2003 06/23 18:09
Category : 日記
今日の聖書日課
◆神は、罪を知らない方を、
私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、
神の義となるためです。
�Uコリント5章21節
悲しんでいるクリスチャンよ。なぜ泣いているのか。あなたは自分の腐敗を嘆くのか。
しかし、あなたの完全な主を仰ぎ、あなたが主にあって完全であることを覚えよ。
あなたは神の目から見れば、かつて一度も罪を犯さなかったように完全である。
否、そればかりでなく、私たちの義である主は、あなたに神の衣をまとわせられたのである。
だからあなたは人の義以上のもの、すなわち神の義をもっている。
生来の罪と堕落とを悲しむ者よ。あなたの罪は決してあなたを罪としないことを覚えよ。
あなたは罪を憎むことを知ったと同時に、罪があなたになくキリストの頭に置かれたことをも知った。
あなたは自分で立っているのではなく、キリストのうちにあって立つ。
自己の力によって受け入れられたのではなく、主にあって受け入れられた。
あなたは罪の身を嘆くが、すべての汚れを除かれて御座の前に立つ時と同じように、
今 神に受け入れられている。
あなたに勧める。
「キリストにあって完全」というこの尊い思想を銘記せよ。
あなたは「キリストにあって、満ち満ちている。」
救い主の衣をまとっているあなたは救い主のように聖い。
「罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、
私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
主にある友よ。心から喜べ。愛する御子によって受け入れられているのに、何を恐れることがあろうか。
常に微笑をたたえ、主に近く住み、天の都の郊外に住め。
やがて時が来ると、あなたはイエスの座しておられる所に上げられ、
勝利の後イエスが父なる神の右にお座りになったように、イエスの右にあって統べ治める。
これはみな、神が「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた」からである。
それは「私たちが、この方にあって、神の義となるため」であった。
[ 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。]
ルカ23-31
この暗示に富んでいる聖句には、さまざまな解釈がなされるが、次のように見ると教訓深い。
「もし罪のない身をもって罪人に代わった自分さえこのような苦しみを受けるならば、
枯れ木である罪人自身が、お怒りになっておられる神の御手に陥る時、
その苦しみはいかばかりであろうか。」
神が罪人の位置にイエスをご覧になった時、それを見過ごしにされなかった。
その神が、キリストなく、生まれ変わっていない者をご覧になる時は、まずその者を赦されない。
罪人よ。イエスが敵に捕えられたように、あなたも悪魔によって定められた所に連れ去られる。
イエスは神に捨てられた。罪人の身代わりとなられたイエスが捨てられたとすれば、ましてあなたはどうか。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ 」
なんと恐ろしい叫びであろう。しかしあなたが
「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」
と叫ばなければならないとしたら! その時の答えはこうでなかろうか。
「あなたはわたしのすべての勧めと戒めを捨てた。ゆえにあなたのわざわいの時、
わたしは笑い、恐慌に出会う時、わたしはあざける。」
神がそのひとり子さえ赦されなかったとすれば、どうしてあなたを赦されることがあろうか。
あなたの良心があらゆる恐怖をもってあなたを打つ時、そのむちは焼け火ばしのようであろう。
罪人よ。「剣よ。目をさましてわたしを拒んだ者を攻めよ。彼に永遠の痛手を与えよ」
と言われる時、あなたは立ち得るだろうか。
イエスは顔につばきをかけられた。
それゆえ罪人よ。あなたの受ける恥辱はどれだけのものであろうか。
私たちのために死なれたイエスの頭上に降った多くの悲哀は一言では言い表せない。
それゆえ、あなたが現在の状態で死んだら、どのような苦悩の大波が襲うかは言い表せない。
あなたはそのような死に方をするかもしれない。
キリストの苦しみとその傷と御血潮によって、来るべき怒りを招かないようにせよ。
神の御子を信ぜよ。そうすれば決して死ぬことがない。
