たれたり、十字架の釘によって刺し貫かれたりした時に麗しい香りを放つが、最上の香りを放つのは、むちも釘もなく傷つけられなかった時である。
これはさらにキリストのお苦しみが自発的であったことを示す。
なぜなら、槍で刺されないのに血が自然に流れ出たからである。ひるを使ったり、ナイフを当てたりする必要はない。血は自然にほとばしり出る。
支配者が、「わきいでよ、井戸」と命じる必要もなく、自然に深紅の血潮が流れ出たのである。
人が大きな苦痛に会う時、血は明らかに心臓に向かって集まる。ほおは青ざめ、気は遠くなり、血はあたかも試練の中にある内なる人に栄養を与えるかのように、内へ内へと集まる。
しかし、苦痛の中にある私たちの救い主を見よ。主は自分自身を全く忘れ、あまりの苦痛に、血はご自身を助けるため心臓に集中する代わりに、外に流れ出て地を潤すのであった。
キリストの苦痛は、ご自身を地上に注ぎ出すことによって、人類に与えられた賜物の完全さを描き出している。
私たちは、主が経験された格闘がいかに激しかったかを見ないであろうか。
そして「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」との声を聞かないであろうか。
私たちの信仰の大使徒、大祭司を見よ。主は私たちのたましいの大敵に屈服するよりも、むしろ血の汗を流して戦われたのである。
By Charles Haddon Spurgeon
◆「汗が血のしずくのように地に落ちた。」ルカ22章44節
誘惑に対する主の戦いから起こる心の緊張は、主のおからだを極度に緊張させ、その毛穴が血のしずくを地上に落とさせるに至った。
これは罪の重荷がいかに恐ろしいものであったかを証明するものであり、このために救い主は血の大汗をしぼり出されたのであった。
これは主の強い愛の力を証しするものである。
昔アイザク・アンブロースは、傷をつけないでも、したたり出る樟脳の木の樹液が常に最上質であることを発見したそうである。
この樟脳の木は、ごつごつしたむちに打たれたり、十字架の釘によって刺し貫かれたりした時に麗しい香りを放つが、最上の香りを放つのは、むちも釘もなく傷つけられなかった時である。
これはさらにキリストのお苦しみが自発的であったことを示す。
なぜなら、槍で刺されないのに血が自然に流れ出たからである。ひるを使ったり、ナイフを当てたりする必要はない。血は自然にほとばしり出る。
支配者が、「わきいでよ、井戸」と命じる必要もなく、自然に深紅の血潮が流れ出たのである。
人が大きな苦痛に会う時、血は明らかに心臓に向かって集まる。ほおは青ざめ、気は遠くなり、血はあたかも試練の中にある内なる人に栄養を与えるかのように、内へ内へと集まる。
しかし、苦痛の中にある私たちの救い主を見よ。主は自分自身を全く忘れ、あまりの苦痛に、血はご自身を助けるため心臓に集中する代わりに、外に流れ出て地を潤すのであった。
キリストの苦痛は、ご自身を地上に注ぎ出すことによって、人類に与えられた賜物の完全さを描き出している。
私たちは、主が経験された格闘がいかに激しかったかを見ないであろうか。
そして「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません」との声を聞かないであろうか。
私たちの信仰の大使徒、大祭司を見よ。主は私たちのたましいの大敵に屈服するよりも、むしろ血の汗を流して戦われたのである。
By Charles Haddon Spurgeon
2003 06/23 18:07
Category : 日記
聖書日課
生 命 と 死
『なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。
わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。』
箴言8章35―36節)
・「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく……」
・「わたしを見失う者は自分自身をそこない……死を愛する」
何というコントラストでしょう。あなたは、日々生き生きと恵みに満ちて生きたいでしょうか。
それとも、自分の身をすり減らし死んだように生きたいでしょうか。
聞くのもやぼかもしれません。しかし、「自分の身をすり減らして死んでいく人」が、中年の男性のうちにだんだん多くなっているそうです。
中年の男性は仕事場では、責任の圧力と人間関係のしがらみで疲れはて、人を動かす自信を喪失して、自分に絶望しています。
「家庭に帰っても、女房・子どもはテレビを見て楽しそうにしているが、自分の姿を見ると、笑い声も話し声もぴたっとやんで一瞬しらける。いったい、おれはどこへ行ったらいいんだ」と言った人がいました。
現代人は疲れているだけでなく、迷っています。自分の生き方が決められません。
どちらへ進んだらよいか分からず、むなしいのです。
生きているのではなく、死につつあると言ったほうがいいのではないでしょうか。
この原因は、教育が足りないからではありません。
日本ほど教育程度の高い国はありません。またこれは、転職脱サラしたら直る問題でもないのです。
「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく」
答えはこれです。
あなたの造り主でありオーナーである神のみこころを無視して、
生き生きと生きられるはずはありません。
イエス・キリストは、あなたのために死んでくださいました。
それほどあなたを愛しておられます。神は、あなたに豊かな祝福を与えたいと思っておられます。
この神を見いだし、神に聞き従うこと、これが根本なのです。
生 命 と 死
『なぜなら、わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただくからだ。
わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。』
箴言8章35―36節)
・「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく……」
・「わたしを見失う者は自分自身をそこない……死を愛する」
何というコントラストでしょう。あなたは、日々生き生きと恵みに満ちて生きたいでしょうか。
それとも、自分の身をすり減らし死んだように生きたいでしょうか。
聞くのもやぼかもしれません。しかし、「自分の身をすり減らして死んでいく人」が、中年の男性のうちにだんだん多くなっているそうです。
中年の男性は仕事場では、責任の圧力と人間関係のしがらみで疲れはて、人を動かす自信を喪失して、自分に絶望しています。
「家庭に帰っても、女房・子どもはテレビを見て楽しそうにしているが、自分の姿を見ると、笑い声も話し声もぴたっとやんで一瞬しらける。いったい、おれはどこへ行ったらいいんだ」と言った人がいました。
現代人は疲れているだけでなく、迷っています。自分の生き方が決められません。
どちらへ進んだらよいか分からず、むなしいのです。
生きているのではなく、死につつあると言ったほうがいいのではないでしょうか。
この原因は、教育が足りないからではありません。
日本ほど教育程度の高い国はありません。またこれは、転職脱サラしたら直る問題でもないのです。
「わたしを見いだす者は、いのちを見いだし、主から恵みをいただく」
答えはこれです。
あなたの造り主でありオーナーである神のみこころを無視して、
生き生きと生きられるはずはありません。
イエス・キリストは、あなたのために死んでくださいました。
それほどあなたを愛しておられます。神は、あなたに豊かな祝福を与えたいと思っておられます。
この神を見いだし、神に聞き従うこと、これが根本なのです。
2003 06/23 18:03
Category : 日記
今夜は水曜祈祷会でした。先週は牧師先生がJECAの全国総会の為 祈祷会は休会でした。
今夜の祈り手は7名・・・・少なかったです。昼の祈祷会はたくさんの祈り手があったのでしょうか。
祈祷会学びは第�T列王記11章から「信仰と挫折」でした。
第 11章 1〜13節 41〜43節
ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、
すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。
この女たちは、主がかつてイスラエル人に、
「あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。
彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。
さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。」
と言われたその国々の者であった。
それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。
彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。
その妻たちが彼の心を転じた。
ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、
彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。
ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。
こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。
当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の忌むべきモレクのために、
エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。
彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、
彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。
主はソロモンに怒りを発せられた。
それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。
主は二度も彼に現われ、このことについて、
ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、
彼は主の命令を守らなかったからである。
それゆえ、主はソロモンに仰せられた。
「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、
わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。
しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、
あなたの子の手からそれを引き裂こう。
ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、
わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。」
41節
ソロモンのその他の業績、彼の行なったすべての事、および彼の知恵、
それはソロモンの業績の書にしるされているではないか。
ソロモンがエルサレムで全イスラエルの王であった期間は四十年であった。
ソロモンは彼の先祖たちとともに眠り、彼の父ダビデの町に葬られた。
彼の子レハブアムが代わって王となった。
●6節 ソロモンは主に従い通さなかった・・・・・これは 神は時々ではなく
いつも従う必要があり そのことを私達に求めておられるということです。
●ソロモンは5・6・7・8節で まことの神を 神としなかった。
間違った結婚をした・・・・偶像礼拝で罪を犯したばかりではなく、
このことはきっかけであって すでに神との関係が崩壊していたということです。
この聖書箇所から学ぶこと
★1)神の恵みと哀れみとを忘れてはならない。
詩篇103編
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
初めにソロモンの求めを神は喜ばれた。
しかし、知恵を与えられ 豊かさのなかで 神の恵みを忘れていった。
私たちも信仰のスタートした そのときを想い立ち返らなければならない。
「苦しんでいたときのほうが 神さまの近くにいたような気がする」
とたくさんの方々が告白されます。
すべてのことを推し進めるのは神さまであり、自分の力でしたり、律法を守ることであったり、
また教会行事をこなすことが信仰生活であると勘違いし、
実は 不信仰極まりない生活をしているのです。
これらはすべて神の恵み、哀れみ故にあることを忘れてしまっているからなのです。
ペテロは「あなた方の信仰がなくならないように祈りました。」といっています。
神さまとの関係・・・・が最も大切であり、ソロモンには それがなかった。
9節以下に
「主は二度も彼に現われ」と警告を発しているにもかかわらず、
ソロモンは命令を守らなかった。
★2)神は間違った方向に行くとき 警告を発する。
神は ソロモンに何度も語りかけておられた。御心がわからなかったのではありません。
わかってるのに 従いたくない・・・・そういう思いがあったからです。
詩篇19篇9〜11
「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。
主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。
蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。
それを守れば、報いは大きい。」
神の裁き、警告の言葉を 詩篇の詩人は好ましいと告白しています。
神に従うことは好ましいことだからではなく、たとえそれが厳しいものであっても
私たちは神に従うことによってしか 正しく、人間らしく生きていくことが出来ないからです。
神に従うことに拠って 神の民(クリスチャン)となっているということがわかるのです。
父なる神様 御名を崇め感謝をいたします。
あなたさまが 語り、警告を発せられているとき どうぞ心を開き、
御心を知る知恵と、素直に従う想いとを与えてください。
いつも主の御恵みと哀れみとを忘れることがありませんように
また信仰に堅く立ち、あなたさまと良い関係を築き、保つことが出来ますように
導いてください。
一言感謝し、救い主イエスさまのお名前によってお祈りします。Amen
今夜の祈り手は7名・・・・少なかったです。昼の祈祷会はたくさんの祈り手があったのでしょうか。
祈祷会学びは第�T列王記11章から「信仰と挫折」でした。
第 11章 1〜13節 41〜43節
ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、
すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。
この女たちは、主がかつてイスラエル人に、
「あなたがたは彼らの中にはいって行ってはならない。
彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。
さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる。」
と言われたその国々の者であった。
それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。
彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。
その妻たちが彼の心を転じた。
ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、
彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。
ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。
こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。
当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の忌むべきモレクのために、
エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。
彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、
彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。
主はソロモンに怒りを発せられた。
それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。
主は二度も彼に現われ、このことについて、
ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、
彼は主の命令を守らなかったからである。
それゆえ、主はソロモンに仰せられた。
「あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、
わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。
しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、
あなたの子の手からそれを引き裂こう。
ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、
わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。」
41節
ソロモンのその他の業績、彼の行なったすべての事、および彼の知恵、
それはソロモンの業績の書にしるされているではないか。
ソロモンがエルサレムで全イスラエルの王であった期間は四十年であった。
ソロモンは彼の先祖たちとともに眠り、彼の父ダビデの町に葬られた。
彼の子レハブアムが代わって王となった。
●6節 ソロモンは主に従い通さなかった・・・・・これは 神は時々ではなく
いつも従う必要があり そのことを私達に求めておられるということです。
●ソロモンは5・6・7・8節で まことの神を 神としなかった。
間違った結婚をした・・・・偶像礼拝で罪を犯したばかりではなく、
このことはきっかけであって すでに神との関係が崩壊していたということです。
この聖書箇所から学ぶこと
★1)神の恵みと哀れみとを忘れてはならない。
詩篇103編
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」
初めにソロモンの求めを神は喜ばれた。
しかし、知恵を与えられ 豊かさのなかで 神の恵みを忘れていった。
私たちも信仰のスタートした そのときを想い立ち返らなければならない。
「苦しんでいたときのほうが 神さまの近くにいたような気がする」
とたくさんの方々が告白されます。
すべてのことを推し進めるのは神さまであり、自分の力でしたり、律法を守ることであったり、
また教会行事をこなすことが信仰生活であると勘違いし、
実は 不信仰極まりない生活をしているのです。
これらはすべて神の恵み、哀れみ故にあることを忘れてしまっているからなのです。
ペテロは「あなた方の信仰がなくならないように祈りました。」といっています。
神さまとの関係・・・・が最も大切であり、ソロモンには それがなかった。
9節以下に
「主は二度も彼に現われ」と警告を発しているにもかかわらず、
ソロモンは命令を守らなかった。
★2)神は間違った方向に行くとき 警告を発する。
神は ソロモンに何度も語りかけておられた。御心がわからなかったのではありません。
わかってるのに 従いたくない・・・・そういう思いがあったからです。
詩篇19篇9〜11
「主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。
主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。
蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。
それを守れば、報いは大きい。」
神の裁き、警告の言葉を 詩篇の詩人は好ましいと告白しています。
神に従うことは好ましいことだからではなく、たとえそれが厳しいものであっても
私たちは神に従うことによってしか 正しく、人間らしく生きていくことが出来ないからです。
神に従うことに拠って 神の民(クリスチャン)となっているということがわかるのです。
父なる神様 御名を崇め感謝をいたします。
あなたさまが 語り、警告を発せられているとき どうぞ心を開き、
御心を知る知恵と、素直に従う想いとを与えてください。
いつも主の御恵みと哀れみとを忘れることがありませんように
また信仰に堅く立ち、あなたさまと良い関係を築き、保つことが出来ますように
導いてください。
一言感謝し、救い主イエスさまのお名前によってお祈りします。Amen
2003 06/23 09:03
Category : 日記
♪豊かな人生の条件(みどりの賛美歌集より)
1.
