2004年04月の記事
2004 04/28 22:14
Category : 日記
礼拝説教「私達の使命」と題して ヨハネ21章から解き明かしをして頂きました。
第 21章
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。
その現わされた次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」
彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」
彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。
けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」
彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」
すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。
陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。
それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。
それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。
「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」
と言われたので、心を痛めてイエスに言った。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。
しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。
こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
「 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」マルコの福音書16:7
と記されているように、弟子達は もとの漁師に戻ったのではなく、
主からのご命令によってテベリヤの湖畔(ガリラヤ湖)に居たのです。
弟子達にとって あまりにも目まぐるしい出来事の連続だったもので、
心身ともに疲れていました。
ですから、心を癒し、これから何の為に、どのように生きていったらよいのか
を見出す為でもありました。
そのような時 夜明けに復活したイエスさまが 現れて下さいました。
そして、復活の主は 魚とパンを与えてくださり一緒に食して下さったのです。
何と慰めなことでしょう。
[気落ちした者を慰めてくださる神]第�Uコリント7:6
みことばのとおりです。
弟子達は、これからはイエスさまの為に いのちを遣っていけばいいのだ
ということに気づかされました。
ペテロさんは三度主を 裏切った(知らないと否み)ことによって
後悔し、そのことが大きな心の傷となっていました。
主は そんなペテロを放ってはおかれずに、食事の後 声をかけられました。
『わたしの羊を飼いなさい』と言われました。
(これは牧師に成りなさいということです。)
主はあなたにも同じように呼びかけられておられます。
そのように感じられることはないでしょうか。「わたしに従ってきなさい」・・・・・・・と
ペテロさんはとても心が痛んでいました。私達はどうでしょうか。
●自分の罪深さ●足りなさ●弱さ に気づき 悲しむところから始まります。
私たちが悔いた砕かれた心を持って主を見上げる時、用いて下さいます。
イエスさまは 今日も用いようと待っておられるのです。
主よ感謝します。あなた様はいつも恵を与えようと待っておられ、また用いようと待っておられることを示されました。
自分の感情や 計画、願望、考えが 優先し 御心にそむいてしまうことの多い本当に弱いものです。
あなた様の恵からもれることのないように、どうぞ 自分の願望や意志を 主に従うために用いることができますように 導いてください。
尊い主 イエス・キリストの御名によって 祈ります。アーメン
第 21章
21:1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。
その現わされた次第はこうであった。
21:2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」
彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」
彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。
けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」
彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」
すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。
陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。
それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。
それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。
21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロはイエスに言った。
「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」
イエスは彼に言われた。
「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。
「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」
ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」
と言われたので、心を痛めてイエスに言った。
「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」
イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。
しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。
こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
「 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」マルコの福音書16:7
と記されているように、弟子達は もとの漁師に戻ったのではなく、
主からのご命令によってテベリヤの湖畔(ガリラヤ湖)に居たのです。
弟子達にとって あまりにも目まぐるしい出来事の連続だったもので、
心身ともに疲れていました。
ですから、心を癒し、これから何の為に、どのように生きていったらよいのか
を見出す為でもありました。
そのような時 夜明けに復活したイエスさまが 現れて下さいました。
そして、復活の主は 魚とパンを与えてくださり一緒に食して下さったのです。
何と慰めなことでしょう。
[気落ちした者を慰めてくださる神]第�Uコリント7:6
みことばのとおりです。
弟子達は、これからはイエスさまの為に いのちを遣っていけばいいのだ
ということに気づかされました。
ペテロさんは三度主を 裏切った(知らないと否み)ことによって
後悔し、そのことが大きな心の傷となっていました。
主は そんなペテロを放ってはおかれずに、食事の後 声をかけられました。
『わたしの羊を飼いなさい』と言われました。
(これは牧師に成りなさいということです。)
主はあなたにも同じように呼びかけられておられます。
そのように感じられることはないでしょうか。「わたしに従ってきなさい」・・・・・・・と
ペテロさんはとても心が痛んでいました。私達はどうでしょうか。
●自分の罪深さ●足りなさ●弱さ に気づき 悲しむところから始まります。
私たちが悔いた砕かれた心を持って主を見上げる時、用いて下さいます。
イエスさまは 今日も用いようと待っておられるのです。
主よ感謝します。あなた様はいつも恵を与えようと待っておられ、また用いようと待っておられることを示されました。
自分の感情や 計画、願望、考えが 優先し 御心にそむいてしまうことの多い本当に弱いものです。
あなた様の恵からもれることのないように、どうぞ 自分の願望や意志を 主に従うために用いることができますように 導いてください。
尊い主 イエス・キリストの御名によって 祈ります。アーメン
2004 04/18 22:56
Category : 日記
バイブルクラスの学びは ライフラインのビデオを見ました。
アーサーホーランド師のメッセージが中心だったのですが、強く心を捉えられました。
アーサー氏は全国各地で伝道集会のお働きをなさっていて、学校やPTA依頼に依る 講演の機会も多いそうです。その講演会の様子も流れていました。
日本では年間3万人の自殺者があるといいます。何故、自殺という道を選択してしまうのでしょうか。
どうして、生きることに 行き詰ってしまうのでしょう。
聖書には「いつも喜んでいなさい・・・」と記されていても、心が悲しんでいるのに、とても喜ぶことができない・・・・・・これが現実である。
聖書を自分で読み 自分の内に(魂に)語られる御声を聴くことがとても大切であること。
聖書の知識とか、人がどのように(言葉によって)働きかけようとも・・・・・。
[もちろん人の言葉を通して気がつくこともあるけれども。]
そういったことよりも、何より、信仰生活の根本は 主と私の個人的な関わりであるから・・・・・。
Jesusはいつも あなたと一緒に居てくださり、共に泣き、喜んで下さっている。
あなたは 愛されている存在であり、けっして一人ぼっちではない。
Jesus Remenber me.
