2003年11月の記事


11/18  の聖書日課
◆あなたは、とこしえからおられます。 

詩篇93編2節


キリストは永遠に生きておられる。

私たちは主について詩篇の記者とともに「神よ。あなたの王座は世々限りなく」と歌いたい。

昨日も今日も変わることのないイエス・キリストにあって喜べ。イエスは常に存在された。

ベツレヘムに生まれたみどりごは、初めよりおられ、すべてのものを創造された神のことばであった。

キリストがパトモスのヨハネに現れた時の肩書きは、

「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」であった。

もし主が永遠の昔から神でなかったとすれば、私たちは心を尽くして主を愛することはできない。

しかし、主は永遠の昔より御父とともにおられた。

ゆえに私たちは、御父およびほむべき御霊と同じく、神の愛の源を主ご自身に見いだす。

私たちの主は、今まで常におられたのと同様に、絶えず現存される。死んでおられるのではない。

「キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」

主はあなたを祝福するために待っておられる。だからいつでもみもとに行け。

さらに、私たちの主なるイエスは、将来も常に存在される。

もし神があなたに70年の一生を許されたとしても、その時 依然として汚れをきよめる泉が開かれ、

尊い血潮が依然として効力を失わないことを発見するであろう。

ご自身の血潮をもっていやしの泉を満たされた大祭司が、

すべての罪からあなたをきよめるために生きることをあなたは知るであろう。

あなたの最後の戦いだけが残る時、あなたは勝利の君の御手が衰えていないことを知るであろう。

生きておられる救い主は、臨終の聖徒を力づけられる。

さらにあなたが天国に入る時、そこに主を見いだすであろう。

そして永遠の将来にわたって、主イエスはその民にとって

喜びといのちと栄光の尽きることのない泉であられる。

あなたが生ける水を聖なる井戸からくむように!

イエスは、常にいまし、昔いまし、後に来られる方である。

あらゆる属性、職務、力において、また選ばれたご自分の民を祝福し、

慰め、守り、冠を授けようとされる意志において、主は永遠であられる。

By Charles Haddon Spurgeon
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11月21日(金) 晴れ
◆見よ。処女がみごもっている。

そして男の子を産み、その名を「インマヌエル」と名づける。

イザヤ 7章14節


今日ベツレヘムに行き、驚く羊飼い、礼拝する博士たちと共に、

ユダヤ人の王としてお生まれになった方にお会いしようではないか。

それは私たちが信仰により主にあって富を求め、

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」

と歌うことができるためである。

イエスは受肉された主であり、私たちの主、私たちの神であり、さらに私たちの長兄であり友である。

私たちは彼をあがめ、ほめたたえようではないか。

まず注意したいことは、主が奇蹟によってみごもられたことである。

これはかつて耳にしなかったことであり他に例がない。

処女がみごもって男の子を産んだというのである。

最初の約束は、「女の子孫」であり、男の子孫ではなかった。

初めに女が楽園喪失の罪を招いたため、今は女が楽園の回復者を迎え入れた。

私たちの救い主は真に人であられたが、同時に神の御子であられた。

主はその罪のないことによって、人間の喪失した昔の栄光を回復された。

私たちは、主が私たちのうちに栄光の望みとなられるように祈ろうではないか。

また主の両親が決して身分の高い人ではなかったことを見落としてはならない。

主の母は 「処女」と記されているのみで、女王とも女預言者とも、大金持ちの夫人であった。

とも記されてはいない。

たしかに彼女の血管には、王族の血が流れていた。また教育のない女でもなかった。

なぜなら、彼女は実に巧みに神をほめる歌を歌うことができたからである。

しかし彼女の地位はなんとみすぼらしく、その婚約者はなんと貧しく、

新しい王の誕生のための設備はなんと貧弱であったことか。

インマヌエル-----神は私たちの性格の中に、悲哀の中に、生涯の事業の中に、

受けなければならない懲罰の中に、また私たちの墓の中に共におられ、現在も共におられる。

否、私たちは、復活に、昇天に、勝利に、そして輝かしい再臨において

主と共にいるのである。

By Charles Haddon Spurgeon
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一足早いクリスマス
クリスマスを待ちきれなくて
今日からクリスマスバージョンに致しました。
一足早いクリスマスです。
少しずつアップしていきましょう。


