2003 06/20 23:07
Category : 日記
聖書日課
◆ 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ書53章6節)
これは神の選民のすべてに共通した罪の告白である。彼らはみな堕落していた。
したがって、最初に天国に入った者から最後に入る者まで、異口同音に
「私たちはみな、羊のようにさまよい……」と言うのである。
この告白は、今言ったように普遍的であるが、また個別的でもある。
「おのおの、自分かってな道に向かって行った。」
私たちはみな、個人的に罪をもっている。すべての人は罪人である。
しかし各自は他の人にはない特別な悪をもっている。
真の悔い改めの特徴は、他の悔い改めた人々と同じ仲間になるが、また弧独の立場をもとるということである。
「おのおの、自分かってな道に向かって行った」というのは、各自が自分に与えられた光に対して罪を犯した、言い換えれば、他の人には見られない悪をなしたという告白である。
この告白は無条件である。その力を弱めるようなことばや言いわけのことばは一つもない。
この告白は、自分を義とするすべての訴えの放棄である。それは罪を意識している人々
(憎むべき罪、弁解の余地のない罪を意識している人々)の宣言である。
彼らは反抗の武器をこなごなに打ち砕いて叫ぶ。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と。
しかし、この罪の告白に悲痛な響きはいささかもない。
なぜなら、これに続く節は、この罪の告白を歌としているからである。
「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
これは三つの部分のうち最も哀調を帯びた節であるが、また慰めに満ちあふれている。
不思議にも、苦悩が極度に達するところで、あわれみが支配し、
悲哀がクライマックスに達するところで、疲れたたましいは休息を見いだす。
傷つけられた救い主は、傷ついた心をいやされるのである。
見よ。最もへりくだってする悔い改めは、ただ十字架上のキリストを仰ぎ見ることによって、揺るがない確信に至ることを。
Charles Haddon Spurgeon著 「夕ごとにより」
◆ 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ書53章6節)
これは神の選民のすべてに共通した罪の告白である。彼らはみな堕落していた。
したがって、最初に天国に入った者から最後に入る者まで、異口同音に
「私たちはみな、羊のようにさまよい……」と言うのである。
この告白は、今言ったように普遍的であるが、また個別的でもある。
「おのおの、自分かってな道に向かって行った。」
私たちはみな、個人的に罪をもっている。すべての人は罪人である。
しかし各自は他の人にはない特別な悪をもっている。
真の悔い改めの特徴は、他の悔い改めた人々と同じ仲間になるが、また弧独の立場をもとるということである。
「おのおの、自分かってな道に向かって行った」というのは、各自が自分に与えられた光に対して罪を犯した、言い換えれば、他の人には見られない悪をなしたという告白である。
この告白は無条件である。その力を弱めるようなことばや言いわけのことばは一つもない。
この告白は、自分を義とするすべての訴えの放棄である。それは罪を意識している人々
(憎むべき罪、弁解の余地のない罪を意識している人々)の宣言である。
彼らは反抗の武器をこなごなに打ち砕いて叫ぶ。
「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った」と。
しかし、この罪の告白に悲痛な響きはいささかもない。
なぜなら、これに続く節は、この罪の告白を歌としているからである。
「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
これは三つの部分のうち最も哀調を帯びた節であるが、また慰めに満ちあふれている。
不思議にも、苦悩が極度に達するところで、あわれみが支配し、
悲哀がクライマックスに達するところで、疲れたたましいは休息を見いだす。
傷つけられた救い主は、傷ついた心をいやされるのである。
見よ。最もへりくだってする悔い改めは、ただ十字架上のキリストを仰ぎ見ることによって、揺るがない確信に至ることを。
Charles Haddon Spurgeon著 「夕ごとにより」