BY Charles Haddon Spurgeon
◆神は、罪を知らない方を、
私たちの代わりに罪とされました。
それは、私たちが、この方にあって、
神の義となるためです。
�Uコリント5章21節
悲しんでいるクリスチャンよ。なぜ泣いているのか。あなたは自分の腐敗を嘆くのか。
しかし、あなたの完全な主を仰ぎ、あなたが主にあって完全であることを覚えよ。
あなたは神の目から見れば、かつて一度も罪を犯さなかったように完全である。
否、そればかりでなく、私たちの義である主は、あなたに神の衣をまとわせられたのである。
だからあなたは人の義以上のもの、すなわち神の義をもっている。
生来の罪と堕落とを悲しむ者よ。あなたの罪は決してあなたを罪としないことを覚えよ。
あなたは罪を憎むことを知ったと同時に、罪があなたになくキリストの頭に置かれたことをも知った。
あなたは自分で立っているのではなく、キリストのうちにあって立つ。
自己の力によって受け入れられたのではなく、主にあって受け入れられた。
あなたは罪の身を嘆くが、すべての汚れを除かれて御座の前に立つ時と同じように、
今 神に受け入れられている。
あなたに勧める。
「キリストにあって完全」というこの尊い思想を銘記せよ。
あなたは「キリストにあって、満ち満ちている。」
救い主の衣をまとっているあなたは救い主のように聖い。
「罪に定めようとするのはだれですか。
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、
私たちのためにとりなしていてくださるのです。」
主にある友よ。心から喜べ。愛する御子によって受け入れられているのに、何を恐れることがあろうか。
常に微笑をたたえ、主に近く住み、天の都の郊外に住め。
やがて時が来ると、あなたはイエスの座しておられる所に上げられ、
勝利の後イエスが父なる神の右にお座りになったように、イエスの右にあって統べ治める。
これはみな、神が「罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされた」からである。
それは「私たちが、この方にあって、神の義となるため」であった。
[ 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。]
ルカ23-31
この暗示に富んでいる聖句には、さまざまな解釈がなされるが、次のように見ると教訓深い。
「もし罪のない身をもって罪人に代わった自分さえこのような苦しみを受けるならば、
枯れ木である罪人自身が、お怒りになっておられる神の御手に陥る時、
その苦しみはいかばかりであろうか。」
神が罪人の位置にイエスをご覧になった時、それを見過ごしにされなかった。
その神が、キリストなく、生まれ変わっていない者をご覧になる時は、まずその者を赦されない。
罪人よ。イエスが敵に捕えられたように、あなたも悪魔によって定められた所に連れ去られる。
イエスは神に捨てられた。罪人の身代わりとなられたイエスが捨てられたとすれば、ましてあなたはどうか。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ 」
なんと恐ろしい叫びであろう。しかしあなたが
「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか」
と叫ばなければならないとしたら! その時の答えはこうでなかろうか。
「あなたはわたしのすべての勧めと戒めを捨てた。ゆえにあなたのわざわいの時、
わたしは笑い、恐慌に出会う時、わたしはあざける。」
神がそのひとり子さえ赦されなかったとすれば、どうしてあなたを赦されることがあろうか。
あなたの良心があらゆる恐怖をもってあなたを打つ時、そのむちは焼け火ばしのようであろう。
罪人よ。「剣よ。目をさましてわたしを拒んだ者を攻めよ。彼に永遠の痛手を与えよ」
と言われる時、あなたは立ち得るだろうか。
イエスは顔につばきをかけられた。
それゆえ罪人よ。あなたの受ける恥辱はどれだけのものであろうか。
私たちのために死なれたイエスの頭上に降った多くの悲哀は一言では言い表せない。
それゆえ、あなたが現在の状態で死んだら、どのような苦悩の大波が襲うかは言い表せない。
あなたはそのような死に方をするかもしれない。
キリストの苦しみとその傷と御血潮によって、来るべき怒りを招かないようにせよ。
神の御子を信ぜよ。そうすれば決して死ぬことがない。
BY Charles Haddon Spurgeon