2003年01月の記事


1月31日(金) くもりのち晴れ
◆主は私たちの正義。(エレミヤ23−6)

クリスチャンがキリストの完全な義を考える時、いつも深い落ち着きと、
静けさと、安心と、平安をいただく。
神の聖徒たちも、しばしば気落ちしたり、悲しんだりすることがあるが、それではいけないと思う。
もし彼らが、キリストにある自己の完全を常に見ることができるなら、そうはならないであろう。
ある人々は、常に自分の心の腐敗堕落や、たましいの生来の悪い性質を口にする。
それは真理ではあるが、なぜ一歩進んで、私たちが「キリストにあって完全な者」であることを考えないのか。
自分の腐敗のみを見つめている人に元気がないのは当然である。
しかし、もし私たちが「キリストは、私たちにとって……義となられた」ことを思い起こすなら励まされる。
困難が私を悩まし、サタンが私を攻撃し、天国に到達するまでには多くの経験が必要だとしても、
それらは神の恵みの契約によって私のためになされている。
私の主には欠けたところが一つもない。キリストはすべてを成就された。
もしすべてが成就されているなら、私は主にあって完全であり、
「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどって」いる。
「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、
信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる」のである。



あなたは、この地上の天国において、キリストの義の奥義を心に受けた人々よりも聖なる者を見いだすことはないであろう。
信者が「私はキリストの中にのみ生き、その救いにより頼み、
自らは価値のない者であるが、イエスによって救われていることを信じる」
と告白する時、感謝に満たされて次のような思いが起きてくる。
「私たちはキリストのために生きるべきではないか。キリストにのみ仕えるべきではないか。」
「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる。」
「生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」
もし転嫁された義によって救われたのなら、この与えられた義を高く評価すべきである。

◆Charles Haddon Spurgeon
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1月29日(水) 曇り 風強し
First anniversary memorial day !




photo by M's



本日fufufu7のHPはOPEN一周年を迎えました。

いつもご訪問ありがとうございます。

これからも どうぞ よろしくお願いします。

感謝を込めて・・・・・・。
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1月27日(月 ) 雨 のち 曇り
今夜は疲れを覚え、早々にお風呂に入り うとうとしていました。
それが、こんな時間になって目が覚めてしまい、
昨日のバイブルクラスの学びをGOSPELをアップいたしました。
礼拝説教も一緒にと思いましたが 益々目が冴えてしまうので
それはまた後日に致しましょう。

礼拝後の愛餐会の後に 内田和彦先生が質問にお答えて下さったのですが
その中でも興味深かった質問をワンアップ致しましょう。

・宝くじを買うことはクリスチャンにとって 罪になるでしょうか?

■クリスチャンとして絶対してはいけないこと
・人を殺す
・姦淫を犯す
・盗む ・・・といったモーセの十戒を破る罪
■クリスチャンとしてしなければいけない(やるべき)こと
・隣人を愛すること
・人を許すこと
  ・・・・・・等等
この二つの間に線引きをするならば 真ん中より してはいけない方に少し寄っていると思います。
理由---それは”偽善とか・高ぶり”といった絶対的な悪であるというのではありませんが

神さまの業(わざ)というものは
一攫千金を狙うようなそういった態度で望むべきものではなくて
一つ一つ捧げられる祈りと小さな努力の積み重ねによって期待し望むものであるからです。
やはり それは健全な態度ではないと思いますし、記憶にある限り 
私も妻も一度も宝くじは買ったことはありません。とお答え下さいました。

私自身は それ程意識して考えた事はありませんでした。
もし仮に 新会堂がそのような方法で建設されたと仮定したら 
神様はやはり喜んで下さらないだろうし、
祝福を願っても 主は答えて下さらないだろうと思います。
絶対悪ではないけれども、望ましくは無いということなのでしょう。
動機が不純ということでしょうか?
何気なく買って、何気なく当たった時はどうなのでしょう?
神様の御用のためには用いてはいけないのでしょうか?
この手の問題は疑問が次々に沸いてきます。
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1月25日(土) 快晴
本日は枝分かれした教会(まだ伝道所)の献堂式。
PM.2:00開会 宮崎会堂から車で40分は掛かります。
献堂式において 内田和彦先生(聖書神学舎教授)に説教をしていただきました。
第�T列王記8章22〜61節から みことばを取次いで戴きました。
かなり長い箇所なので記述は致しませんが、ソロモン王が 2900年前エルサレムの神殿を築いた時 神様にお捧げした祈りの箇所です。
説教を聴きながら、ここまで道を開いてくださった主の御業をひとつひとつ想い、感謝し、
心から主を褒め称えました。
一生の内で 属する教会の献堂式に関わることは そうそうあることでは ないのです。
お献したキリストの体なる教会が この地に根ざし、主の民が更に起こされ、増し加えられ 尊く用いられていきますように。
祈り・賛美する教会として 宣教の御業が成し遂げられていきますように。
ここに集う主にある兄弟姉妹の上に 親しき霊のお交わりと 主の豊かな祝福がありますように心からお祈りいたします。

『わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。
この町には、わたしの民がたくさんいるから。」と言われた。』使徒の働き18-10

宮崎県内外から 主にある兄弟姉妹の方々がお祝いに駆けつけて下さいました。皆さんに配られた記念品をアップ致しました。
記念品の聖句は S姉妹の手描きです。素敵です。フラシュが自動的に焚かれて一部画像に写ってしまったところがちょっと残念。
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1月24日(金) くもり時々晴れ
 明日は献堂式、夕食後から 聖歌隊が賛美する聖歌の練習をしていました。

聖歌480番「輝く日を仰ぐとき」
1.
輝く日を仰ぐとき 月星 ながむるとき
いかずち 鳴り渡るとき まことの み神を思う

わがたま いざ たたえよ 大いなる み神を
わがたま いざ たたえよ 大いなる み神を

2.
森にて 鳥の音を聞き そびゆる山に登り
谷間の 流れの声に まことの み神を思う 

わがたま いざ たたえよ 大いなる み神を
わがたま いざ たたえよ 大いなる み神を

3.
み神は 世人を愛し ひとりの御子をくだし
よびとの 救いの為に 十字架に かからせたり

わがたま いざ たたえよ 大いなる み神を
わがたま いざ たたえよ 大いなる み神を

4.
あめつち 創りし神は 人をも つくり変えて
正しく 清きたましい 持つ身と成らしめたもう

わがたま いざ たたえよ 大いなる み神を
わがたま いざ たたえよ 大いなる み神を
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1月23日(木) 雨のち晴れ
昨夜は深夜から雨になりました。
TVで知ったのですが、東京はまた雪が降ったということですし、当地も昨晩は寒かった・・・・・。
本日は昼頃にはお天気も回復し暖かな日差しが降り注ぎました。
お昼休みに近くのホームーセンターで花の苗を購入、早速植えました。
ビオラとパンジー、アリッサム、白妙菊。
昨年11月頃植えたパンジーは今は花盛りでこんもりしています。
ベランダには黄色と紫色。
本日購入したのは、エンジ色と薄いブルー、クリーム、他は色が分かりません。
葉っぱが異常に生い茂り、花が付いていないものが半分あります。

というのも、これは超お買い得品
(なんと28苗で一ケース)
しめて、¥780でした。

どんな花が付くかは咲いてからのお楽しみです。
そういえば、銀行へ行く途中の道路沿い(畑)には、
もう菜の花がたくさん咲いてましたっけ・・・・。
おーっ、もうこんな時間になってしまいました。
これから最終便で母が帰宅予定、
それでは空港までお迎えに行って参ります。
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1月22日(水) くもり
今夜は 水曜祈祷会でした。
クリスチャン聖会に出席した方の感想の分かち合いでした。
私もGospelにアップした分をプリントアウトして持っていけば良かったのですが。
今夜は普通どおり学びとお祈りと思っていたので準備をしていませんでした。
もう少ししっかりしたお分ちが出来れば良かったと反省しています。
何事も準備は大切です。行き当たりばったりでは恵みが半減してしまいます。

今夜の聖書日課・・・・・今の私にはかなり痛い・・・・
最近とても罪を示されることが多くて・・・・アイタタタ・・・・・悔い改め。

◆人の子よ。ぶどうの木は、森の木立ちの間にあって、
その枝が、ほかの木よりどれだけすぐれているのか。(エゼキエル15-2)

このみことばは、神の民を謙虚にする。
彼らは、神のぶどうの木と呼ばれている。
しかし彼らとて、生まれつき他の者にまさっているだろうか。
神の助けにより、彼らは良い地に植えられ、実を結ぶに至ったのである。
主は彼らを聖地の囲いの中に成長させ、御栄えのために実を結ばせられた。
しかし、神なくして彼らは何者なのだろう。
絶えず彼らを感化し実を結ばせておられる聖霊なしに、彼らは何者であり得るのか。