豊かな人生の条件は 聖書の中に。
歴史の始まる以前から
啓示されています。
まことの神を敬い 罪を悔い改め
まごころ 尽くして キリストに
従うことです。
2.
知識も名誉も財産も はかないものです
自分の努力や才能も 限りがあるでしょう。
まことの神を敬い 罪を悔い改め
まごころ尽くして キリストに従うことです。
3.
本気で条件守るなら あなたの人生は
試練のときでも喜びが あふれてくるでしょう。
まことの神を敬い 罪を悔い改め
まごころ尽くして キリストに従うことです。
4.
豊かな人生の条件を 整える為に
主イエスは 十字架で苦しみを受けられたのです。
まことの神を敬い 罪を悔い改め
まごころ尽くして キリストに従うことです。)
1.
豊かな人生の条件は 聖書の中に。
歴史の始まる以前から
啓示されています。
まことの神を敬い 罪を悔い改め
まごころ 尽くして キリストに
従うことです。
2.
知識も名誉も財産も はかないものです
自分の努力や才能も 限りがあるでしょう。
まことの神を敬い 罪を悔い改め
まごころ尽くして キリストに従うことです。
3.
本気で条件守るなら あなたの人生は
試練のときでも喜びが あふれてくるでしょう。
まことの神を敬い 罪を悔い改め
まごころ尽くして キリストに従うことです。
4.
豊かな人生の条件を 整える為に
主イエスは 十字架で苦しみを受けられたのです。
まことの神を敬い 罪を悔い改め
まごころ尽くして キリストに従うことです。)
2003 06/22 04:48
Category : 日記
我が家のトイレに置いてある「祝福のパン」・・・・・これは みことばのカード(10×7)が入っているパンを模った木箱です。
現在は”箴言”と”伝道者の書”のカードが入っています。
今日はこのカードのみことばに示されたことがありました。
ここのところ気持ちが落ちて感謝と喜びの少ない日々を送っていました。主はそんなわたくしに望んで下さって 今日必要なみ言葉をちゃんと用意して下さったのです。感謝いたします。
「今あることは、遠くて非常に深い。
だれがそれを見きわめることができよう。」
伝道者の書7−24
人の一生は一本の紐のようなものです。
特別なことは何もなかったように見える今日が、何年も先にある日につながっているのです。
今日という日を主の前に生きると、それが将来の恵みになります。
また、これくらいはと犯した小さな罪がある日大きな結果となって返って来るのです。
主よ、わたくしの一生はあなたの御手にあることを信じ、畏れます。
今日という日を誠実に生きるものとしてください。
現在は”箴言”と”伝道者の書”のカードが入っています。
今日はこのカードのみことばに示されたことがありました。
ここのところ気持ちが落ちて感謝と喜びの少ない日々を送っていました。主はそんなわたくしに望んで下さって 今日必要なみ言葉をちゃんと用意して下さったのです。感謝いたします。
「今あることは、遠くて非常に深い。
だれがそれを見きわめることができよう。」
伝道者の書7−24
人の一生は一本の紐のようなものです。
特別なことは何もなかったように見える今日が、何年も先にある日につながっているのです。
今日という日を主の前に生きると、それが将来の恵みになります。
また、これくらいはと犯した小さな罪がある日大きな結果となって返って来るのです。
主よ、わたくしの一生はあなたの御手にあることを信じ、畏れます。
今日という日を誠実に生きるものとしてください。
2003 06/20 23:07
Category : 日記
聖書日課
◆ 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ書53章6節)
これは神の選民のすべてに共通した罪の告白である。彼らはみな堕落していた。
したがって、最初に天国に入った者から最後に入る者まで、異口同音に
「私たちはみな、羊のようにさまよい……」と言うのである。
この告白は、今言ったように普遍的であるが、また個別的でもある。
「おのおの、自分かってな道に向かって行った。」
私たちはみな、個人的に罪をもっている。すべての人は罪人である。
しかし各自は他の人にはない特別な悪をもっている。
真の悔い改めの特徴は、他の悔い改めた人々と同じ仲間になるが、また弧独の立場をもとるということである。
「おのおの、自分かってな道に向かって行った」というのは、各自が自分に与えられた光に対して罪を犯した、言い換えれば、他の人には見られない悪をなしたという告白である。
この告白は無条件である。その力を弱めるようなことばや言いわけのことばは一つもない。
この告白は、自分を義とするすべての訴えの放棄である。それは罪を意識している人々
(憎むべき罪、弁解の余地のない罪を意識している人々)の宣言である。
彼らは反抗の武器をこなごなに打ち砕いて叫ぶ。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と。
しかし、この罪の告白に悲痛な響きはいささかもない。
なぜなら、これに続く節は、この罪の告白を歌としているからである。
「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
これは三つの部分のうち最も哀調を帯びた節であるが、また慰めに満ちあふれている。
不思議にも、苦悩が極度に達するところで、あわれみが支配し、
悲哀がクライマックスに達するところで、疲れたたましいは休息を見いだす。
傷つけられた救い主は、傷ついた心をいやされるのである。
見よ。最もへりくだってする悔い改めは、ただ十字架上のキリストを仰ぎ見ることによって、揺るがない確信に至ることを。
Charles Haddon Spurgeon著 「夕ごとにより」
◆ 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ書53章6節)
これは神の選民のすべてに共通した罪の告白である。彼らはみな堕落していた。
したがって、最初に天国に入った者から最後に入る者まで、異口同音に
「私たちはみな、羊のようにさまよい……」と言うのである。
この告白は、今言ったように普遍的であるが、また個別的でもある。
「おのおの、自分かってな道に向かって行った。」
私たちはみな、個人的に罪をもっている。すべての人は罪人である。
しかし各自は他の人にはない特別な悪をもっている。
真の悔い改めの特徴は、他の悔い改めた人々と同じ仲間になるが、また弧独の立場をもとるということである。
「おのおの、自分かってな道に向かって行った」というのは、各自が自分に与えられた光に対して罪を犯した、言い換えれば、他の人には見られない悪をなしたという告白である。
この告白は無条件である。その力を弱めるようなことばや言いわけのことばは一つもない。
この告白は、自分を義とするすべての訴えの放棄である。それは罪を意識している人々
(憎むべき罪、弁解の余地のない罪を意識している人々)の宣言である。
彼らは反抗の武器をこなごなに打ち砕いて叫ぶ。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と。
しかし、この罪の告白に悲痛な響きはいささかもない。
なぜなら、これに続く節は、この罪の告白を歌としているからである。
「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
これは三つの部分のうち最も哀調を帯びた節であるが、また慰めに満ちあふれている。
不思議にも、苦悩が極度に達するところで、あわれみが支配し、
悲哀がクライマックスに達するところで、疲れたたましいは休息を見いだす。
傷つけられた救い主は、傷ついた心をいやされるのである。
見よ。最もへりくだってする悔い改めは、ただ十字架上のキリストを仰ぎ見ることによって、揺るがない確信に至ることを。
Charles Haddon Spurgeon著 「夕ごとにより」
2003 06/12 08:24
Category : 日記
最近 八木重吉の本を買い求めました。
余計な言葉を削ぎ落とした素朴な詩に感動します。
「八木重吉に出会う本」 (いのちのことば社フォレストブックス) より出ています。
これは1992年発行の「わがよろこびの頌歌はきえず」(いのちのことば社刊)を再編集したものです。
29歳で天に召された重吉の 孤独と哀しさ、信仰に裏打ちされた聖さ、優しさが
心の滴のように書き連ねられています。
大正末期〜昭和初期の作品にもかかわらず 時代を超えて今もなお輝き続け、その洗練された珠玉のことばたちは 疲れた心に平安を与えます。
そこには目には見えないご臨在の主を感じ、深い感動を覚えるのです。私のお勧めの一冊です。
世に花咲かば
神あるを しれよ
世に 無心 なるものあらば
神あるを知れよ
神のこえは
ほそく かすかなりとも
八木 重吉
Photo by hare's
余計な言葉を削ぎ落とした素朴な詩に感動します。
「八木重吉に出会う本」 (いのちのことば社フォレストブックス) より出ています。
これは1992年発行の「わがよろこびの頌歌はきえず」(いのちのことば社刊)を再編集したものです。
29歳で天に召された重吉の 孤独と哀しさ、信仰に裏打ちされた聖さ、優しさが
心の滴のように書き連ねられています。
大正末期〜昭和初期の作品にもかかわらず 時代を超えて今もなお輝き続け、その洗練された珠玉のことばたちは 疲れた心に平安を与えます。
そこには目には見えないご臨在の主を感じ、深い感動を覚えるのです。私のお勧めの一冊です。
世に花咲かば
神あるを しれよ
世に 無心 なるものあらば
神あるを知れよ
神のこえは
ほそく かすかなりとも
八木 重吉
Photo by hare's
2003 06/12 00:07
Category : 日記
聖書日課・・・・・・「朝ごとに」より
◆たゆみなく祈りなさい。(コロサイ4章2節)
興味深いことに、聖書の中には祈りについての模範と訓戒、また約束の記事が多い。
聖書を開けばすぐに、「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」とあり、
また聖書の末尾には「アーメン」という熱心な嘆願がある。
祈りの実例はいくらでもある。・神と格闘するヤコブ、・日に三度祈るダニエル、・心を込めて神を呼ぶダビデなどがいる。・山上にはエリヤがおり、・獄中にはパウロとシラスがいる。
祈りの戒めも約束も数えきれないほどある。これが祈りの重要性、必要性を示すものでなくて、何であろう。
神がことばを尽くしてお語りになったことは、私たちの生涯にとって重要なことである。
神が祈りについてこれほど多くのことばを費やしておられるのも、祈りが私たちにとってどれほど必要であるかを知っておられるからである。
私たちの欠乏はまさに深刻な状態にあるので、天国に入るまで祈りをやめてはいけない。
・あなたには何の不足もないというのか。もしそうだと言うなら、あなたは自分の貧しさを知らないのだ。
・あなたは神のあわれみを求めなくてもいいのか。もしあなたが求めようとしないなら、主のあわれみがあなたのみじめな状態を示してくださるように。
祈りのないたましいは、キリストのないたましいである。
祈りは信仰の幼子の片言であり、戦っている信者の叫びであり、臨終の床にある聖徒がイエスの中に眠る時の歌である。
祈りはクリスチャンの息であり、合言葉であり、慰めであり、力であり、誉れである。
もしあなたが神の子なら、あなたはあなたの父である神の御顔を求め、また父なる神の愛の中に生きることを望むであろう。
あなたが全く謙遜であり、熱心であり、忍耐強くあるように祈れ。
キリストとの深い交わりに入り、さらにしばしば愛のうたげに加われ。
あなたが他の人の模範となり祝福となり、さらに主の栄光のために生きることができるように祈れ。++By Charles Haddon Spurgeon
主よ感謝します。なんと祈ることの少ないものでしょうか。あなた様に期待し 拠り頼み、一切の思い煩いをお委ねし、諦めることなく、弛みなく祈る者とさせてください。今日のこれからの歩みをも導いてください。
一言感謝し、主のお名前によって祈ります。
「たゆみなく祈りなさい」・・・・・・・・・・アーメン
◆たゆみなく祈りなさい。(コロサイ4章2節)
興味深いことに、聖書の中には祈りについての模範と訓戒、また約束の記事が多い。
聖書を開けばすぐに、「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」とあり、
また聖書の末尾には「アーメン」という熱心な嘆願がある。
祈りの実例はいくらでもある。・神と格闘するヤコブ、・日に三度祈るダニエル、・心を込めて神を呼ぶダビデなどがいる。・山上にはエリヤがおり、・獄中にはパウロとシラスがいる。
祈りの戒めも約束も数えきれないほどある。これが祈りの重要性、必要性を示すものでなくて、何であろう。
神がことばを尽くしてお語りになったことは、私たちの生涯にとって重要なことである。
神が祈りについてこれほど多くのことばを費やしておられるのも、祈りが私たちにとってどれほど必要であるかを知っておられるからである。
私たちの欠乏はまさに深刻な状態にあるので、天国に入るまで祈りをやめてはいけない。
・あなたには何の不足もないというのか。もしそうだと言うなら、あなたは自分の貧しさを知らないのだ。
・あなたは神のあわれみを求めなくてもいいのか。もしあなたが求めようとしないなら、主のあわれみがあなたのみじめな状態を示してくださるように。