Jesusは 今もあなたの傍にいて、肩をたたいてくださっている。
Jesusの恵がすべての人に注がれている、このことに気づいて欲しい、
このことを強く伝えたい と語っておられた。
アーメンです。理屈では語りえないものがあるのは確かです。
聖書の文字だけ追っていても 聖霊様の助けなしには みことばの語りかけに心が応じない・・・・結局 理解できていないのですよね。
・いつも、喜んでいなさい・・・・・・喜べない自分がある。
・絶えず、祈りなさい・・・・・・・祈れない自分、祈れない時がある。
・すべてのことを 感謝しなさい・・・・・呟きの多い自分、感謝できていない自分がある。
そんな罪の深いわたしでさえ 主は愛してくださっているんですね。ありがとうございます。
『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。』第�Tヨハネ3:16
アーサーホーランド師のメッセージが中心だったのですが、強く心を捉えられました。
アーサー氏は全国各地で伝道集会のお働きをなさっていて、学校やPTA依頼に依る 講演の機会も多いそうです。その講演会の様子も流れていました。
日本では年間3万人の自殺者があるといいます。何故、自殺という道を選択してしまうのでしょうか。
どうして、生きることに 行き詰ってしまうのでしょう。
聖書には「いつも喜んでいなさい・・・」と記されていても、心が悲しんでいるのに、とても喜ぶことができない・・・・・・これが現実である。
聖書を自分で読み 自分の内に(魂に)語られる御声を聴くことがとても大切であること。
聖書の知識とか、人がどのように(言葉によって)働きかけようとも・・・・・。
[もちろん人の言葉を通して気がつくこともあるけれども。]
そういったことよりも、何より、信仰生活の根本は 主と私の個人的な関わりであるから・・・・・。
Jesusはいつも あなたと一緒に居てくださり、共に泣き、喜んで下さっている。
あなたは 愛されている存在であり、けっして一人ぼっちではない。
Jesus Remenber me.
Jesusは 今もあなたの傍にいて、肩をたたいてくださっている。
Jesusの恵がすべての人に注がれている、このことに気づいて欲しい、
このことを強く伝えたい と語っておられた。
アーメンです。理屈では語りえないものがあるのは確かです。
聖書の文字だけ追っていても 聖霊様の助けなしには みことばの語りかけに心が応じない・・・・結局 理解できていないのですよね。
・いつも、喜んでいなさい・・・・・・喜べない自分がある。
・絶えず、祈りなさい・・・・・・・祈れない自分、祈れない時がある。
・すべてのことを 感謝しなさい・・・・・呟きの多い自分、感謝できていない自分がある。
そんな罪の深いわたしでさえ 主は愛してくださっているんですね。ありがとうございます。
『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。』第�Tヨハネ3:16
2004 04/18 13:51
Category : 日記
聖書日課
◆[ 高ぶりが来れば、恥もまた来る。
知恵はへりくだる者とともにある。]箴言11:2
「あいつは全然だめだ」と思われる人は、まあ、自分と同じ程度の人。
「あっ、ちょっとやるじゃない」という人は、自分よりはるか上の人だと思ったらよい
と言った人がありました。
ないようであるのは、うぬぼれと高ぶりではないでしょうか。
高ぶりは、魂の目が見えないことです。
・ まわりのよいものが見えない。それを認めず認めたくない。
・ 自分の弱さ・みにくさ・欠けたところが見えず、それを見たくない。
・ つまり、神が見えない。
暗やみの中に、神の明るさもきよさも愛のすばらしさも知らずに、しかも自分で何でも知っているように座っています。この世に自分しかいません。
高ぶる人は、自分がすぐれていると無理にも思いこんでいなければ、不安で仕方がありません。
外側は威風堂々としているように見えても、中身は弱くみじめです。
ところが、へりくだる人には知恵があって、まわりからいつも学んでいます。
・ 自然界に対して、心が開いている。
草や鳥や虫をいつくしみ、それを見て驚き、神秘に打たれます。
・ 他の人からも学ぶ。
他人の中にすぐれたものを敏感に感じとり、学び、取り入れます。
へりくだる人はいつも学びとる余裕があるのです。
またへりくだる人は、自分の不十分さを知って、心は神に向かい神を求めます。
そして、神によって最上・最高のもので満たされるのです。
今日の知恵・明日の知恵・・・・羽鳥明著
「心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人のものだからです」
マタイの福音書5:3
◆[ 高ぶりが来れば、恥もまた来る。
知恵はへりくだる者とともにある。]箴言11:2
「あいつは全然だめだ」と思われる人は、まあ、自分と同じ程度の人。
「あっ、ちょっとやるじゃない」という人は、自分よりはるか上の人だと思ったらよい
と言った人がありました。
ないようであるのは、うぬぼれと高ぶりではないでしょうか。
高ぶりは、魂の目が見えないことです。
・ まわりのよいものが見えない。それを認めず認めたくない。
・ 自分の弱さ・みにくさ・欠けたところが見えず、それを見たくない。
・ つまり、神が見えない。
暗やみの中に、神の明るさもきよさも愛のすばらしさも知らずに、しかも自分で何でも知っているように座っています。この世に自分しかいません。
高ぶる人は、自分がすぐれていると無理にも思いこんでいなければ、不安で仕方がありません。
外側は威風堂々としているように見えても、中身は弱くみじめです。
ところが、へりくだる人には知恵があって、まわりからいつも学んでいます。
・ 自然界に対して、心が開いている。
草や鳥や虫をいつくしみ、それを見て驚き、神秘に打たれます。
・ 他の人からも学ぶ。
他人の中にすぐれたものを敏感に感じとり、学び、取り入れます。
へりくだる人はいつも学びとる余裕があるのです。
またへりくだる人は、自分の不十分さを知って、心は神に向かい神を求めます。
そして、神によって最上・最高のもので満たされるのです。
今日の知恵・明日の知恵・・・・羽鳥明著
「心の貧しい者は幸いです。
天の御国はその人のものだからです」
マタイの福音書5:3
2004 04/17 12:56
Category : 日記
聖歌400番 きみもそこにいたのか
1.