信じる者よ。あなたにはなんら誇るべき理由がないことを知り、高慢を退けよ。
あなたが何者であろうと、誇るべきものはない。
あなたが多くを所有すればするほど、あなたは神に対して負債をもつことになる。
だから、あなたを債務者にすることになる富を誇るべきではない。
あなたの素姓を考えよ。あなたがどんな者であったかを顧みよ。
神の恵みがなかったなら、あなたがどんな者になっていたかを思え。
現在のあなた自身を考えてみよ。あなたの良心があなたを責めはしないか。
あなたの多くの罪過があなたの前に立ちはだかり、
「おまえは神の子と呼ばれる価値のない人間だ」と告げはしないか。
また、もしあなたに少しでもとりえがあるならば、
あなたをそのようにしたのは恵みではないか。
主にある友よ。神がもしあなたに変化を与えられなかったら、
あなたは大罪人になっていただろう。真理のために勇敢な者よ。
もし恵みがあなたを捕えなかったなら、あなたは虚偽のために勇敢な者となっていただろう。
だから高慢になってはならない。
あなたは広大な恵みの所有地をもつが、罪と苦痛のほかには
自分のものだと言えるものを何ももっていないではないか。
あなたはすべてのものを借りていながら、
なお自己を高めようとする奇怪な妄想を抱くのか。
あなたは救い主の恵みにすがる居候であり、
イエスから来る新鮮ないのちの流れがなければ、死んでいた者であった。
それなのに、なおあなたは高慢になるのか。
ああ、なんとあなたは見下げはてた心をもっていることか。

◆Charles Haddon Spurgeon
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1月20日(月) 晴れ
TVのスイッチを入れると「貴乃花」引退のニュースが流れていました。
スポーツは時代を映す鏡・・・・・。
なんだか 一つの時代が終ったという感じでしょうか。
それほどのファンではないけれど、一抹の寂しさは確かにあります。
小泉さんもコメントを出していました。

「 この場所で 奇跡的な復活を期待してたんだよ 残念だな 」

私はそのままの言葉を小泉さんに送りたいわぁ と思わずTVに向かって呟いてしまいました。
構造改革も・・・・ 景気回復も・・・・ 絵に描いた餅にならないように もう一度 期待しているので と。
内閣発足当初のあの元気は何処にいってしまったのでしょうか?
”構造改革なくして景気回復なし” ・・・・でしたよね。

『 知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。

知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。

神のみわざに目を留めよ。

神が曲げたものをだれがまっすぐにできようか。

順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。

これもあれも神のなさること。』

伝道者の書7章12〜14
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1月17日(金) くもり
母を送って 今朝は早くから空港へ行って来ました。
帰宅直後からまた咳が止らなくなって 風邪が少しぶり返してしまったような気がします。
仕事中は気を引き締めているという事もあって眠気が襲うことなどめったにないことなのですが。
夕食後のこの睡魔は半端ではありません。早起きと、風邪薬の二重の作用で 眠くて眠くて
今夜はとても起きていられそうもありません。聖書日課を早めに済ませ休むことに致します。

◆わたしはあなたを助ける。

---- 主の御告げ。---- (イザヤ書41章14節)

『 あなたの神であるわたしがあなたを助けるのは、些細な事である。
わたしがこれまでなしたことを思え。あなたを助けなかったことがあるか。
わたしはわたしの血をもってあなたを買った。あなたを助けなかったことがあるか。
わたしはあなたのために死んだ。大きな事をしたのに小さな事をするのを嫌うだろうか。
あなたを助けること、それはわたしがあなたのためにするほんの小さな事だ。
わたしはそれよりもはるかに大きな事をあなたのためにしてきた。そしてさらに今度もしよう。
世の始まる前にわたしはあなたを選んだ。わたしはあなたに約束した。
わたしはあなたのために、栄光を捨てて人となり、わたしのいのちをあなたに与えた。
これだけのことをなした今も、なお必ずあなたを助ける。
あなたを助けるわたしは、すでにあなたのために買っておいたものを与えている。
あなたが千倍もの欠乏を感じているとしても、それを与える。
わたしが与えようとしているものより、あなたははるかに少なく要求している。自分では多く求めているように思っていても、与えるわたしにすればなんでもない。
恐れてはいけない。あなたの穀物倉の戸口に蟻が一匹来て助けを求めた時、小麦を一握り与えたとしても、あなたは貧乏しないだろう。
あなたは、すべてが備えられているわたしの家の前の、小さな一匹の虫のようなものだ。