祈りのないたましいは、キリストのないたましいである。
祈りは信仰の幼子の片言であり、戦っている信者の叫びであり、臨終の床にある聖徒がイエスの中に眠る時の歌である。
祈りはクリスチャンの息であり、合言葉であり、慰めであり、力であり、誉れである。
もしあなたが神の子なら、あなたはあなたの父である神の御顔を求め、また父なる神の愛の中に生きることを望むであろう。
あなたが全く謙遜であり、熱心であり、忍耐強くあるように祈れ。
キリストとの深い交わりに入り、さらにしばしば愛のうたげに加われ。
あなたが他の人の模範となり祝福となり、さらに主の栄光のために生きることができるように祈れ。++By Charles Haddon Spurgeon
主よ感謝します。なんと祈ることの少ないものでしょうか。あなた様に期待し 拠り頼み、一切の思い煩いをお委ねし、諦めることなく、弛みなく祈る者とさせてください。今日のこれからの歩みをも導いてください。
一言感謝し、主のお名前によって祈ります。
「たゆみなく祈りなさい」・・・・・・・・・・アーメン
2003 06/12 00:06
Category : 日記
久しぶりにGospelをDiaryにアップいたしました。
というのは、レンタル日記帳の不具合で書き込みが出来ないのです。復旧待ちです。
5月18日の礼拝説教は出エジプト20章4〜6節
「偉大なる神と偉大なる人間」
と題してみことばの解き明かしをして頂きました。
『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』
モーセが神様から告げられた十戒の第二の戒めです。
十戒は日本人にとっては厳しすぎるのではないかと言われる方があります。
この戒めは 一言で言うと偶像を拝まないことです。
たとえば ・お葬式で祭壇で手を合わせる・線香をあげる。
これは 拝むという行為です。
拝む行為をしないということは、遺体をないがしろにしたり、
・お墓の墓標に手を合わせないという行為が
お墓を粗末にするということでは決してありません。
クリスチャンは遺体を大切に扱いますし、お墓も大切にします。
●なぜ神以外のものを拝むことを禁ずるのか。
そこにはふたつの理由があります。
1.偶像を拝むことは 偉大な神を引き下げ 冒涜することである。
2.偶像を拝むことは 偉大な人間を貶めること
(自分自身を冒涜すること)になる。
神は霊であり、人格をお持ちの神様を形にすることは 不可能なことなのです。
私たちは形がないと(目に見えないと)解りにくい。
神でないもの、人間が作ったものを拝むことは滑稽です。
「キリスト教は十字架を拝むでしょう。マリア像を拝むでしょう。」
といわれた事がありますが、そのようなことはいたしません。
ウエストミンスター信仰教理問答集に
「神はどのようなお方か?」
この答えは 「神は霊であり、最も清く、最も賢く・・・・・・・・・・・。
(もっともっと続くのですがMEMOしきれませんでした。)
普遍で知り尽くせない、言い尽くせない神様である。」
要するに形にすることは出来ないお方なのです。
それでは神様を知るにはどうすればいいのでしょうか。
聖書は言います。
イエス・キリストを見なさいと。
『いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、
神を説き明かされたのである。」ヨハネの福音書1章18節
神様がどのようなお方であるかを知ったならば 像を作ろうなどとは思わないはずです。
・こういうお話があります。
未開の地に遣わされて宣教師が 原住民が病気になり持っていた薬を提供しました。
薬の服用によってその病気は治りました。
時が流れ 宣教師がその地を再び訪れた時、なんと薬のビンを大切に奉り
現地の人々が「お薬さま」と拝んでいたというのです。
笑うに笑えない話です。
私たち人間だけが神に似せて造られました。
神の似姿である人間には尊厳があります。
サルから進化したものでは決してないのです。
ですから、永遠を思うことが出来ます。
他の人を自分を犠牲にしても助けようという力があります。
神よりいくらか劣るものとして創造された人間が作り物の偶像を拝む・・・・・。
自分を偶像より下にすることで、自分を馬鹿にすることなのです。
人は神に似せて造られた存在であり、
神は愛してくださり、そのままで素晴らしいと言って下さるのです。
「あなたは高価で尊い」といわれる。
自分はだめですというのはいけません。
神の愛を裏切ることです。
●拝む=重大な行為
礼拝する・拝するとは、「ハイ従います」という意味です。
わたしは絶対服従しますと等しい行為なのです。
木や、金属、物・死者は命令を発することは出来ません。
天地万物を創造された神だけが人間に命令をすることがお出来になるのです。
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」エペソ書3章17-19
というのは、レンタル日記帳の不具合で書き込みが出来ないのです。復旧待ちです。
5月18日の礼拝説教は出エジプト20章4〜6節
「偉大なる神と偉大なる人間」
と題してみことばの解き明かしをして頂きました。
『あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。』
モーセが神様から告げられた十戒の第二の戒めです。
十戒は日本人にとっては厳しすぎるのではないかと言われる方があります。
この戒めは 一言で言うと偶像を拝まないことです。
たとえば ・お葬式で祭壇で手を合わせる・線香をあげる。
これは 拝むという行為です。
拝む行為をしないということは、遺体をないがしろにしたり、
・お墓の墓標に手を合わせないという行為が
お墓を粗末にするということでは決してありません。
クリスチャンは遺体を大切に扱いますし、お墓も大切にします。
●なぜ神以外のものを拝むことを禁ずるのか。
そこにはふたつの理由があります。
1.偶像を拝むことは 偉大な神を引き下げ 冒涜することである。
2.偶像を拝むことは 偉大な人間を貶めること
(自分自身を冒涜すること)になる。
神は霊であり、人格をお持ちの神様を形にすることは 不可能なことなのです。
私たちは形がないと(目に見えないと)解りにくい。
神でないもの、人間が作ったものを拝むことは滑稽です。
「キリスト教は十字架を拝むでしょう。マリア像を拝むでしょう。」
といわれた事がありますが、そのようなことはいたしません。
ウエストミンスター信仰教理問答集に
「神はどのようなお方か?」
この答えは 「神は霊であり、最も清く、最も賢く・・・・・・・・・・・。
(もっともっと続くのですがMEMOしきれませんでした。)
普遍で知り尽くせない、言い尽くせない神様である。」
要するに形にすることは出来ないお方なのです。
それでは神様を知るにはどうすればいいのでしょうか。
聖書は言います。
イエス・キリストを見なさいと。
『いまだかつて神を見た者はいない。
父のふところにおられるひとり子の神が、
神を説き明かされたのである。」ヨハネの福音書1章18節
神様がどのようなお方であるかを知ったならば 像を作ろうなどとは思わないはずです。
・こういうお話があります。
未開の地に遣わされて宣教師が 原住民が病気になり持っていた薬を提供しました。
薬の服用によってその病気は治りました。
時が流れ 宣教師がその地を再び訪れた時、なんと薬のビンを大切に奉り
現地の人々が「お薬さま」と拝んでいたというのです。
笑うに笑えない話です。
私たち人間だけが神に似せて造られました。
神の似姿である人間には尊厳があります。
サルから進化したものでは決してないのです。
ですから、永遠を思うことが出来ます。
他の人を自分を犠牲にしても助けようという力があります。
神よりいくらか劣るものとして創造された人間が作り物の偶像を拝む・・・・・。
自分を偶像より下にすることで、自分を馬鹿にすることなのです。
人は神に似せて造られた存在であり、
神は愛してくださり、そのままで素晴らしいと言って下さるのです。
「あなたは高価で尊い」といわれる。
自分はだめですというのはいけません。
神の愛を裏切ることです。
●拝む=重大な行為
礼拝する・拝するとは、「ハイ従います」という意味です。
わたしは絶対服従しますと等しい行為なのです。
木や、金属、物・死者は命令を発することは出来ません。
天地万物を創造された神だけが人間に命令をすることがお出来になるのです。
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。
また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」エペソ書3章17-19
2003 06/12 00:04
Category : 日記
本日の聖書日課
◆『急に得た財産は減るが、
働いて集める者は、それを増す。』 箴言13章11節
日本にも、「悪銭身につかず」ということばがあります。
あぶくのように消えていく「あぶく銭」と言うのも、同じことを言っているようです。
お金や土地建物ばかりが財産ではありません。有形無形いろいろな財産があります。
聖書は財産を持つことを否定していません。いいえ、財産を殖やすことをすすめています。
主イエス・キリストは、こんなたとえ話をされました。
ある主人がしもべたちに、・ある人に五タラント、・ある人に二タラント、・ある人に一タラントを、それぞれの能力に応じて預けて旅に出ます。
しもべたちは、預かったものを大切な元手として一生懸命働きました。
・五タラントの人はもう五タラント、・二タラントの人はもう二タラントを殖やしました。
帰ってきた主人は大喜びで二人をほめました。ところが、・一夕ラントを預かった人は、なくしたら叱られるからと、地面を掘ってうめておきました。
主人はこのしもべを不忠実な者として叱責しました。 (マタイ25章14〜30節)
この背後に、大切な真理がかくされています。
・ 神は私たちそれぞれに、能力や財産を預けられる。
・ 神は、人が、神から預けられたものを忠芙に管理し、
神のため人のために有益に用いるために、殖やすことを期待しておられる。
・ 人は、その能力に応じて、使命を感じ、働いて神が預けられたものを管理する。
それを守り、用い、有益に働かせる時、神から報いを受ける。
すべての財産を神から管理を任されたものとして見、その神の期待に答えて、一生懸命働くという人生観は、実際に私たちの人生を変え、世界を変えるでしょう。
◆『急に得た財産は減るが、
働いて集める者は、それを増す。』 箴言13章11節
日本にも、「悪銭身につかず」ということばがあります。
あぶくのように消えていく「あぶく銭」と言うのも、同じことを言っているようです。
お金や土地建物ばかりが財産ではありません。有形無形いろいろな財産があります。
聖書は財産を持つことを否定していません。いいえ、財産を殖やすことをすすめています。
主イエス・キリストは、こんなたとえ話をされました。
ある主人がしもべたちに、・ある人に五タラント、・ある人に二タラント、・ある人に一タラントを、それぞれの能力に応じて預けて旅に出ます。
しもべたちは、預かったものを大切な元手として一生懸命働きました。
・五タラントの人はもう五タラント、・二タラントの人はもう二タラントを殖やしました。
帰ってきた主人は大喜びで二人をほめました。ところが、・一夕ラントを預かった人は、なくしたら叱られるからと、地面を掘ってうめておきました。
主人はこのしもべを不忠実な者として叱責しました。 (マタイ25章14〜30節)
この背後に、大切な真理がかくされています。
・ 神は私たちそれぞれに、能力や財産を預けられる。
・ 神は、人が、神から預けられたものを忠芙に管理し、
神のため人のために有益に用いるために、殖やすことを期待しておられる。
・ 人は、その能力に応じて、使命を感じ、働いて神が預けられたものを管理する。
それを守り、用い、有益に働かせる時、神から報いを受ける。
すべての財産を神から管理を任されたものとして見、その神の期待に答えて、一生懸命働くという人生観は、実際に私たちの人生を変え、世界を変えるでしょう。
2003 06/12 00:04
Category : 日記
聖書日課
◆『目をさまして(いる)者は幸いである。(黙示録16-15)
「私にとって、毎日が死の連続です」と使徒は言った。これが初代キリスト者の生活であった。
彼らはいのちがけでどこへでも行った。私たちは今日、彼らと同じ恐ろしい迫害を通るように命じられてはいない。
もしそうであれば、主は試練に耐える恵みを下さるだろう。
しかし今のクリスチャン生活の試練は、表面的にはさほど恐ろしいものとは見えない
が、初代における試練よりはるかにたやすく私たちをねじ伏せる。
私たちは、世の冷笑に耐えなければならない。これは小さなことである。
それよりも悪いものは、世からのへつらい、甘言、偽善である。
私たちの危険は、自分が金持ちになり高慢になり、この世の悪にならい、信仰を失ってしまうことである。
あるいは、富が試みにならなくても、この世の心労があなどれない敵となる。
私たちが、ほえる獅子によって引き裂かれなくても、熊にしがみつかれて息を止められるかもしれない。
私たちがキリストへの愛を失い信頼を失うなら悪魔にとってはどちらでもよいわけである。
私はキリストの教会があの患難時代におけるよりも、むしろこのやわらかな時代に、節操を失いやすいのではないかと恐れる。