『 ひとりのみどりごが、 私たちのために生まれる。

ひとりの男の子が、 私たちに与えられる。

主権はその肩にあり、 その名は

「不思議な助言者、 力ある神、永遠の父、平和の君」

と呼ばれる。』  イザヤ書9章6節
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聖日礼拝説教をアップ
11月9日の主日礼拝は子ども祝福式がありました。
少年イエスさまが神と人とに愛されてすくすく成長されたように、
子ども達も守られますように とお祈りをお捧げいたしました。
私たちの教会は大人も子供も一緒の礼拝なので礼拝説教も
分かりやすい言葉で牧師先生がお話してくださいます。

今日の礼拝説教は『神さまに似せて造られた私達』と題し
創世記1:25〜27節から の説き明かしでした。

『1:25 神は、その種類にしたがって 野の獣、その種類にしたがって家畜、
その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。
神は見て、それをよしとされた。
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。
神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」



私たち人間はどこから来ましたか?
両親から・・・・祖父母から・・・祖祖父母から・・・・・・・ずっと、ずっと遡っていきます。
聖書のなかに その答えがあります。
私たち人間は 神さまから来ました。
神さまによって造られました。

「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」

神は自らをわれわれと複数形で示されています。
三人でひとりの神さま・・・・三位一体の神であることが分かります。
では、神に似るようにとは どのようなことでしょうか?
神は霊ですから、目には見えません。形がないのです。
ですから、心の中に入ることもお出来になりますし、
同じ時に いろいろな場所に存在することがお出来になります。
つまり、神さまのご性質に似るように造られたのが人間なのです。
神さまに似るように・・・・・とは。

■(1)霊がある。

神は霊のお方ですから、私たちにも霊があります。
私たち人間は、神は信じないという人でも、苦しい時、
最後の時には祈ります。お祈りが出来るのは人間だけです。
礼拝---・人間は霊を働かせる、場所と時が必要です。
    ・ですから私たちは礼拝をお捧げします。

■(2)交わりの存在である。

人間は一人では生きていけません。
人と人の間で生きて、文字通り 人間なのです。
三位一体の神さまも(父・御子・御霊)愛の交わりの中にあります。
ですから人と仲良く、交わりながら生活します。

■(3)頭で考えることができる。(知恵と知識がある。)

これも神に似るように造られた存在だからです。
知恵と知識があるので、聖書を読み、心を清めます。
”海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを支配させよう。”
これらのものをコントロールするのが人間の役割です。

■(4)善悪の判断が出来る道徳的な存在である。

私たちは誰にも習わないのに、良いこと、悪いことを
判断することができます。
これら4つのことをしっかり守って生きる時 人間らしく生きられます。
幸せに生きられるのです。
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11月11日(火) 晴れ
聖書日課

◆『主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。』  

(詩篇47:4)

信者よ。たとえあなたの受け継ぐものが卑しくても、地上のその分で満足しなければならない。
あなたのために、それは最も適していると確信してよいからである。
誤ることのない知恵が、あなたの受け継ぐものを定め、あなたのために最善の、最も安全な境遇をお選びになったからである。

大きな船が河を航行している時、一つの砂州にでくわしたとする。
その時だれかが「なぜ船長は河の深い所だけを選んで航行し、まっすぐ船を進ませないのだろう」と尋ねるならば、船長は答えるだろう。
「河の深みに沿って進まなければ、とうてい港に着くことはできない」と。
同様に、もしあなたの船長である神が、あなたを導いて、次々と打ち寄せる苦難の深みを通過させられないならば、あなたは暗礁に乗り上げ、難船してしまうであろう。