きみもそこにいたのか 主が十字架につくとき
ああ---- なんだか こころが震える、
震える、震える、きみも そこにいたのか
2.
きみも 聞いていたのか くぎを打ち込む音を
ああ---- なんだかこころが震える、
震える、震える、きみも 聞いていたのか
3.
きみも眺めていたのか 血潮が流れるのを
ああ---- なんだかこころが震える、
震える、震える、きみも眺めていたのか
ミケランジェロのピエタ
4.
きみも 気がついていたのか 突然陽が翳るのを
ああ---- なんだかこころが震える、
震える、震える、きみも 気がついていたのか
5.
きみも 墓に行ったのか 主をば葬るために
ああ---- なんだかこころが震える、
震える、震える、きみも 墓に行ったのか
1.
きみもそこにいたのか 主が十字架につくとき
ああ---- なんだか こころが震える、
震える、震える、きみも そこにいたのか
2.
きみも 聞いていたのか くぎを打ち込む音を
ああ---- なんだかこころが震える、
震える、震える、きみも 聞いていたのか
3.
きみも眺めていたのか 血潮が流れるのを
ああ---- なんだかこころが震える、
震える、震える、きみも眺めていたのか
ミケランジェロのピエタ
4.
きみも 気がついていたのか 突然陽が翳るのを
ああ---- なんだかこころが震える、
震える、震える、きみも 気がついていたのか
5.
きみも 墓に行ったのか 主をば葬るために
ああ---- なんだかこころが震える、
震える、震える、きみも 墓に行ったのか
2004 04/11 07:43
Category : 日記
『 イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 』
ヨハネの福音書11章25節
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 』
ヨハネの福音書11章25節
2004 04/11 00:33
Category : 日記
『 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。
まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
女たちはイエスのみことばを思い出した。
そして、墓から戻って、十一弟子と
そのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
この女たちは、マグダラのマリヤと
ヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。
彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、
このことを使徒たちに話した。』
ルカの福音書24章1〜10節
「主は今 生きておられる」
主イエスは我がため 十字架にかけられ
我が罪あがない 墓より蘇られた
主は今 生きておられる 我がうちにおられる
すべては主の御手にあり
明日も生きよう 主がおられる
Because He lives
Gloria and William J.Gaither
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。
まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
女たちはイエスのみことばを思い出した。
そして、墓から戻って、十一弟子と
そのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
この女たちは、マグダラのマリヤと
ヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。
彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、
このことを使徒たちに話した。』
ルカの福音書24章1〜10節
「主は今 生きておられる」
主イエスは我がため 十字架にかけられ
我が罪あがない 墓より蘇られた
主は今 生きておられる 我がうちにおられる
すべては主の御手にあり
明日も生きよう 主がおられる
Because He lives
Gloria and William J.Gaither
2004 04/10 09:59
Category : 日記
『 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。』ヘブル書5:7
ゲッセマネ
◆◆その恐れのゆえに聞き入れられた。(ヘブル5・7英訳)
この恐れは、ご自分が神から全く捨てられることを思って、起こったのであろうか。
これ以上の試練が、あるいはあるかもしれない。
しかし神から全く捨てられるということは、たしかに最悪の試練の一つである。
サタンは主に言った。
「見よ。あなたの友はどこにもいない。あなたの父はあわれみの心をあなたに閉ざした。
神の宮の天使はだれ一人、手を伸べて助けない。
天は全くあなたから遠ざかり、あなたは孤立無援だ。親しかった友を見よ。
何の値打ちがあるか。マリヤの子よ。ヤコブ、愛していた弟子のヨハネ、
また大胆な弟子ペテロは、あなたの苦難の時眠ってしまった卑怯者ではないか。
天にも地にも、あなたは一人の友もいない。地獄はあなたに向かって敵対している。
私は悪魔たちを総動員した。あらゆる地に手紙を送り、すべての暗黒の君たちを召集し、
今晩あなたを攻撃させ、一本の矢も残らず射尽くし、すべての地獄の力をもって、
今やあなたを押しつぶそうとしている。これに対してどうしようというのか」と。
これは誘惑であったろう。なぜなら天使が現れて主を強め、その恐れを取り去ったからである。
主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」のである。主はもはや孤独ではなく、天は主と共にあった。
主はこのために、三度までも弟子たちのところに来られたのであろう。
ハートが歌ったとおりである。
彼は人の助けを求めるように 前に、後ろに、三度足を運ばれた。
主は、本当にすべての人が主を捨てたかどうかをご自身で見たいと思われたのであった。
主は弟子たちが皆眠っているのを見られた。
しかし彼らの眠りは裏切りではなく悲しみの為であり、心は燃えていても肉体が弱いから
であることを思い、かすかな慰めを得られたことと思う。
いずれにしても、主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」。
イエスの祈りは、最も深い悩みの中にある時に聞かれたのである。
私のたましいよ。
おまえの祈りもまた聞かれるであろう。
By Charles Haddon Spurgeon
ゲッセマネ
◆◆その恐れのゆえに聞き入れられた。(ヘブル5・7英訳)
この恐れは、ご自分が神から全く捨てられることを思って、起こったのであろうか。
これ以上の試練が、あるいはあるかもしれない。
しかし神から全く捨てられるということは、たしかに最悪の試練の一つである。
サタンは主に言った。
「見よ。あなたの友はどこにもいない。あなたの父はあわれみの心をあなたに閉ざした。
神の宮の天使はだれ一人、手を伸べて助けない。
天は全くあなたから遠ざかり、あなたは孤立無援だ。親しかった友を見よ。
何の値打ちがあるか。マリヤの子よ。ヤコブ、愛していた弟子のヨハネ、
また大胆な弟子ペテロは、あなたの苦難の時眠ってしまった卑怯者ではないか。
天にも地にも、あなたは一人の友もいない。地獄はあなたに向かって敵対している。
私は悪魔たちを総動員した。あらゆる地に手紙を送り、すべての暗黒の君たちを召集し、
今晩あなたを攻撃させ、一本の矢も残らず射尽くし、すべての地獄の力をもって、
今やあなたを押しつぶそうとしている。これに対してどうしようというのか」と。
これは誘惑であったろう。なぜなら天使が現れて主を強め、その恐れを取り去ったからである。
主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」のである。主はもはや孤独ではなく、天は主と共にあった。
主はこのために、三度までも弟子たちのところに来られたのであろう。
ハートが歌ったとおりである。
彼は人の助けを求めるように 前に、後ろに、三度足を運ばれた。
主は、本当にすべての人が主を捨てたかどうかをご自身で見たいと思われたのであった。
主は弟子たちが皆眠っているのを見られた。
しかし彼らの眠りは裏切りではなく悲しみの為であり、心は燃えていても肉体が弱いから
であることを思い、かすかな慰めを得られたことと思う。
いずれにしても、主は「その恐れのゆえに聞き入れられた」。