私たちは目を覚ましていなければならない。
あたかも魔法の国を横切っているようだからである。
イエスに対する信仰が真のものでなければ、また、イエスへの愛が火のように燃えているのでなければ、私たちは眠ってしまい、破滅を招きやすいのである。
この軽薄な時代にあって、多くの人は麦となるよりは毒麦となりやすい。
偽善者は美しい仮面をかぶる。しかし生ける神の真の子どもはそうではない。
主にある友よ。今の時代には、警戒も熱意も不必要であると考えてはならない。
あなたにとって、今ほどこれらのものを要する時代はない。
どうか全能なるとこしえの神があなたの上に働かれるように。
平穏な日にも苦難の日にも、あなたが次のように叫ばされるように。
『私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです』
By スポルジョン著「夕ごとに」
◆『目をさまして(いる)者は幸いである。(黙示録16-15)
「私にとって、毎日が死の連続です」と使徒は言った。これが初代キリスト者の生活であった。
彼らはいのちがけでどこへでも行った。私たちは今日、彼らと同じ恐ろしい迫害を通るように命じられてはいない。
もしそうであれば、主は試練に耐える恵みを下さるだろう。
しかし今のクリスチャン生活の試練は、表面的にはさほど恐ろしいものとは見えない
が、初代における試練よりはるかにたやすく私たちをねじ伏せる。
私たちは、世の冷笑に耐えなければならない。これは小さなことである。
それよりも悪いものは、世からのへつらい、甘言、偽善である。
私たちの危険は、自分が金持ちになり高慢になり、この世の悪にならい、信仰を失ってしまうことである。
あるいは、富が試みにならなくても、この世の心労があなどれない敵となる。
私たちが、ほえる獅子によって引き裂かれなくても、熊にしがみつかれて息を止められるかもしれない。
私たちがキリストへの愛を失い信頼を失うなら悪魔にとってはどちらでもよいわけである。
私はキリストの教会があの患難時代におけるよりも、むしろこのやわらかな時代に、節操を失いやすいのではないかと恐れる。
私たちは目を覚ましていなければならない。
あたかも魔法の国を横切っているようだからである。
イエスに対する信仰が真のものでなければ、また、イエスへの愛が火のように燃えているのでなければ、私たちは眠ってしまい、破滅を招きやすいのである。
この軽薄な時代にあって、多くの人は麦となるよりは毒麦となりやすい。
偽善者は美しい仮面をかぶる。しかし生ける神の真の子どもはそうではない。
主にある友よ。今の時代には、警戒も熱意も不必要であると考えてはならない。
あなたにとって、今ほどこれらのものを要する時代はない。
どうか全能なるとこしえの神があなたの上に働かれるように。
平穏な日にも苦難の日にも、あなたが次のように叫ばされるように。
『私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです』
By スポルジョン著「夕ごとに」
2003 06/11 23:59
Category : 日記
昨日は 伝道所のバザーに出席し 夕方帰宅しました。
その疲れもあってか今朝はなんだか分からないほど重い体を起こして どうにか起床、
礼拝をお捧げする為に教会へ向かいました。
しかし礼拝中もだるくてたまらない。
礼拝プログラム後半で讃美の時でした。”聖歌417”をお捧げしながら涙が・・・・・・。
讃美をしながら涙ぐむことなどめったにありません。自分で説明するのも難しいことなのですが、
どうしたのでしょう。
魂が弱っているということだけではなさそうです。昨晩から色々と示され続けています。
みことばが心に刺さります。
聖歌417番
1.
あなたの罪あやまちは 始末されてあるか
神なるキリスト・イェスを 信じ救われたか
罪を悔いて 誰もすがれイェスに
イェスは 十字架の血潮で
罪を 清めたもう
2.
あなたは 毎日 イェスの傍を歩いてるか
イェスの十字架をば いつも見て暮らしておるか
罪を悔いて 誰もすがれイェスに
イェスは 十字架の血潮で
罪を 清めたもう
3.花婿なるキリストを迎えに出られるか
罪のしみのない服を 毎日着ておるか
罪を悔いて 誰もすがれイェスに
イェスは 十字架の血潮で
罪を 清めたもう
4.すこしでも罪のシミが ついておったならば
イェスの血潮で白くし 主に喜ばれよう
罪を悔いて 誰もすがれイェスに
イェスは 十字架の血潮で
罪を 清めたもう
その疲れもあってか今朝はなんだか分からないほど重い体を起こして どうにか起床、
礼拝をお捧げする為に教会へ向かいました。
しかし礼拝中もだるくてたまらない。
礼拝プログラム後半で讃美の時でした。”聖歌417”をお捧げしながら涙が・・・・・・。
讃美をしながら涙ぐむことなどめったにありません。自分で説明するのも難しいことなのですが、
どうしたのでしょう。
魂が弱っているということだけではなさそうです。昨晩から色々と示され続けています。
みことばが心に刺さります。
聖歌417番
1.
あなたの罪あやまちは 始末されてあるか
神なるキリスト・イェスを 信じ救われたか
罪を悔いて 誰もすがれイェスに
イェスは 十字架の血潮で
罪を 清めたもう
2.
あなたは 毎日 イェスの傍を歩いてるか
イェスの十字架をば いつも見て暮らしておるか
罪を悔いて 誰もすがれイェスに
イェスは 十字架の血潮で
罪を 清めたもう
3.花婿なるキリストを迎えに出られるか
罪のしみのない服を 毎日着ておるか
罪を悔いて 誰もすがれイェスに
イェスは 十字架の血潮で
罪を 清めたもう
4.すこしでも罪のシミが ついておったならば
イェスの血潮で白くし 主に喜ばれよう
罪を悔いて 誰もすがれイェスに
イェスは 十字架の血潮で
罪を 清めたもう
2003 06/11 23:58
Category : 日記
今日聖書日課
◆高ぶりとへりくだり
高ぶりが来れば、恥もまた来る。
知恵はへりくだる者とともにある。箴言11章2節
「あの人は全然だめだ」と思われる人は、まあ、自分と同じ程度の人。
「あっ、ちょっとやるじゃない」という人は、自分よりはるか上の人だと思ったらよい
と言った人がありました。
ないようであるのは、うぬぼれと高ぶりではないでしょうか。
高ぶりは、魂の目が見えないことです。
・ まわりのよいものが見えない。それを認めず認めたくない。
・ 自分の弱さ・みにくさ・欠けたところが見えず、それを見たくない。
・ つまり、神が見えない。
暗やみの中に、神の明るさもきよさも愛のすばらしさも知らずに、
しかも自分で何でも知っているように座っています。この世に自分しかいません。
高ぶる人は、自分がすぐれていると無理にも思いこんでいなければ、不安で仕方がありません。
外側は威風堂々としているように見えても、中身は弱くみじめです。
ところが、へりくだる人には知恵があって、まわりからいつも学んでいます。
・ 自然界に対して、心が開いている。
草や鳥や虫をいつくしみ、それを見て驚き、神秘に打たれます。
・ 他の人からも学ぶ。
他人の中にすぐれたものを敏感に感じとり、学び、取り入れます。
へりくだる人はいつも学びとる余裕があるのです。
またへりくだる人は、自分の不十分さを知って、心は神に向かい神を求めます。
そして、神によって最上・最高のもので満たされるのです。
by「今日の知恵 明日の知恵」
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」
マタイの福音書5章3節
主よ、自分でも気がつかない うぬぼれ、高ぶる想いを鎮めてください。
じぶんの弱さ、足りなさをもっともっと知ることができますように御前に整えて下さい。
◆高ぶりとへりくだり
高ぶりが来れば、恥もまた来る。
知恵はへりくだる者とともにある。箴言11章2節
「あの人は全然だめだ」と思われる人は、まあ、自分と同じ程度の人。
「あっ、ちょっとやるじゃない」という人は、自分よりはるか上の人だと思ったらよい
と言った人がありました。
ないようであるのは、うぬぼれと高ぶりではないでしょうか。
高ぶりは、魂の目が見えないことです。
・ まわりのよいものが見えない。それを認めず認めたくない。
・ 自分の弱さ・みにくさ・欠けたところが見えず、それを見たくない。
・ つまり、神が見えない。
暗やみの中に、神の明るさもきよさも愛のすばらしさも知らずに、
しかも自分で何でも知っているように座っています。この世に自分しかいません。
高ぶる人は、自分がすぐれていると無理にも思いこんでいなければ、不安で仕方がありません。
外側は威風堂々としているように見えても、中身は弱くみじめです。
ところが、へりくだる人には知恵があって、まわりからいつも学んでいます。
・ 自然界に対して、心が開いている。
草や鳥や虫をいつくしみ、それを見て驚き、神秘に打たれます。
・ 他の人からも学ぶ。
他人の中にすぐれたものを敏感に感じとり、学び、取り入れます。
へりくだる人はいつも学びとる余裕があるのです。
またへりくだる人は、自分の不十分さを知って、心は神に向かい神を求めます。
そして、神によって最上・最高のもので満たされるのです。
by「今日の知恵 明日の知恵」
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」
マタイの福音書5章3節
主よ、自分でも気がつかない うぬぼれ、高ぶる想いを鎮めてください。
じぶんの弱さ、足りなさをもっともっと知ることができますように御前に整えて下さい。
2003 06/11 23:57
Category : 日記
連休後半は本当に良いお天気でした。ベランダの花々も色とりどりに咲いています。
お天気がいいと出勤前の水遣りに一苦労。本日は恵みの雨となり水遣りはお休みです。
いつも間にか増えてしまったプランターの数々。
宿根草が半分ぐらいあって、毎年綺麗な花をつけてくれます。
むしろ株分けをしたり、挿し木をしたりとプランターの数は増える一方なのですが、
ガーデニングは止められそうにありません。
ベコニアの増える勢いには驚きます。密集して葉が茂っているのです。
昨日 間引きするように、ところどころ根元から折って土に挿しました。またまたプランター+1です。
今年一番元気が良い鉢は、アイビーゼラニューム。
以前から普通のゼラニュームは咲いていますがアイビー・・・・は初めて。
ビビッドピンクで花びらも尖っていてとても愛らしく 上に伸びずに横に広がっていきます。
「コンパクトリラ」という名札がついていました。そのうち画像をアップいたしましょう。
お天気に左右されるようでは困りますが、訳もなく気持ちが下降気味と感じる一日でした。
今夜の聖書の箇所「夕べの祈り」詩篇4編
「4:1 私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。
あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。
私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。
4:2 人の子たちよ。
いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。
セラ
4:3 知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。
私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
4:4 恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ
4:5 義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。
4:6 多くの者は言っています。
「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」
主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。
4:7 あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。
4:8 平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。
主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」
お天気がいいと出勤前の水遣りに一苦労。本日は恵みの雨となり水遣りはお休みです。
いつも間にか増えてしまったプランターの数々。
宿根草が半分ぐらいあって、毎年綺麗な花をつけてくれます。
むしろ株分けをしたり、挿し木をしたりとプランターの数は増える一方なのですが、
ガーデニングは止められそうにありません。
ベコニアの増える勢いには驚きます。密集して葉が茂っているのです。
昨日 間引きするように、ところどころ根元から折って土に挿しました。またまたプランター+1です。
今年一番元気が良い鉢は、アイビーゼラニューム。
以前から普通のゼラニュームは咲いていますがアイビー・・・・は初めて。
ビビッドピンクで花びらも尖っていてとても愛らしく 上に伸びずに横に広がっていきます。
「コンパクトリラ」という名札がついていました。そのうち画像をアップいたしましょう。
お天気に左右されるようでは困りますが、訳もなく気持ちが下降気味と感じる一日でした。