ある種の植物は、あまり日に当てると枯れてしまう。
あなたは、あるいはあまり日当たりのよくない所に植えられているかもしれない。
あなたはその境遇にあってのみ完全に至る実を結ぶので、愛に富んでおられる天の農夫があなたをそこに置かれたのである。
このことを覚えてほしい。あなたにとって現在にまさる所があるならば、神の愛はあなたを必ずそこに置かれたに相違ないことを。
あなたは神によって、最も適切な環境の中に置かれた。
主はあなたの益を思い、あなたに関する一切をお定めになった。
だから、現在もっているもので満足せよ。
日々に自分の十字架を負え。
それはあなたの肩に最適の重荷であり、神の栄光のために、あなたに良いことばとわざを全うさせるために最大の効力を表す。
忙しく立ち回る自分と、高慢な性急を倒せ。選ぶのはあなたではなく、愛の主である。

 試みがあらしとなってきても

 謙虚な信仰をもって

 そのすべてに愛のしるしを見る

 ここにこそ、私の幸いがある


”朝ごとに”より.....スポルジョン著
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11月8日(土)晴れ
◆『 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、
わたしの証人となります。』
使徒の働き1章8節
キリストの証人としての務めを全うしようと願うならば、主ご自身の模範を見よ。主は絶えず証しをされた。
サマリヤの井戸のかたわらで、エルサレムの宮で、ゲネサレの湖畔で、あるいは山の上で、夜も昼も証しをされた。
さらに主の力ある祈りは、主の日ごとの務めと同じように神に受け入れられた。あらゆる環境の中で主は証しされた。
学者もパリサイ人も主の口を閉ざすことはできなかった。ピラトの前でさえも良い言い表しをされた。
非常に明確に証しをされたため、誤解を招く余地は一点もなかった。
キリスト者よ。あなたの生活を、あざやかな証しとせよ。
あなた自身を、川底の石がみな見えるまでに澄み切った小川のようにせよ。
ただ表面のみが見える濁った流れのようにではなく、底まで透き通る流れとなれ。
こうして、神と人とに対するあなたの愛をすべての人に見せよ。あなたが自ら「私は真実だ」と言う必要はない。
真実な者となれ。自分の正しさを誇らず、正しい者となれ。人々はあなたの証しを見ないわけにいかなくなる。
弱い人間を恐れて、証しをやめるようなことが決してあってはならない。
あなたのくちびるは祭壇の炭火で熱くされたのだから、天の炎に触れられたように語らなければならない。
雲を見つめず、風にも問うな。時が良くても悪くても、救い主のために証しをせよ。
キリストと福音のため、何らかの苦難を忍ばなければならなくなっても恐れるな。
むしろ、主とともに苦しむに足る者とされた栄誉が自分のものになったのを覚えて喜べ。
さらに、あなたが受ける苦難、損失、迫害があなたを講壇とし、そこからあなたが以前にまさる熱情と力とをもって、キリスト・イエスのために証しのできることを覚えて喜べ。
主の偉大な模範を学び、主の御霊に満たされよ。
自分の証しが主の栄光のためになることを願うなら、あなたはさらに多く教えられ、支えられ、恵まれ、へりくだらなければならないことを心に銘記せよ。
BY Charles Haddon Spurgeon.

主よ感謝します。弱った魂を支えてください。
わたくしはひとりでは何もできません。聖霊さまに満たされ、聖霊様ご自身が魂に語りかけて下さり強めて下さいますように。
今日もあなたさまの喜ばれ歩みができますように・・・・。
主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。・・・・・・・アーメン
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11月6日(水) 雨のちくもり
聖書日課”朝ごとに”より.....スポルジョン著


◆[見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。] イザヤ49:16

「見よ」ということばの中に表れている神の驚きは、その一部が前の句にある不信仰への嘆きから来ている。
シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
この不信仰のことばを聞いて、神はどんなに驚かれたことであろう。

神の愛された民の口から出る根拠のない疑いや恐れほど、驚くべきものがあろうか。
主の優しいお叱りのことばを聞くと、私たちは赤面する。
主は、声を大にして言われる。
「わたしは手のひらにあなたを刻んだのに、どうして忘れることができようか。
おまえの思い出がわたしの肉に刻まれているのに、どうしてわたしが常におまえを思っていることを疑うのか」と。