イエスの祈りは、最も深い悩みの中にある時に聞かれたのである。
私のたましいよ。
おまえの祈りもまた聞かれるであろう。
By Charles Haddon Spurgeon
2004 04/05 22:36
Category : 日記
『 さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。
この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。
彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。
それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、
そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。』
ルカの福音書23:50〜53
Jesus Buried
この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。
彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。
この人が、ピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。
それから、イエスを取り降ろして、亜麻布で包み、
そして、まだだれをも葬ったことのない、岩に掘られた墓にイエスを納めた。』
ルカの福音書23:50〜53
Jesus Buried
2004 04/01 19:13
Category : 日記
『三時ごろ、イエスは大声で、 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。
これは、「 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
という意味である。
すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、
「 この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、
葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
ほかの者たちは、「 私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。』マタイ27章46〜50節
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
となぜ主は弱音を吐かれたのでしょうか。これには二つの意味があります。
(1)
イエスさまが生まれる1000年前の旧約聖書(創世記、イザヤ書、ミカ書、詩篇 )に記されおり
”メシヤの受難の死”は約束されていたことであった。
「 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」詩篇22章1節
メシアであること---世界の救い主、私たちを罪から救ってくださるおかたであることを示している。
(2)
神さまから見捨てられる・・・・霊的な死を意味する。
主は肉体の死と霊の死を経験なさった。
霊的死とはかみからの断絶、神が関わることをいっさいなさらないことです。
主は父なる神から見捨てられたのです。
神は罪深い私達を見捨てることをなさらず、ひとりごイエス・キリストを見捨てられたのでした。
神は聖く、罪を決して見過ごすことが出来ないおかただからです。
肉体の苦痛は恐ろしいものです、しかし、神からの霊的断絶はもっとも究極的な苦悩なのです。
主は二重の死を負ってくださいました。
人間の罪をずっと追い詰めていくと自分が第一、我、自己中心に行き着きます。
主は、十字架にかかり身代わりに死んで下さったばかりではなく
3日目に蘇って下さり、今も神にとりなしの祈りをして下さっているのです。
私たちが神から永遠に捨てられることがないようにと。
「御手と御足のみか 心も裂けて、きみは死にたまいぬ 我らのため。」
これは、「 わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
という意味である。
すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、
「 この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、
葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
ほかの者たちは、「 私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。』マタイ27章46〜50節
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
となぜ主は弱音を吐かれたのでしょうか。これには二つの意味があります。
(1)
イエスさまが生まれる1000年前の旧約聖書(創世記、イザヤ書、ミカ書、詩篇 )に記されおり
”メシヤの受難の死”は約束されていたことであった。
「 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。
遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」詩篇22章1節
メシアであること---世界の救い主、私たちを罪から救ってくださるおかたであることを示している。
(2)
神さまから見捨てられる・・・・霊的な死を意味する。
主は肉体の死と霊の死を経験なさった。
霊的死とはかみからの断絶、神が関わることをいっさいなさらないことです。
主は父なる神から見捨てられたのです。
神は罪深い私達を見捨てることをなさらず、ひとりごイエス・キリストを見捨てられたのでした。
神は聖く、罪を決して見過ごすことが出来ないおかただからです。
肉体の苦痛は恐ろしいものです、しかし、神からの霊的断絶はもっとも究極的な苦悩なのです。
主は二重の死を負ってくださいました。
人間の罪をずっと追い詰めていくと自分が第一、我、自己中心に行き着きます。
主は、十字架にかかり身代わりに死んで下さったばかりではなく
3日目に蘇って下さり、今も神にとりなしの祈りをして下さっているのです。
私たちが神から永遠に捨てられることがないようにと。
「御手と御足のみか 心も裂けて、きみは死にたまいぬ 我らのため。」
2004 04/01 19:11
Category : 日記
『一方、シモン・ペテロは立って、暖まっていた。すると、人々は彼に言った。
「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」
ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。
大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。
「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。』 ヨハネの福音書18:25 〜27
「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね。」
ペテロは否定して、「そんな者ではない。」と言った。
大祭司のしもべのひとりで、ペテロに耳を切り落とされた人の親類に当たる者が言った。
「私が見なかったとでもいうのですか。あなたは園であの人といっしょにいました。」
それで、ペテロはもう一度否定した。するとすぐ鶏が鳴いた。』 ヨハネの福音書18:25 〜27
2004 04/01 19:11
Category : 日記
◆『イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。
だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。』
ルカの福音書22章48節
「憎む者が口づけしてもてなすよりは……。」
世が笑顔をもってくる時、私たちは警戒しなければならない。私たちもまた、主のように口づけによって売られるかもしれないからである。
人が信仰を害そうとする時には、必ず表面では深い敬意を見せる。
異端と不信仰の従者、なめらかな顔の偽善者に注意しようではないか。不義な者には欺かれやすいことを知って、へびのようにさとく、敵の計略を察し、それを避けようではないか。