今夜の聖書の箇所「夕べの祈り」詩篇4編
「4:1 私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。
あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。
私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。
4:2 人の子たちよ。
いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか。
セラ
4:3 知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われるのだ。
私が呼ぶとき、主は聞いてくださる。
4:4 恐れおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。セラ
4:5 義のいけにえをささげ、主に拠り頼め。
4:6 多くの者は言っています。
「だれかわれわれに良い目を見せてくれないものか。」
主よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。
4:7 あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときにもまさっています。
4:8 平安のうちに私は身を横たえ、すぐ、眠りにつきます。
主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」
2003 06/11 23:56
Category : 日記
今日の聖書日課
◆まだ、神のために言い分があるからだ。(ヨブ36章2節)
自分の徳を吹聴したり、自分の熱心を人に見せかけたりしてはならない。
しかし、神が他の人の益のために与えられたものを、常に隠そうとするのは罪である。
クリスチャンは谷間の村ではなく、「山の上にある町」でなければならない。
ますの下のあかりではなく、燭台の上のあかりであり、すべての人を照らすべきである。
退いて隠れることも、時を得ているなら美しい。自己を隠すことはたしかにつつましい。
しかし、私たちの内なるキリストを隠すことは、決して正しいことではない。
私たちにとって尊い真理を隠しておくことは他の人に対する罪であり、神を侮辱するものである。
もしあなたが神経質で、内気な性質ならば、極端な遠慮のために教会にとって無益な者となってしまわないよう注意してほしい。
あなたを恥じることのなかったお方の御名によって私情を抑えキリストが語られた事を他の人に語れ
●もしあなたが人を驚かせるような雄弁をもっていないなら、静かな細い声を用いよ。
●もし講壇があなたの場所ではなく、また文書伝道に召されていなくても、
なおペテロやヨハネとともに、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と言え。
●もしあなたが山上で説教することができないならば、
スカルの井戸のかたわらでサマリヤの女に語れ。
●宮の中でなければ家の中でイエスを賛美せよ。取引所でなければ野原でもよい。
多くの人々の中でなければ、あなたの家族の中だけでもよい。
内にある隠れた泉から、妙たる証しの流れをわき出させ、すべての道行く人に飲ませよ。
あなたの賜物を隠してはならない。それを用いよ。そうすればあなたの主に益をもたらすであろう。
神のために語ることは、自分にとって快いことであり、信仰者には励ましとなり、罪人には有益であり、また救い主をあがめることになる。
口をきこうとしない子は両親にとって心痛の種である。
主よ。あなたのすべての子たちの舌を、自由にしてください。
Charles Haddon Spurgeon「夕ごとに」より
◆まだ、神のために言い分があるからだ。(ヨブ36章2節)
自分の徳を吹聴したり、自分の熱心を人に見せかけたりしてはならない。
しかし、神が他の人の益のために与えられたものを、常に隠そうとするのは罪である。
クリスチャンは谷間の村ではなく、「山の上にある町」でなければならない。
ますの下のあかりではなく、燭台の上のあかりであり、すべての人を照らすべきである。
退いて隠れることも、時を得ているなら美しい。自己を隠すことはたしかにつつましい。
しかし、私たちの内なるキリストを隠すことは、決して正しいことではない。
私たちにとって尊い真理を隠しておくことは他の人に対する罪であり、神を侮辱するものである。
もしあなたが神経質で、内気な性質ならば、極端な遠慮のために教会にとって無益な者となってしまわないよう注意してほしい。
あなたを恥じることのなかったお方の御名によって私情を抑えキリストが語られた事を他の人に語れ
●もしあなたが人を驚かせるような雄弁をもっていないなら、静かな細い声を用いよ。
●もし講壇があなたの場所ではなく、また文書伝道に召されていなくても、
なおペテロやヨハネとともに、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう」と言え。
●もしあなたが山上で説教することができないならば、
スカルの井戸のかたわらでサマリヤの女に語れ。
●宮の中でなければ家の中でイエスを賛美せよ。取引所でなければ野原でもよい。
多くの人々の中でなければ、あなたの家族の中だけでもよい。
内にある隠れた泉から、妙たる証しの流れをわき出させ、すべての道行く人に飲ませよ。
あなたの賜物を隠してはならない。それを用いよ。そうすればあなたの主に益をもたらすであろう。
神のために語ることは、自分にとって快いことであり、信仰者には励ましとなり、罪人には有益であり、また救い主をあがめることになる。
口をきこうとしない子は両親にとって心痛の種である。
主よ。あなたのすべての子たちの舌を、自由にしてください。
Charles Haddon Spurgeon「夕ごとに」より
2003 06/11 23:54
Category : 日記
今日も雨の一日となりました。時折激しい雨が叩きつけます。業務は5時にはOFFとなりました。
聖書日課・・・・今日の知恵・明日の知恵より
◆いさかいを静める者
『激しやすい者は争いを引き起こし、
怒りを遅くする者はいさかいを静める』
箴言15章18節
アメリカの医学者の30年にわたる観察によると温和で柔和な気質の人が高血圧・脳血栓・がんなどをわずらう率は、わずか20%
反対に、怒りやすく激しやすい感情家の場合は、80%だそうです。
それには遺伝的な体質とか職業や環境の違いから来るストレスの大小も関係しているでしょう。
しかし、大勢の人を30年にわたって観察したこのデータは、注目してよいと思います。
私も激しやすいほうですが、やはり高血圧や脳血栓の危険にさらされている者として、ほんとうに
「怒りをおそくする」ことに心しなければならないと思います。
私の友人で、今は故人ですが、がんにかかって不治を宣告されたのに、これを一つの方法でみごとに克服した人がいました。
・その方法とは、朝少なくとも一回、ゆったりと座って、深く深く深呼吸をして、肩の力を抜き、
腕の力を抜き、全身の力を抜いて、まず体をゆったりさせる。
・それから、神が自分を愛していてくださる、自分をゆるしてくださる、自分を顧み恵んでくださると、
神が約束されたことばを聖書の中から二つか三つ選んで、何回も何回も読み、暗唱するのです。
・そして、正直に、自分の至らないところ・間違った考え方・間違った感情・犯した罪・罪の思いを一つ一つ神に申し上げて、おわびをします。
・次にもう一回、神の恵みのことば・聖書を暗唱するのです。ここまで30分くらいはかかるでしょう。
しかしこのようにして彼は、不思議にがんをいやされたのです。
これは、怒りをおそくするのにまことに有効な方法だと思います。
怒りをおそくしてくださるのは神です。
怒りをおそくすれば、争いを静めることができるし、自らの健康に益ともなります。
怒りをおそくする平安な心の持ち主は、神を喜び、神に喜ばれ、多くの人にも喜びを分けてあげられるのです。
聖書日課・・・・今日の知恵・明日の知恵より
◆いさかいを静める者
『激しやすい者は争いを引き起こし、
怒りを遅くする者はいさかいを静める』
箴言15章18節
アメリカの医学者の30年にわたる観察によると温和で柔和な気質の人が高血圧・脳血栓・がんなどをわずらう率は、わずか20%
反対に、怒りやすく激しやすい感情家の場合は、80%だそうです。
それには遺伝的な体質とか職業や環境の違いから来るストレスの大小も関係しているでしょう。
しかし、大勢の人を30年にわたって観察したこのデータは、注目してよいと思います。
私も激しやすいほうですが、やはり高血圧や脳血栓の危険にさらされている者として、ほんとうに
「怒りをおそくする」ことに心しなければならないと思います。
私の友人で、今は故人ですが、がんにかかって不治を宣告されたのに、これを一つの方法でみごとに克服した人がいました。
・その方法とは、朝少なくとも一回、ゆったりと座って、深く深く深呼吸をして、肩の力を抜き、
腕の力を抜き、全身の力を抜いて、まず体をゆったりさせる。
・それから、神が自分を愛していてくださる、自分をゆるしてくださる、自分を顧み恵んでくださると、
神が約束されたことばを聖書の中から二つか三つ選んで、何回も何回も読み、暗唱するのです。
・そして、正直に、自分の至らないところ・間違った考え方・間違った感情・犯した罪・罪の思いを一つ一つ神に申し上げて、おわびをします。
・次にもう一回、神の恵みのことば・聖書を暗唱するのです。ここまで30分くらいはかかるでしょう。
しかしこのようにして彼は、不思議にがんをいやされたのです。
これは、怒りをおそくするのにまことに有効な方法だと思います。
怒りをおそくしてくださるのは神です。
怒りをおそくすれば、争いを静めることができるし、自らの健康に益ともなります。
怒りをおそくする平安な心の持ち主は、神を喜び、神に喜ばれ、多くの人にも喜びを分けてあげられるのです。
2003 06/11 23:49
Category : 日記
週の半ば 今夜は水曜祈祷会でした。
お疲れモードでしたが、主に励まされ守ることが出来ました。感謝です。
列王記第�T17章17〜24節からの学びでした。
『17:17 これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。
その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
17:18 彼女はエリヤに言った。
「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。
あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
17:19 彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい。」と言って、
その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、
その子を自分の寝台の上に横たえた。
17:20 彼は主に祈って言った。
「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、
彼女の息子を死なせるのですか。」
17:21 そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
17:22 主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、
その子は生き返った。
17:23 そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、
その子の母親に渡した。
そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」
17:24 その女はエリヤに言った。
「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある
主のことばが真実であることを知りました。」列王記第�T17章17〜24節
この箇所から「みことばへの確信」の学びでした。
先週は、ツァレファテのやもめが エリヤの言葉通りにし、かめの粉とつぼの油は尽きず
2〜3年の間養われた箇所。今日の箇所はその後のこと。
●やもめの行いから学ぶこと
やもめは息子が息を引きとったとき 18節でエリヤに対し、嫌味を言い 食って掛かっています。
まるで 今日まで養われたという恵みを忘れてしまったかのように・・・・。
・忘恩の罪
ある人は 人間は皆 忘恩の罪を犯していると言いました。
・神様からの一般的な恩寵
・クリスチャンに与えられた特別な恩寵
わたくし達はこの恵みに対して、どれだけ感謝を現わしているでしょうか。
神さまだけではなく、人に対しても恩を忘れやすいもの者です。
人にお会いするとき いつも何かお礼をすること、お礼を述べることはなかったか・・・
と想いを巡らすことは大切なことです。
24節で やもめはエリヤに対して 自分の非を認める発言をしています。
このやもめのように、間違いに気がついたら すぐ悔い改めをすることです。
『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、
心をかたくなにしてはならない。』
ヘブル書3章7・8節