不信仰な者よ。あなたはなんと不可解な人間か。
私たちは神の誠実とその民の不信仰とのどちらが驚くべきものであるかを知らない。
神はこれまで、数え切れないほど多くの約束を守られた。
それにもかかわらず、次の試練が来ると私たちは神を疑う。
神は決して失敗されない。
神は決して、空井戸、落日、流星、またかげろうのようなお方ではない。
それにもかかわらず私たちは、あたかも私たちの神が砂漠の蜃気楼ででもあるかのように思って、悩み、疑い、かつ恐れている。

「見よ」ということばは、驚嘆を呼び起こすために発せられたことばである。
事実ここには、私たちにとって真に驚きに値することがある。
私たち反逆者が、神の手のひらに刻まれるほどに無限の愛をもっておられる神に近づけられるとは、天地が驚嘆したとしても無理のないことである。
ここには「わたしはあなたを刻んだ」とあって、「あなたの名前を」とは記されていない。
もちろん名前も刻まれているであろうが、それだけではない。
「わたしはあなたを刻んだ」のである。このことばの含む完全性を見よ。
「わたしはあなたの人格、姿、事情、環境、罪、誘惑、弱さ、欠乏、働きを刻んだ。
わたしはあなたを刻んだ」と言われるのである。
神がこのようにあなたを手のひらに刻んでおられるというのに、あなたはなおも、主は私を捨てられた、と言うのか。
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心をあらたにすることによって
月末の忙しさと化学療法により、体調が悪く、ここのところNETはお休みしていました。

そんな中で日曜日の礼拝メッセージは 韓国OMF宣教師・柳先生より
『ローマ書12章1〜2』からみことばを取次いで頂きました。

『12:1 そういうわけですから、兄弟たち。

私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。

それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

12:2 この世と調子を合わせてはいけません。

いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、

完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』


・私たちクリスチャンは日常生活のなかにあって、どのように神を体験しているか?

・イエスさまと共に歩んでいるのか?

ということを真剣に問うべきです。

私たちが生きているこの世から 影響を受けます。

しかし、パウロが天に召されるまで彼を支えたみことば”ガラテヤ2:20”

「2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。

いま私が、この世に生きているのは、私を愛し

私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

と告白していますが、彼の信仰の歩みはこの世のものではありませんでした。

12:1・・・日曜日の礼拝のみでは この極みに達することは出来ません。

・礼拝には肉体が深く関わっているということ。
・すべての時間・空間が礼拝に捧げられていること。

教会とは建物(教会堂)ではなく 1人1人が遣わされている所(家庭、職場、学校)
である。
私達が その所にあって体全体を礼拝の中に置くこと、
すなわち、すべての生活(日々の歩み)が神に捧げられていること、
このことは教会堂で捧げる日曜礼拝よりもっと大切な意味を持っているといえます。

・私たちの肉体は聖霊の宮である。
・私たちの肉体は心と魂が宿る器である。

このことを覚え、自分の心を探り思いを巡らす必要があります。

・密室で真の祈りによって、神の御心を判別する洞察力が与えられる。
・自分の歩みの告白・・・・神の御前に出て神の民が持つべき倫理が働いているかどうか?

を みことばのひかりに照らし・・・・己を顧みる大切さ。

私達は沈黙の中で、静まり、黙想するときに 神さまの御手が心に触れて下さって、
罪を示され、悔い改めへと導かれるのです。
心の一新によって、神への芳しい和解の供え物をお捧げすることができるのです。



父なる神さま 御名を讃美します。
ローマ書から 御言葉をありがとうございます。
あなた様は私が忘れていたり、また眠っている時であっても
共におられ、共に歩んで下さっていることを覚え感謝をいたします。
どうぞ主よ、遣わされている場所で、日々証の生活が出来ますように、
また もっともっと御前に静まり ディボーションの時を大切にすることが
出来ますように 今週一週間の歩みをも導いてください。

主の御名によって祈ります。・・・・・ アーメン
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