思慮のない青年は、妖しい女の口づけによって惑わされる。私たちのたましいが今日の初めから終わりまで、世の「へつらいのくちびる」に動揺させられないように十分に訓練され得るように。
聖霊なる神様。弱い人の子である私が口づけによって売られることのないように守ってください。
しかし、もし私が滅びの子ユダのような憎むべき罪を犯しているとすれば、どうであろう。
私は主イエスの名によって洗礼を受けている。私は目に見える主の教会の会員である。私は聖餐式に参加する。これらはすべて、私のくちびるをもってする口づけである。
これらに私は誠実であろうか。もしそうでなかったならば、私は卑しい裏切り者である。
私はこの世で他の人たちのように不注意に生きているのに、なお主に従う者だと公言してはいないのか。
もしそうであれば、私は信仰を人々の物笑いの種とし、人々に聖い御名の悪口を言わせることになる。
私の言行がこのように不一致であるならば 私はユダであり 生まれなかったほうがよかったのである。
この点に於いて私は果して旗色を鮮明にすることを望んでいるでしょうか。
主よ。私をそのように守ってください。私を誠実かつ真実な者として下さい。
すべての偽りの道から守ってください。決して救い主を裏切ることがありませんように。
イエス様。私はあなたを愛します。私はしばしばあなたを悲しませました。
しかし私の願いは、死に至るまであなたに忠実であることです。
神様、私が信仰を公言しつつ、主を口づけによって裏切り、ついに火の池に投げ込まれることがないようにしてください。
だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。』
ルカの福音書22章48節
「憎む者が口づけしてもてなすよりは……。」
世が笑顔をもってくる時、私たちは警戒しなければならない。私たちもまた、主のように口づけによって売られるかもしれないからである。
人が信仰を害そうとする時には、必ず表面では深い敬意を見せる。
異端と不信仰の従者、なめらかな顔の偽善者に注意しようではないか。不義な者には欺かれやすいことを知って、へびのようにさとく、敵の計略を察し、それを避けようではないか。
思慮のない青年は、妖しい女の口づけによって惑わされる。私たちのたましいが今日の初めから終わりまで、世の「へつらいのくちびる」に動揺させられないように十分に訓練され得るように。
聖霊なる神様。弱い人の子である私が口づけによって売られることのないように守ってください。
しかし、もし私が滅びの子ユダのような憎むべき罪を犯しているとすれば、どうであろう。
私は主イエスの名によって洗礼を受けている。私は目に見える主の教会の会員である。私は聖餐式に参加する。これらはすべて、私のくちびるをもってする口づけである。
これらに私は誠実であろうか。もしそうでなかったならば、私は卑しい裏切り者である。
私はこの世で他の人たちのように不注意に生きているのに、なお主に従う者だと公言してはいないのか。
もしそうであれば、私は信仰を人々の物笑いの種とし、人々に聖い御名の悪口を言わせることになる。
私の言行がこのように不一致であるならば 私はユダであり 生まれなかったほうがよかったのである。
この点に於いて私は果して旗色を鮮明にすることを望んでいるでしょうか。
主よ。私をそのように守ってください。私を誠実かつ真実な者として下さい。
すべての偽りの道から守ってください。決して救い主を裏切ることがありませんように。
イエス様。私はあなたを愛します。私はしばしばあなたを悲しませました。
しかし私の願いは、死に至るまであなたに忠実であることです。
神様、私が信仰を公言しつつ、主を口づけによって裏切り、ついに火の池に投げ込まれることがないようにしてください。
2004 04/01 19:09
Category : 日記
『 夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。
ピラトはイエスに尋ねた。 「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
イエスは答えて言われた。 「そのとおりです。」
そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。 ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。
「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」
それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。』
マルコの福音書5:1〜5
ピラトは主を兵士に渡してむち打たせた。当時ローマのむちは最も残酷な拷問に使われた。それは牡牛の皮で作られ、あちこちにとがった骨が入れてあるので、打ち下ろされるたびに、骨の小片が恐ろしい裂傷を与え、肉を骨からむしり取るのであった。救い主はもちろん柱に縛りつけられて、このようにむち打たれたのである。
主はその以前にもむちで打たれたことがあった。しかしおそらく、このローマの兵士のものが、一番耐えがたかったであろう。
私のたましいよ。ここに立ち、打たれた救い主のおからだのために泣け。
主にあるたましいよ。イエスがあなたの前に苦悶という愛の鏡を立てられる時、あなたは涙なしにイエスを直視することができるだろうか。
純潔なゆりよりも美しい主が、ご自身の鮮血のために、ばらよりも赤くなられたのである。
イエスがむち打たれたことによって、祝福に満ちたいやしが与えられたことを感じる時、私たちに愛と悲しみが共にわくのではないか。
もし私たちが主を愛しているならば、今主の燃えるような愛を感じなければならない。
見よ。忍耐深い主がいかに立たれるかを 見よ。主は侮辱の極みを受けられた
罪人らは全能なる主の御手をしばり 造り主である主の御顔につばきした
主の額には深くいばらがくい込み 傷口より真紅の血がほとばしる
背に鋭いむちを受けられたが そのむちが主の心を引き裂いた
一室に閉じこもって、私たちは泣いていたい。しかし日々の仕事をもっている。
それなら、主が血潮を流された御姿が心に深く銘記されるように祈り、夕べには主との交わりのために帰り、私たちの罪が主をお苦しめしたことを思って嘆こう。
ピラトはイエスに尋ねた。 「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
イエスは答えて言われた。 「そのとおりです。」
そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。 ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。
「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」
それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。』
マルコの福音書5:1〜5
ピラトは主を兵士に渡してむち打たせた。当時ローマのむちは最も残酷な拷問に使われた。それは牡牛の皮で作られ、あちこちにとがった骨が入れてあるので、打ち下ろされるたびに、骨の小片が恐ろしい裂傷を与え、肉を骨からむしり取るのであった。救い主はもちろん柱に縛りつけられて、このようにむち打たれたのである。
主はその以前にもむちで打たれたことがあった。しかしおそらく、このローマの兵士のものが、一番耐えがたかったであろう。
私のたましいよ。ここに立ち、打たれた救い主のおからだのために泣け。
主にあるたましいよ。イエスがあなたの前に苦悶という愛の鏡を立てられる時、あなたは涙なしにイエスを直視することができるだろうか。
純潔なゆりよりも美しい主が、ご自身の鮮血のために、ばらよりも赤くなられたのである。
イエスがむち打たれたことによって、祝福に満ちたいやしが与えられたことを感じる時、私たちに愛と悲しみが共にわくのではないか。
もし私たちが主を愛しているならば、今主の燃えるような愛を感じなければならない。
見よ。忍耐深い主がいかに立たれるかを 見よ。主は侮辱の極みを受けられた
罪人らは全能なる主の御手をしばり 造り主である主の御顔につばきした
主の額には深くいばらがくい込み 傷口より真紅の血がほとばしる
背に鋭いむちを受けられたが そのむちが主の心を引き裂いた
一室に閉じこもって、私たちは泣いていたい。しかし日々の仕事をもっている。
それなら、主が血潮を流された御姿が心に深く銘記されるように祈り、夕べには主との交わりのために帰り、私たちの罪が主をお苦しめしたことを思って嘆こう。
2004 04/01 19:07
Category : 日記