私たちは ここに素直な信仰者として態度を学ぶことができます。
神はいつでも最善をなして下さると信じ、
心がぐらつくことなく、疑うことなく信頼すべきです。
『神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』
ローマ書8章-28節
●エリヤから学ぶこと
・神の力に対する徹底した信頼です。
エリヤは怒らず、言い訳もせず、今度も神は栄光を現してくださると信じ、
神の約束に対する確信がありました。
私たちもみことばに拠り頼むことが大切です。
・エリヤは愛の人でした。
「どんなに信仰深くとも愛がなければ価値がありません」と 聖書は教えます。
21節で 三度エリヤはその人の悲しみ・喜びを自分のものとして受け止め、
体を合わせて・・・・と記されています。
24節のやもめの言葉
「あなたの口にある主のことばが真実である」
いつもエリヤは神様のことばを口にしていたことが分かります。
みことばに確信を置いていたのです。私たちもエリヤに倣うべきです。
お疲れモードでしたが、主に励まされ守ることが出来ました。感謝です。
列王記第�T17章17〜24節からの学びでした。
『17:17 これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。
その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。
17:18 彼女はエリヤに言った。
「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。
あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
17:19 彼は彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい。」と言って、
その子を彼女のふところから受け取り、彼が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、
その子を自分の寝台の上に横たえた。
17:20 彼は主に祈って言った。
「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、
彼女の息子を死なせるのですか。」
17:21 そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。
「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
17:22 主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、
その子は生き返った。
17:23 そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、
その子の母親に渡した。
そして、エリヤは言った。「ご覧、あなたの息子は生きている。」
17:24 その女はエリヤに言った。
「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある
主のことばが真実であることを知りました。」列王記第�T17章17〜24節
この箇所から「みことばへの確信」の学びでした。
先週は、ツァレファテのやもめが エリヤの言葉通りにし、かめの粉とつぼの油は尽きず
2〜3年の間養われた箇所。今日の箇所はその後のこと。
●やもめの行いから学ぶこと
やもめは息子が息を引きとったとき 18節でエリヤに対し、嫌味を言い 食って掛かっています。
まるで 今日まで養われたという恵みを忘れてしまったかのように・・・・。
・忘恩の罪
ある人は 人間は皆 忘恩の罪を犯していると言いました。
・神様からの一般的な恩寵
・クリスチャンに与えられた特別な恩寵
わたくし達はこの恵みに対して、どれだけ感謝を現わしているでしょうか。
神さまだけではなく、人に対しても恩を忘れやすいもの者です。
人にお会いするとき いつも何かお礼をすること、お礼を述べることはなかったか・・・
と想いを巡らすことは大切なことです。
24節で やもめはエリヤに対して 自分の非を認める発言をしています。
このやもめのように、間違いに気がついたら すぐ悔い改めをすることです。
『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、
心をかたくなにしてはならない。』
ヘブル書3章7・8節
私たちは ここに素直な信仰者として態度を学ぶことができます。
神はいつでも最善をなして下さると信じ、
心がぐらつくことなく、疑うことなく信頼すべきです。
『神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』
ローマ書8章-28節
●エリヤから学ぶこと
・神の力に対する徹底した信頼です。
エリヤは怒らず、言い訳もせず、今度も神は栄光を現してくださると信じ、
神の約束に対する確信がありました。
私たちもみことばに拠り頼むことが大切です。
・エリヤは愛の人でした。
「どんなに信仰深くとも愛がなければ価値がありません」と 聖書は教えます。
21節で 三度エリヤはその人の悲しみ・喜びを自分のものとして受け止め、
体を合わせて・・・・と記されています。
24節のやもめの言葉
「あなたの口にある主のことばが真実である」
いつもエリヤは神様のことばを口にしていたことが分かります。
みことばに確信を置いていたのです。私たちもエリヤに倣うべきです。
2003 06/11 23:45
Category : 日記
ゆっくりと生きる
主よ、どうか私を
もっとゆっくりと生きる者としてください
めまぐるしく動く私の思いを静め
心臓の鼓動を ゆるやかにしてください。
悠久の時の流れを見つめること
気ぜわしい歩みを 落ち着かせてください。
日々の混乱のただなかで
永遠の丘の静けさを 私にお与えください。
私の記憶の底を流れつづける あのなつかしい響き
やさしい歌声で 神経の緊張を解いてください。
疲れをいやす 眠りのふしぎを体験させてください。
一輪の花に目をとめたり
友だちとのんびりおしゃべりをしたり
犬を撫でてやったり、お気に入りの本から
ほんの数行 じっくり味わったりするような
そんなささやかな休暇を取れる
あざやかな生き方を
私にお教えください
主よ、どうか私を
もっとゆっくり生きる者としてください
生涯追い求める価値のあるものに
もっと深く根を下ろし
より高い天の星々の
ゴールに向かって伸びてゆけるよう
どうぞ、あなたの霊感を
お与えください
-+ w.peterson +-
主よ、どうか私を
もっとゆっくりと生きる者としてください
めまぐるしく動く私の思いを静め
心臓の鼓動を ゆるやかにしてください。
悠久の時の流れを見つめること
気ぜわしい歩みを 落ち着かせてください。
日々の混乱のただなかで
永遠の丘の静けさを 私にお与えください。
私の記憶の底を流れつづける あのなつかしい響き
やさしい歌声で 神経の緊張を解いてください。
疲れをいやす 眠りのふしぎを体験させてください。
一輪の花に目をとめたり
友だちとのんびりおしゃべりをしたり
犬を撫でてやったり、お気に入りの本から
ほんの数行 じっくり味わったりするような
そんなささやかな休暇を取れる
あざやかな生き方を
私にお教えください
主よ、どうか私を
もっとゆっくり生きる者としてください
生涯追い求める価値のあるものに
もっと深く根を下ろし
より高い天の星々の
ゴールに向かって伸びてゆけるよう
どうぞ、あなたの霊感を
お与えください
-+ w.peterson +-
2003 06/11 23:40
Category : 日記
信仰
空のように きれいになれるものなら
はなのように しずかになれるものなら
価なきものとして
これも捨てよう
あれも捨てよう
キリストを信じて
救われるものだとおもい
ほかのことは
何もかも忘れてしまおう
++ 八木 重吉 ++
空のように きれいになれるものなら
はなのように しずかになれるものなら
価なきものとして
これも捨てよう
あれも捨てよう
キリストを信じて
救われるものだとおもい
ほかのことは
何もかも忘れてしまおう
++ 八木 重吉 ++
2003 06/10 21:57
Category : 日記
聖書日課
◆怠 惰 と 勤 勉
無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ます。 (箴言10章4節)
無精者が寄り集まって相談しました。
「おい、みんなで無精会ってのつくろうか。」「よせよ。面倒くさい。」
こんな無精者が目立って落語の材料になるくらい、日本人は勤勉ではないでしょうか。
私たちが自分は無精だと思っていても、外国人から見ると日本人は勤勉で働きすぎる
と言われています。
「わたしは、このマージャンをやるために、昼間は会社で働いているんですよ」
という人にも会いました。これもどうかと思います。
けれども一般に、日本人の勤勉はただがむしゃらに勤勉のための勤勉となっていませんか。
つまり、ほんとうに生きがいを感じ、使命感に躍動しつつ、喜んで一生懸命働いているのかというと、そうではないらしいのです。
厚生省の統計情報部がまとめた統計によると、働き盛りの四十代五十代の人の自殺率が、もはや二十代の自殺率を追い抜いています。
今まで日本では、老人の自殺に次いで二十代の自殺が多く、働き盛りは少ないといわれていたのに、ショッキングです。
「悩み多き四十代」と新聞には見出しが出ていましたが、人生の目的がはっきりしていなければ、働く喜びも生きがいもあるはずはありません。
ある牧師はこう言いました。「こんにゃくだって、一本くしを通せばシャンとする。日本人に必要なのは、精神的バックボーンである。」
神を知り愛を知り、神のため人のために汗を流し涙を流すという一本筋の通った勤勉な人生は、豊かな人生を生み出すのです。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10章10節)
◆怠 惰 と 勤 勉
無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ます。 (箴言10章4節)
無精者が寄り集まって相談しました。
「おい、みんなで無精会ってのつくろうか。」「よせよ。面倒くさい。」
こんな無精者が目立って落語の材料になるくらい、日本人は勤勉ではないでしょうか。
私たちが自分は無精だと思っていても、外国人から見ると日本人は勤勉で働きすぎる
と言われています。
「わたしは、このマージャンをやるために、昼間は会社で働いているんですよ」
という人にも会いました。これもどうかと思います。
けれども一般に、日本人の勤勉はただがむしゃらに勤勉のための勤勉となっていませんか。
つまり、ほんとうに生きがいを感じ、使命感に躍動しつつ、喜んで一生懸命働いているのかというと、そうではないらしいのです。
厚生省の統計情報部がまとめた統計によると、働き盛りの四十代五十代の人の自殺率が、もはや二十代の自殺率を追い抜いています。
今まで日本では、老人の自殺に次いで二十代の自殺が多く、働き盛りは少ないといわれていたのに、ショッキングです。
「悩み多き四十代」と新聞には見出しが出ていましたが、人生の目的がはっきりしていなければ、働く喜びも生きがいもあるはずはありません。
ある牧師はこう言いました。「こんにゃくだって、一本くしを通せばシャンとする。日本人に必要なのは、精神的バックボーンである。」
神を知り愛を知り、神のため人のために汗を流し涙を流すという一本筋の通った勤勉な人生は、豊かな人生を生み出すのです。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハネ10章10節)
2003 06/10 19:16
Category : 日記
今夜 読もうと手に取ったその信仰書の中に一枚のはがきを見つけました。
消印はH8年2月29日になっています。
『 たすけを求めるすべての人
心から祈る人のそばに 神はおられる。』
詩篇145篇18節
Happy Birthday to you !
Feb. 28 '96
おめでとうございます。遅くなってすみません。
私達の歩む道は決して平坦ではありません。
でも そこは主イエスが共に居て下さる所です。
「主がおられるなら・・・・・・」
と云いたくなることは沢山あります。
でも主はご真実のお方、
私達のすべてをご存知です。
裏切ることをなさらない主に
只々頼って行きましょう。
祈っています。
そうです、これは牧師先生から戴いた誕生日カードです。
7年前・・・・・それは主の試みの真只中にある時でした。
その時すでに救われてクリスチャンとして歩んでいた私にとって 初めての大きな試練でした。
今夜 静かにその時のことを想い、主のわが身に成してくださった御業に感謝をしたことでした。
もちろん、この一枚の絵葉書にどんなに励まされ 何度も何度も読み返したことは いうまでもありません。
私の新改訳聖書では
『 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに 主は近くあられる。』
詩篇145-18
消印はH8年2月29日になっています。
『 たすけを求めるすべての人
心から祈る人のそばに 神はおられる。』
詩篇145篇18節
Happy Birthday to you !