◆それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
マタイの福音書26章39節
救い主の試練の時の祈りに、私たちが教えられることが幾つかある。
●まず、それは孤独な祈りであった。
主は三人の愛する弟子たちからさえ離れられた。
主にある友よ。たびたび孤独の祈りをせよ。試練の時こそ特にそうすべきである。
家庭礼拝、友との祈り、教会での祈りは、尊いが十分ではない。
最上の香料はあなたの個人的な礼拝の香炉の中 神の他聞く者のない場所でたかれるものである。
●それはへりくだった祈りであった。
ルカは「ひざまずいて」と述べているが、他の福音書記者は「ひれ伏し」と言っている。
それなら、偉大な主の卑しいしもべであるあなたはどうすれはよいのか。
へりくだりは祈りに確かな足場を与える。神が適当な時に私たちを高められるように、自らを低くするのでなければ、神に聞かれる見込みはない。
●それはまた従順の祈りであった。
試練の時、あなたは「アバ、父よ」と神の子として懇願することがいかに心強いものかを知るであろう。
あなたは裏切りによって臣下としての権利は失った。
しかし、子が父の保護を求める権利は、何ものによっても奪われることはない。
「父よ。私の叫びを聞いてください」と言うのを恐れてはいけない。
●この祈りは忍耐強い祈りであった。
主は三度祈られた。祈りが聞かれるまではやめてはならない。
初めの願いが聞かれなかったにもかかわらず、執拗に懇願を続け、ついに聞き入れられたやもめのようであれ。祈り続けよ。そして感謝の思いのうちに待て。
●最後に、それはゆだねきった祈りであった。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」とある。
あなたがゆずるなら、神もまたゆずってくださる。みこころにゆだねさえするなら、神は最善をなされる。いつどのようにして、何を与え何をさし控えるべきかを知っておられる。
それゆえ、熱心に、執拗に、しかも謙遜と信頼をもって祈るならば、必ず聞かれるのである。
By Charles Haddon Spurgeon
愛なる天のお父様 御名を崇め感謝をいたします。
受難週の真っ只中にあって、主がゲッセマネで祈られたその情景を思います。
悲しみもだえながら、血のような汗を流して
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われたそのお祈りのお苦しみを覚えます。
主よ、ありがとうございます。あなた様のお苦しみは、私の罪のためであったことを 強く思います。今 己の罪を覚え悔い改めをいたしました。どうぞ主よ、赦して下さい。聖めて下さい。また、私の気づかない隠れた罪をもお赦し下さい。
この感謝と願いを 救い主イエス・キリストの御名前によって御前にお捧げいたします。アーメン
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
マタイの福音書26章39節
救い主の試練の時の祈りに、私たちが教えられることが幾つかある。
●まず、それは孤独な祈りであった。
主は三人の愛する弟子たちからさえ離れられた。
主にある友よ。たびたび孤独の祈りをせよ。試練の時こそ特にそうすべきである。
家庭礼拝、友との祈り、教会での祈りは、尊いが十分ではない。
最上の香料はあなたの個人的な礼拝の香炉の中 神の他聞く者のない場所でたかれるものである。
●それはへりくだった祈りであった。
ルカは「ひざまずいて」と述べているが、他の福音書記者は「ひれ伏し」と言っている。
それなら、偉大な主の卑しいしもべであるあなたはどうすれはよいのか。
へりくだりは祈りに確かな足場を与える。神が適当な時に私たちを高められるように、自らを低くするのでなければ、神に聞かれる見込みはない。
●それはまた従順の祈りであった。
試練の時、あなたは「アバ、父よ」と神の子として懇願することがいかに心強いものかを知るであろう。
あなたは裏切りによって臣下としての権利は失った。
しかし、子が父の保護を求める権利は、何ものによっても奪われることはない。
「父よ。私の叫びを聞いてください」と言うのを恐れてはいけない。
●この祈りは忍耐強い祈りであった。
主は三度祈られた。祈りが聞かれるまではやめてはならない。
初めの願いが聞かれなかったにもかかわらず、執拗に懇願を続け、ついに聞き入れられたやもめのようであれ。祈り続けよ。そして感謝の思いのうちに待て。
●最後に、それはゆだねきった祈りであった。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」とある。
あなたがゆずるなら、神もまたゆずってくださる。みこころにゆだねさえするなら、神は最善をなされる。いつどのようにして、何を与え何をさし控えるべきかを知っておられる。
それゆえ、熱心に、執拗に、しかも謙遜と信頼をもって祈るならば、必ず聞かれるのである。
By Charles Haddon Spurgeon
愛なる天のお父様 御名を崇め感謝をいたします。
受難週の真っ只中にあって、主がゲッセマネで祈られたその情景を思います。
悲しみもだえながら、血のような汗を流して
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と言われたそのお祈りのお苦しみを覚えます。
主よ、ありがとうございます。あなた様のお苦しみは、私の罪のためであったことを 強く思います。今 己の罪を覚え悔い改めをいたしました。どうぞ主よ、赦して下さい。聖めて下さい。また、私の気づかない隠れた罪をもお赦し下さい。
この感謝と願いを 救い主イエス・キリストの御名前によって御前にお捧げいたします。アーメン
2004 04/01 19:01
Category : 日記
木曜日はイエスさまが弟子たちとの最後の晩餐を行い、その場で弟子たちの足を自らお洗いになったことを記念する「洗足木曜日」。
最後の晩餐の聖書の箇所・・・・いつも聖餐式の時に読み上げられる箇所です。
『イエスは言われた。
「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。
「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。 わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」』
ルカの福音書22章15〜22節
最後の晩餐の聖書の箇所・・・・いつも聖餐式の時に読み上げられる箇所です。
『イエスは言われた。
「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。
「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。
「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。 わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
食事の後、杯も同じようにして言われた。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。」』
ルカの福音書22章15〜22節
2004 04/01 18:59
Category : 日記
●受難週・・・・・洗足の木曜日
約2000年前 12人の弟子達はイエス・キリストと最後の晩餐を共にしました。
その時主は 自らを低くし、弟子達ひとりひとりの足を洗って下さり、
”あなたがたもこの様にしなさい”とお手本を示して下さいました。
この場面はヨハネの福音書にのみ記してあります。洗足の木曜日と言われる所以です。
『夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、
腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。
ペテロはイエスに言った。
「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは答えて言われた。
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
ペテロはイエスに言った。
「決して私の足をお洗いにならないでください。」
イエスは答えられた。
「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
シモン・ペテロは言った。
「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。
あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。
それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。
「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。
あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、
わたしはあなたがたに模範を示したのです。』
ヨハネの福音書13章4〜14節
約2000年前 12人の弟子達はイエス・キリストと最後の晩餐を共にしました。
その時主は 自らを低くし、弟子達ひとりひとりの足を洗って下さり、
”あなたがたもこの様にしなさい”とお手本を示して下さいました。
この場面はヨハネの福音書にのみ記してあります。洗足の木曜日と言われる所以です。
『夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、
腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。
ペテロはイエスに言った。
「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
イエスは答えて言われた。
「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
ペテロはイエスに言った。
「決して私の足をお洗いにならないでください。」
イエスは答えられた。
「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
シモン・ペテロは言った。
「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
イエスは彼に言われた。
「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。
あなたがたはきよいのですが、みながそうではありません。」
イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。
それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。
「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。
あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。
あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、
あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、
わたしはあなたがたに模範を示したのです。』
ヨハネの福音書13章4〜14節
2004 04/01 18:57
Category : 日記
ベタニヤのシモンの家での出来事は,ヨハネの福音書12:1によれば過越の祭の6日前と記されています。
マルコは,これをイエスさまの最期にまつわる意義深い出来事として、あえて1‐2節と10‐11節との間に組み入れています。ユダの裏切りの前に・・・・。
ナルド油は,ヒマラヤ産の植物から抽出される高価な香油のことですが、マリヤは壺ごと割って すべてをイエスさまに注いだのでした。
『イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、
ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、
そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。
「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
そうして、その女をきびしく責めた。
すると、イエスは言われた。
「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。
わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。
それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。
しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、
わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、
この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。』
マルコの福音書14章3〜9節
イエスさまは貧しい人々を心にかけていなかったわけではありません。
しかし、地上を去る時が近い今は別であるとしました。
それはこの行為が 埋葬の用意となるからです。
マリヤが どこまでイエスさまの死を見据えていたかは不明ですが,
イエスさまはこの行為の象徴的な意味を当然ご存知でした。
マルコは,これをイエスさまの最期にまつわる意義深い出来事として、あえて1‐2節と10‐11節との間に組み入れています。ユダの裏切りの前に・・・・。
ナルド油は,ヒマラヤ産の植物から抽出される高価な香油のことですが、マリヤは壺ごと割って すべてをイエスさまに注いだのでした。
『イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、
ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、
そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。
「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」
そうして、その女をきびしく責めた。
すると、イエスは言われた。
「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。
わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。
それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。
しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、
わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、
この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。』
マルコの福音書14章3〜9節
イエスさまは貧しい人々を心にかけていなかったわけではありません。
しかし、地上を去る時が近い今は別であるとしました。
それはこの行為が 埋葬の用意となるからです。
マリヤが どこまでイエスさまの死を見据えていたかは不明ですが,
イエスさまはこの行為の象徴的な意味を当然ご存知でした。
2004 04/01 18:56
Category : 日記
今はレント(イエス・キリストが十字架につけられた受難の時)の時期にあります。
その後希望のイースターが待っています。春分の日の後に来る満月の直後の日曜日(今年は4月11日)をイースター(キリストの復活祭)としてお祝いします。
昨年のDiary記事を再アップすることに致します。
鎮まって、主の歩まれた一週間の道程を記してみましょう。
●(日) 棕櫚の聖日 エルサレム入城
イエス・キリストがロバの背中に乗ってエルサレムに入城された日で、
民衆は棕櫚の枝をふり、道に敷いて歓迎しました。
これは旧約聖書(イザヤ書62−11ゼカリヤ書9−9)に記述されていることが成就する為です。
「 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。
あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。」ゼカリヤ9-9
「これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
シオンの娘に伝えなさい。
『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。
柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」 マタイ21-4・5
●(月) 宮潔めの日
「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、
両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
そして彼らに言われた。
『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。
それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」マタイ21-12・13
●(火) 宮での説教( 問答、たとえ話、終末の預言 )
たくさんの例え話をもって説教をなさいました。
その律法の中でもっとも大切な戒めとして イエスさまがお答えになりました。
「そこで、イエスは彼に言われた。
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ 22章37〜40節
(水) ベタニアのマリアの香油注ぎ
(木) イスカリオテ・ユダの裏切り、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、
捕縛、最高法院での裁判、シモン・ペテロの裏切り
(金) ポンテオ・ピラトの審問、侮辱、十字架、埋葬
(日) 復活の日・イースター
受難日を迎える毎に、キリストの十字架のお苦しみ、そのご愛を深く思います。
それと同時に自分の中あるにキリストを十字架につける罪の性質、
自己中心、我・・・・が働いていないかと再点検するときとなります。
at 2003 4/15
その後希望のイースターが待っています。春分の日の後に来る満月の直後の日曜日(今年は4月11日)をイースター(キリストの復活祭)としてお祝いします。
昨年のDiary記事を再アップすることに致します。
鎮まって、主の歩まれた一週間の道程を記してみましょう。
●(日) 棕櫚の聖日 エルサレム入城
イエス・キリストがロバの背中に乗ってエルサレムに入城された日で、
民衆は棕櫚の枝をふり、道に敷いて歓迎しました。
これは旧約聖書(イザヤ書62−11ゼカリヤ書9−9)に記述されていることが成就する為です。
「 シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。
あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。」ゼカリヤ9-9
「これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
シオンの娘に伝えなさい。
『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。
柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」 マタイ21-4・5
●(月) 宮潔めの日
「それから、イエスは宮にはいって、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、
両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
そして彼らに言われた。
『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。
それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」マタイ21-12・13
●(火) 宮での説教( 問答、たとえ話、終末の預言 )
たくさんの例え話をもって説教をなさいました。
その律法の中でもっとも大切な戒めとして イエスさまがお答えになりました。
「そこで、イエスは彼に言われた。
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」マタイ 22章37〜40節
(水) ベタニアのマリアの香油注ぎ
(木) イスカリオテ・ユダの裏切り、最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、
捕縛、最高法院での裁判、シモン・ペテロの裏切り
(金) ポンテオ・ピラトの審問、侮辱、十字架、埋葬
(日) 復活の日・イースター
受難日を迎える毎に、キリストの十字架のお苦しみ、そのご愛を深く思います。
それと同時に自分の中あるにキリストを十字架につける罪の性質、
自己中心、我・・・・が働いていないかと再点検するときとなります。
at 2003 4/15
2004 04/01 18:55
Category : 日記
◆『 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。』ルカの福音書23:26
十字架を担うシモンは、歴代の教会の働きを表したものである。
教会はイエスにならって十字架を負う。
主にある友よ。イエスはあなたの苦難を全部取り去るために苦しまれるのでないことを覚えよ。イエスが十字架を負われるのは、あなたが十字架を逃れるためではなく、むしろそれに耐えるためである。
主はあなたから罪を除かれる。しかし悲哀を除かれるのではない。これを心に留めて、苦難のために心を定めよ。
ただしシモン同様、自己の十字架ではなく、キリストの十字架を担うことを覚えて、自らを慰めよう。
あなたが敬虔のゆえに冷笑される時には、それはあなたの十字架ではなく、キリストの十字架であることを覚えよ。
主イエスの十字架を担うのは、なんと喜ばしいことだろう。あなたは主の後から十字架を運んでいるのだ。
あなたにはすばらしい道連れがある。歩く道には主の足跡が印せられ、その重荷には御血に彩られた主の肩のしるしがある。それは十字架である。
そして主は羊飼いが羊に先立って行くように、あなたの前を行かれる。日々あなたの十字架を取って主に従え。
あなたはこの十字架を主と共に担っていることを忘れてはならない。一説ではシモンはひとりで十字架を担ったのではなく、その一端を担っただけだという。まことにありそうなことである。
キリストが腕木のついた重いほうを担われ、シモンは軽い他の端を担ったのかもしれない。あなたの場合もたしかにそうである。あなたはただ十字架の軽いほうを担うだけであり、重いほうはキリストが担ってくださるのである。
さらに覚えたいことは、シモンが十字架を担ったのはきわめてわずかの間であったが、そのため不朽の名誉を得たことである。
私たちの場合、十字架を担うのはきわめてわずかの間であるが、その後、栄光の冠を受けるのである。恐れることなく十字架を慕い、それが「測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」ことを思い、十字架を尊ばなければならない。
十字架を担うシモンは、歴代の教会の働きを表したものである。
教会はイエスにならって十字架を負う。
主にある友よ。イエスはあなたの苦難を全部取り去るために苦しまれるのでないことを覚えよ。イエスが十字架を負われるのは、あなたが十字架を逃れるためではなく、むしろそれに耐えるためである。
主はあなたから罪を除かれる。しかし悲哀を除かれるのではない。これを心に留めて、苦難のために心を定めよ。
ただしシモン同様、自己の十字架ではなく、キリストの十字架を担うことを覚えて、自らを慰めよう。
あなたが敬虔のゆえに冷笑される時には、それはあなたの十字架ではなく、キリストの十字架であることを覚えよ。
主イエスの十字架を担うのは、なんと喜ばしいことだろう。あなたは主の後から十字架を運んでいるのだ。
あなたにはすばらしい道連れがある。歩く道には主の足跡が印せられ、その重荷には御血に彩られた主の肩のしるしがある。それは十字架である。
そして主は羊飼いが羊に先立って行くように、あなたの前を行かれる。日々あなたの十字架を取って主に従え。
あなたはこの十字架を主と共に担っていることを忘れてはならない。一説ではシモンはひとりで十字架を担ったのではなく、その一端を担っただけだという。まことにありそうなことである。
キリストが腕木のついた重いほうを担われ、シモンは軽い他の端を担ったのかもしれない。あなたの場合もたしかにそうである。あなたはただ十字架の軽いほうを担うだけであり、重いほうはキリストが担ってくださるのである。
さらに覚えたいことは、シモンが十字架を担ったのはきわめてわずかの間であったが、そのため不朽の名誉を得たことである。
私たちの場合、十字架を担うのはきわめてわずかの間であるが、その後、栄光の冠を受けるのである。恐れることなく十字架を慕い、それが「測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」ことを思い、十字架を尊ばなければならない。