Feb. 28 '96
おめでとうございます。遅くなってすみません。
私達の歩む道は決して平坦ではありません。
でも そこは主イエスが共に居て下さる所です。
「主がおられるなら・・・・・・」
と云いたくなることは沢山あります。
でも主はご真実のお方、
私達のすべてをご存知です。
裏切ることをなさらない主に
只々頼って行きましょう。
祈っています。
そうです、これは牧師先生から戴いた誕生日カードです。
7年前・・・・・それは主の試みの真只中にある時でした。
その時すでに救われてクリスチャンとして歩んでいた私にとって 初めての大きな試練でした。
今夜 静かにその時のことを想い、主のわが身に成してくださった御業に感謝をしたことでした。
もちろん、この一枚の絵葉書にどんなに励まされ 何度も何度も読み返したことは いうまでもありません。
私の新改訳聖書では
『 主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに 主は近くあられる。』
詩篇145-18
2003 06/10 19:09
Category : 日記
6月1日の礼拝説教をGOSPELにアップいたしました。同じものをDiaryにアップしておきます。
頂いたみことばを反芻するように、書き留めたMemoを纏めると、更なる恵みを頂く事が出来ます。
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:26 そして神は、
「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。
そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。
神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
創世記1章1節・26・27節
【尊い命】
・なぜ私達のいのちは大切なのでしょうか。
・なぜ 自殺をしてはいけないのでしょうか。
・なぜ 結婚生活は 清くなければいけないのでしょうか。
答えは聖書の中にあります。
聖書の最初は 「初めに 神が天と地を創造した。」
初めに-----宇宙の初め-----神からすべてのことが始まったのです。
人間のはじめも 神から始まりました。
”神様が居ると思う人には居る、居ないと思う人には居ない。”
遠藤周作も「神を信じている人には神がいる。信じていない人にはいない」
と言いましたが・・・・・決してそういうことでは ありません。
神がいないのであれば 何も存在しないのです。
この宇宙はすべてが規則正しく秩序を持って まわっています。
神は最後に人を創造されました。なぜ最後なのでしょうか。
この地球上で一番素晴らしい生きものを なぜ最初でなく
最後だったのでしょうか。
これは 神の配慮(恵み)だったのです。
初めは全く何もない、光もなく真っ暗な状態。
これでは人間が生きていけません。
神はすべてを整えられてから 人間を創られたのです。
このことからも”人間は大切・人間のいのちは大切なのだ”
ということが分かります。
他のものはすべて人間の為に創られたといっても過言ではありません。
とはいえ、人間が勝手にしてよいというのではありません。
動物、植物、自然、これらすべてをコントロールさせようとなさったのです。
コントロールとは素晴らしい状態に保つ仕事を人間に任せられたということです。
これは神からの文化命令、人間の使命です。ですから、人間のいのちは尊いのです。
また聖書には「神の姿(かたち)に彼を創造し・・・・・」とあります。
これは外見のことではなく(神は霊ですから)
神の心、素晴らしさ、正しさ、聖さ、・・・・に似るようにということです。
分かりやすくいうと、私達人間はイエス・キリストに似るように創られているのです。
なんと私達の生は厳かで尊いのでしょう。自殺・・・・・とんでもないことです。
私達は 神様の最高傑作なのです。
神はひとり、ひとり、其々に目的を持って創られ すべての人が正しい生き方をするように、
と望んでおられます。
父なる天の神様 御名を崇め感謝を致します。
今日もみことばを有難うございます。
創世記から私達のいのちがどんなに素晴らしく価値があり、
あなた様から愛されている存在であるかということを学びました。
罪を犯しやすく、あなた様の愛を忘れやすいものです。
どうぞ、許してください。
いつも、主を忘れることがありませんように、
あなた様の愛に相応しい者として守り、導き続けてください。
また、神に創られたすべての人があなた様を創り主
主と覚え その頂いたいのちを大切にすることができますように、
また隣人の命をも 自分の命と等しく大切にすることが出来ますように。
この感謝 願いを 救い主 イエス・キリストのお名前を通して
お祈りいたします。・・・・・・アーメン
頂いたみことばを反芻するように、書き留めたMemoを纏めると、更なる恵みを頂く事が出来ます。
1:1 初めに、神が天と地を創造した。
1:26 そして神は、
「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。
そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。
神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
創世記1章1節・26・27節
【尊い命】
・なぜ私達のいのちは大切なのでしょうか。
・なぜ 自殺をしてはいけないのでしょうか。
・なぜ 結婚生活は 清くなければいけないのでしょうか。
答えは聖書の中にあります。
聖書の最初は 「初めに 神が天と地を創造した。」
初めに-----宇宙の初め-----神からすべてのことが始まったのです。
人間のはじめも 神から始まりました。
”神様が居ると思う人には居る、居ないと思う人には居ない。”
遠藤周作も「神を信じている人には神がいる。信じていない人にはいない」
と言いましたが・・・・・決してそういうことでは ありません。
神がいないのであれば 何も存在しないのです。
この宇宙はすべてが規則正しく秩序を持って まわっています。
神は最後に人を創造されました。なぜ最後なのでしょうか。
この地球上で一番素晴らしい生きものを なぜ最初でなく
最後だったのでしょうか。
これは 神の配慮(恵み)だったのです。
初めは全く何もない、光もなく真っ暗な状態。
これでは人間が生きていけません。
神はすべてを整えられてから 人間を創られたのです。
このことからも”人間は大切・人間のいのちは大切なのだ”
ということが分かります。
他のものはすべて人間の為に創られたといっても過言ではありません。
とはいえ、人間が勝手にしてよいというのではありません。
動物、植物、自然、これらすべてをコントロールさせようとなさったのです。
コントロールとは素晴らしい状態に保つ仕事を人間に任せられたということです。
これは神からの文化命令、人間の使命です。ですから、人間のいのちは尊いのです。
また聖書には「神の姿(かたち)に彼を創造し・・・・・」とあります。
これは外見のことではなく(神は霊ですから)
神の心、素晴らしさ、正しさ、聖さ、・・・・に似るようにということです。
分かりやすくいうと、私達人間はイエス・キリストに似るように創られているのです。
なんと私達の生は厳かで尊いのでしょう。自殺・・・・・とんでもないことです。
私達は 神様の最高傑作なのです。
神はひとり、ひとり、其々に目的を持って創られ すべての人が正しい生き方をするように、
と望んでおられます。
父なる天の神様 御名を崇め感謝を致します。
今日もみことばを有難うございます。
創世記から私達のいのちがどんなに素晴らしく価値があり、
あなた様から愛されている存在であるかということを学びました。
罪を犯しやすく、あなた様の愛を忘れやすいものです。
どうぞ、許してください。
いつも、主を忘れることがありませんように、
あなた様の愛に相応しい者として守り、導き続けてください。
また、神に創られたすべての人があなた様を創り主
主と覚え その頂いたいのちを大切にすることができますように、
また隣人の命をも 自分の命と等しく大切にすることが出来ますように。
この感謝 願いを 救い主 イエス・キリストのお名前を通して
お祈りいたします。・・・・・・アーメン
2003 06/10 19:06
Category : 日記
山と空
もしもお山が硝子だったら、
わたしも東京が見られましょうに。
お汽車で
行った
兄さんのように。
もしもお空が硝子だったら、
わたしも神さまが見られましょうに。
天使に
なった
妹のように。
++ 金子 みすず ++
もしもお山が硝子だったら、
わたしも東京が見られましょうに。
お汽車で
行った
兄さんのように。
もしもお空が硝子だったら、
わたしも神さまが見られましょうに。
天使に
なった
妹のように。
++ 金子 みすず ++
2003 06/10 19:03
Category : 日記
6月第二聖日、今日はペンテコステ(聖霊降誕)の日です。
ペンテコステとは教会の誕生日のことです。
イエス・キリストが十字架につけられ、3日後に復活なさって、40日間弟子達や、色々な場所に現れてくださいました。そうして天に昇って行かれました。それから10日後の出来事。
過ぎ越しの祭りから数えると50日後ということになります。
昇天される時に イエス様は「助け主を送る」と約束して下さったのですが、その助け主とは聖霊のことです。イエスキリストを信じる人々の心の中には聖霊さまが住んでいます。
今日の礼拝説教は「ペンテコステの祝福」と題して 井上牧師がみことばを取り次いで下さいました。
『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、
彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、
他国のことばで話しだした。』 使徒の働き2章1〜4節
私たちにとっては突然であるかもしれませんが、神にとってはご計画が遂行されたに過ぎないのです。
聖書の中で 目に見えない実在として よく風が用いられます、また神の臨在の象徴として火も用いられます。
(たいまつの火・モーセが十戒を賜るときの燃える柴・出エジプトの際は昼は雲の柱・夜は火の柱、サムソンの誕生の際の炎の中という表現、等々)
私達は聖書を読んで、教会へ行ったから 自動的にクリスチャンになったわけではありません。
何十年も教会に集って 福音を聞いても イエス・キリストを受け入れない人・・・・。
聖霊様が働いて下さらなければ 誰もイエス・キリストを主と告白することは出来ないのです。
『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』
第�Tコリント12-3
本来人間というのは、自分は罪人ではない、自分は正しいと思っているのですから、
自分の罪が分かったということは聖霊が働いたということであり、
クリスチャンになったということは 聖霊を戴いたということなのです。
神は一つですが 3つのペルソナ(人格)をお持ちです。
父なる神・御子なるイエス・御霊・・・三位一体の神です。
心優しくない人---->心優しい人にはなれないのですが、聖霊が人格を変えてくださるのです。
聖霊に満たされなさい、消してはいけないと聖書は教えます。
福音を述べ伝えるのも その人の議論で勝利するのではなく(旨い、下手でなく)聖霊に委ねるとき聖霊ご自身が語ってくださるのです。
神は天地創造以前に 聖徒計画をお持ちで 私達クリスチャンを選び出しておられました。
人間の持っている生まれつきの宗教心が たまたま出会った宗教に入信したというのではありません。下から上へ求めたのでなく、上から下・・・・選ばれたのです。
「ローマ書8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、・・・・・」
「ローマ書8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
と記されているとおりです
『御霊に満たされましょう。』・・・・・アーメン
ペンテコステとは教会の誕生日のことです。
イエス・キリストが十字架につけられ、3日後に復活なさって、40日間弟子達や、色々な場所に現れてくださいました。そうして天に昇って行かれました。それから10日後の出来事。
過ぎ越しの祭りから数えると50日後ということになります。
昇天される時に イエス様は「助け主を送る」と約束して下さったのですが、その助け主とは聖霊のことです。イエスキリストを信じる人々の心の中には聖霊さまが住んでいます。
今日の礼拝説教は「ペンテコステの祝福」と題して 井上牧師がみことばを取り次いで下さいました。
『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、
彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、
他国のことばで話しだした。』 使徒の働き2章1〜4節
私たちにとっては突然であるかもしれませんが、神にとってはご計画が遂行されたに過ぎないのです。
聖書の中で 目に見えない実在として よく風が用いられます、また神の臨在の象徴として火も用いられます。
(たいまつの火・モーセが十戒を賜るときの燃える柴・出エジプトの際は昼は雲の柱・夜は火の柱、サムソンの誕生の際の炎の中という表現、等々)
私達は聖書を読んで、教会へ行ったから 自動的にクリスチャンになったわけではありません。
何十年も教会に集って 福音を聞いても イエス・キリストを受け入れない人・・・・。
聖霊様が働いて下さらなければ 誰もイエス・キリストを主と告白することは出来ないのです。
『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』
第�Tコリント12-3
本来人間というのは、自分は罪人ではない、自分は正しいと思っているのですから、
自分の罪が分かったということは聖霊が働いたということであり、
クリスチャンになったということは 聖霊を戴いたということなのです。
神は一つですが 3つのペルソナ(人格)をお持ちです。
父なる神・御子なるイエス・御霊・・・三位一体の神です。
心優しくない人---->心優しい人にはなれないのですが、聖霊が人格を変えてくださるのです。
聖霊に満たされなさい、消してはいけないと聖書は教えます。
福音を述べ伝えるのも その人の議論で勝利するのではなく(旨い、下手でなく)聖霊に委ねるとき聖霊ご自身が語ってくださるのです。
神は天地創造以前に 聖徒計画をお持ちで 私達クリスチャンを選び出しておられました。
人間の持っている生まれつきの宗教心が たまたま出会った宗教に入信したというのではありません。下から上へ求めたのでなく、上から下・・・・選ばれたのです。
「ローマ書8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、・・・・・」
「ローマ書8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」
と記されているとおりです
『御霊に満たされましょう。』・・・・・アーメン
2003 06/06 21:00
Category : 日記
◆聖書日課
『 おまえはだれのものか。』 �Tサムエル30章13節
信仰において中立はない。インマヌエルの君の旗の下にあって主に仕え、主のために戦っているか、あるいは暗黒のサタンに仕えているかのいずれかである。
あなたの回答を助けよう。
・あなたは、「新しく生まれて」いるか。それならあなたはキリストのものである。
しかし「新しく生まれて」いなければ、キリストのものではない。
・だれを信頼しているか。イエスを信じる者は神の子である。
・だれのわざをしているか。
あなたはたしかにその主人に仕えている。あなたの仕える人があなたの主人なのだから。
・また、どんな友人と交わっているか。
もしイエスに属するならば、十字架のしるしのある服を着た人々と親しく交わるであろう。
「類は友を呼ぶ」のである。
・どんな話を好むか。天上のことであろうか。地上のことであろうか。
・自分が仕える主人から何を学んだであろうか。しもべは仕えている主人から多くのことを学ぶ。
もしあなたが自分の時間をイエスにささげているならば、ペテロやヨハネのように
「イエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」と言うであろう。
●あなたに問う。「おまえはだれのものか。」
今夜眠る前に正直に答えてほしい。もしキリストのものでなければ、あなたの奉仕は苦しみを伴う。
あなたの残酷な主人から逃げ去って 愛の主に仕えよ。
そうすれば祝福の生涯を楽しむことができるだろう。
あなたがキリストのものならば、なすべき四つのことをお勧めする。
あなたがキリストのものならば、
1.
主に従え。主のみことばをあなたの戒めとし、
主のみこころをあなたの意志とせよ。あなたは神の愛される御子のものである。
2.
では御子を愛せよ。あなたの心に御子を受け入れよ。あなたのたましいを御子によって隅々まで満たせ。あなたは神の御子のものである。
3.
それなら御子に信頼せよ。この方以外のところで憩いをとってはならない。あなたは王の王に属するものである。
4.
では、王のために命をささげよ。それによって、あなたの額に焼き印を押さなくても、あなたがだれのものか、すべての人が知るであろう
「夕ごとに」 By Charles Haddon Spurgeon
『 おまえはだれのものか。』 �Tサムエル30章13節
信仰において中立はない。インマヌエルの君の旗の下にあって主に仕え、主のために戦っているか、あるいは暗黒のサタンに仕えているかのいずれかである。
あなたの回答を助けよう。
・あなたは、「新しく生まれて」いるか。それならあなたはキリストのものである。
しかし「新しく生まれて」いなければ、キリストのものではない。
・だれを信頼しているか。イエスを信じる者は神の子である。
・だれのわざをしているか。
あなたはたしかにその主人に仕えている。あなたの仕える人があなたの主人なのだから。
・また、どんな友人と交わっているか。
もしイエスに属するならば、十字架のしるしのある服を着た人々と親しく交わるであろう。
「類は友を呼ぶ」のである。
・どんな話を好むか。天上のことであろうか。地上のことであろうか。
・自分が仕える主人から何を学んだであろうか。しもべは仕えている主人から多くのことを学ぶ。
もしあなたが自分の時間をイエスにささげているならば、ペテロやヨハネのように
「イエスとともにいたのだ、ということがわかって来た」と言うであろう。
●あなたに問う。「おまえはだれのものか。」
今夜眠る前に正直に答えてほしい。もしキリストのものでなければ、あなたの奉仕は苦しみを伴う。
あなたの残酷な主人から逃げ去って 愛の主に仕えよ。
そうすれば祝福の生涯を楽しむことができるだろう。
あなたがキリストのものならば、なすべき四つのことをお勧めする。
あなたがキリストのものならば、
1.
主に従え。主のみことばをあなたの戒めとし、
主のみこころをあなたの意志とせよ。あなたは神の愛される御子のものである。
2.
では御子を愛せよ。あなたの心に御子を受け入れよ。あなたのたましいを御子によって隅々まで満たせ。あなたは神の御子のものである。
3.
それなら御子に信頼せよ。この方以外のところで憩いをとってはならない。あなたは王の王に属するものである。
4.
では、王のために命をささげよ。それによって、あなたの額に焼き印を押さなくても、あなたがだれのものか、すべての人が知るであろう
「夕ごとに」 By Charles Haddon Spurgeon
2003 06/01 21:51
Category : 日記
本日は台風一過の青空が広がりました。
最近怠け気味で、礼拝説教がたまってしまいました。
今夜は5月25日のバイブルクラス学びを
Gospelに1アップです。
同じものをDiaryにも記します。
■「成熟への道」ヤコブの手紙1章2〜12節
[私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。
そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、
とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。
疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。
富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。
なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。
太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。
すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。
同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。
試練に耐える人は幸いです。
耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、
いのちの冠を受けるからです。]
新約聖書にはヤコブという人物は4人登場します。
・アルパヨの子 ヤコブ(小ヤコブ)
・イスカリオテでない使徒ユダの父 ヤコブ
・ゼベダイの子 ヤコブ
・主の兄弟である ヤコブ
ヤコブの手紙は 主の兄弟ヤコブが AD45〜48頃に書かれたものであると考えられます。
当時国外に散っていたユダヤ人キリスト者が試練にあっているのを励まし、
信仰があれば行いはなくてもよいとする誤りを正した手紙です。
もちろん救われるのは パウロがローマ書で語った、信仰義認。
行いによって救われるのではなく、信じる信仰・・・・
恵みによって救われるという教理に反するものではありません。
救われたものであれば、救われた者にふさわしく
あらゆる生活の場面で信仰が現されるべきであり、
頭の中で知識としてのみではならないと語ります。
ヤコブ書は具体的な試練の中でどのようにするのか。という
信仰の行いについて記しています。
信仰の実践の中心となる聖句2−17で
『それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。』
”野田秀先生の著書で
行いの強調というより謙遜について ヤコブ書は考えさせられ 吟味させられる。”とあります。
聖書には クリスチャンになっても試練は必ずあります。
・・・・生きている間 苦しみ悲しみ試練はあります。と書いてあります。
『あなたがたは、世にあっては患難があります。』ヨハネ16章33節
ではそのような苦しみにあったとき
私たちは この上もない喜びと思いなさいと・・・・・
(ふりをしなさいとは言っていません。)
この喜びは嬉しいとは違う もっと深い意味があります。
神様を試練の前に置くのです。
苦難の意味とは・・・・。
●1.信仰が試される。
もちろん全能であられる神は私達の信仰が本物であるかどうかご存知です。
本物のクリスチャンにしようと訓練なさるのです。
私達に期待をし、愛を持って 将来に備え育てようとなさるのです。
●2.忍耐が生じる
樹木が成長するとき年輪が出来、頑丈になっていきます。
同様に 忍耐することによって 軟弱でない
身の締まった強いクリスチャンに育っていくのです。
●3.成長した完全な者となる為
完全とは・・・・・神のような完全とは違います。
・あらゆる部分で充実し、成熟した
霊的な大人になるという意味があります。
神は成長したクリスチャンを私達の中に見ておられる。
有名な聖句 第�Tコリント10章13節
『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』
私達は潰れてしまうことはなく、必ず配慮がなされているというのです。
12節で「いのちの冠を受けるからです。」と結んであります。
私達はこの世の歩みを終えるとき
「よくやった、忠実な僕よ」と主に言って頂けるのです。
主よ感謝いたします。
天において いのちの栄冠に預かる身とされている
この約束を信じます。
どうぞあなたに贖われた者に相応しく
行いが伴ったクリスチャンとして歩むことが出来ますように、御前に整え導いて下さい。
尊い主イエスキリストのお名前によって祈ります。・・・・・アーメン
最近怠け気味で、礼拝説教がたまってしまいました。
今夜は5月25日のバイブルクラス学びを
Gospelに1アップです。
同じものをDiaryにも記します。
■「成熟への道」ヤコブの手紙1章2〜12節
[私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。
そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、
とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。
ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。
疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。
そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。
そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。
貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。
富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。
なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。
太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。
すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。
同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。
試練に耐える人は幸いです。
耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、
いのちの冠を受けるからです。]
新約聖書にはヤコブという人物は4人登場します。
・アルパヨの子 ヤコブ(小ヤコブ)
・イスカリオテでない使徒ユダの父 ヤコブ
・ゼベダイの子 ヤコブ
・主の兄弟である ヤコブ
ヤコブの手紙は 主の兄弟ヤコブが AD45〜48頃に書かれたものであると考えられます。
当時国外に散っていたユダヤ人キリスト者が試練にあっているのを励まし、
信仰があれば行いはなくてもよいとする誤りを正した手紙です。
もちろん救われるのは パウロがローマ書で語った、信仰義認。
行いによって救われるのではなく、信じる信仰・・・・
恵みによって救われるという教理に反するものではありません。
救われたものであれば、救われた者にふさわしく
あらゆる生活の場面で信仰が現されるべきであり、
頭の中で知識としてのみではならないと語ります。
ヤコブ書は具体的な試練の中でどのようにするのか。という
信仰の行いについて記しています。
信仰の実践の中心となる聖句2−17で
『それと同じように、信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。』
”野田秀先生の著書で
行いの強調というより謙遜について ヤコブ書は考えさせられ 吟味させられる。”とあります。
聖書には クリスチャンになっても試練は必ずあります。
・・・・生きている間 苦しみ悲しみ試練はあります。と書いてあります。
『あなたがたは、世にあっては患難があります。』ヨハネ16章33節
ではそのような苦しみにあったとき
私たちは この上もない喜びと思いなさいと・・・・・
(ふりをしなさいとは言っていません。)
この喜びは嬉しいとは違う もっと深い意味があります。
神様を試練の前に置くのです。
苦難の意味とは・・・・。
●1.信仰が試される。
もちろん全能であられる神は私達の信仰が本物であるかどうかご存知です。
本物のクリスチャンにしようと訓練なさるのです。
私達に期待をし、愛を持って 将来に備え育てようとなさるのです。
●2.忍耐が生じる
樹木が成長するとき年輪が出来、頑丈になっていきます。
同様に 忍耐することによって 軟弱でない
身の締まった強いクリスチャンに育っていくのです。
●3.成長した完全な者となる為
完全とは・・・・・神のような完全とは違います。
・あらゆる部分で充実し、成熟した
霊的な大人になるという意味があります。
神は成長したクリスチャンを私達の中に見ておられる。
有名な聖句 第�Tコリント10章13節
『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』
私達は潰れてしまうことはなく、必ず配慮がなされているというのです。
12節で「いのちの冠を受けるからです。」と結んであります。
私達はこの世の歩みを終えるとき
「よくやった、忠実な僕よ」と主に言って頂けるのです。
主よ感謝いたします。
天において いのちの栄冠に預かる身とされている
この約束を信じます。
どうぞあなたに贖われた者に相応しく
行いが伴ったクリスチャンとして歩むことが出来ますように、御前に整え導いて下さい。
尊い主イエスキリストのお名前によって祈ります。・・・・・アーメン