わたしはあなたを助ける。』

たましいよ。これで十分ではないか。
全能の三位一体の神以上に大きな力が必要なのか。
父なる神のうちなるもの以上の知恵を要し、子なる神のうちに現された以上の愛を望み、聖霊なる神によって現された以上の力を求めるのか。
からの水差しをもって来なさい。泉は確実にそれを満たす。
あなたの欠乏――空虚、悲哀、必要――を集めてもって来なさい。
見よ。満水した神の川は、あなたの要求を満たそうと待っている。これ以上何を欲するのか。

たましいよ、行け。ここにあなたの力がある。永遠の神こそあなたの助けである。

◆Charles Haddon Spurgeon


「恐れるな。

わたしはあなたとともにいる。

たじろぐな。

わたしがあなたの神だから。」

イザヤ書41-10
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1月15日(水) 晴れ
昨日あたりからまた寒さが戻ってきてしまったようです。
今朝の外気温は摂氏1度、寒いはずです。
三寒四温という表現はまだ使うのはおかしいのかしら・・・・。
暖かくなったり寒くなったり、そうして漸く春になるんですものね。

そうそう今日は大発見を致しました。と申しましょうか・・・あるアイデアで難問をクリア致しました。
一昨日 広告代理店に依頼されていた画像を添付ファイル付MAILを送信したのですが 
「地図ファイルは受信出来ましたが 店舗の画像は開けません」とのこと。
苦労しながら、色々試してみたのですが駄目なのです。
会社のPCから私のプライベートPCに送付すると(勿論 プロバイダーも違う)ちゃんと届くし・開くことも出来るのに、どうしてなのかさっぱり解りませんでした。

それで最後の手段 私のDIONのホームページ用サーバーに画像をアップロードしその絶対パス”http://www.h4.dion.ne.jp/~fufufu7/・・・.jpg”をMAILで送りました。

ようやく先方様からTELがあり 
「画像を受け取りました 」とのこと、一件落着と相成りました。

MAILに添付不可の重い画像は
こうして送付したほうが確実なんですね。
発想の転換は必要だなぁと感じました。
パネル画像をスキャンし、圧縮し、
画像の解像度を下げたり 切り抜いたりと
色々頑張った一日でした。
まあ無駄では無かったかな
と一人思っている次第。
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答えられた祈り
以前ご紹介したことがありますが 大好きな詩なので再度アップ致しました。


私は強さを神に求めた
何事かを成し遂げるために
すると私は弱くされた
従うことを謙遜に学ぶようにと

私は健康を求めた
もっと偉大な仕事を
するために
すると病を与えられた
恵みふかい仕事を
するようにと

富を願い求めた
幸福になるために
すると貧しくされた
知恵ある者となるようにと

私は力を求めた
人々の称賛を得ようと
すると弱さが与えられた 自分には
神が必要であることを自覚するために
あらゆるものを求めた
人生を楽しむために
しかしいのちが与えられた
あらゆるものを楽しむように

求めたものは何一つ手に入らなかったが
ずっと望んでいたものは
すべて与えられた

的外れの私の祈りにもかかわらず 
神は ことばにならない 
私の 本当の願いを聴いてくださった

私はだれよりも豊かに
祝福を受けているのだ


(南北戦争時代の一兵士による)
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1月12日(日) くもり
聖日礼拝 風邪で声が出ないし咳が酷い。10:15--バイブルクラスから出席しました。
今年初めての礼拝出席となってしまいました。
元旦礼拝も旅行中の為欠席でしたし 先週の日曜日は移動日になり 礼拝は欠席でした。
気持ちを引き締め 祈って出席とあいなりました。しかしながらの大失態を・・・・・・。
バイブルクラスの学び中も頭が朦朧としていて、朝飲んだ薬が効いてきたらしい・・・・のでした。
本日の学びはガラテヤ書から、牧師先生の質問「パウロは・・・・・の箇所でガラテヤの教会の人々に対しどのように説明しているのでしょうか?」
・・・・・・・・・・・・・・一同シーン。
「では、異邦人の宗教に改宗したというパウロは元は何人なんでしょうか? 
ギリシヤ人ですか?ユダヤ人ですか?」
シーン・・・・・静寂を破り・・・思わず ”ギリシャ人です。”
な〜んてお間抜けな答えを言ってしまいました。お間抜けな発言者は、何を隠そう私でした。
パウロは列記としたユダヤ人ではないですか。・・・・・・それもパリサイ人の中のパリサイ人と言われていたパウロですもの。パリサイ派パウロ、これはクリスチャンの常識です。
自分で言って自ら気がつき顔から火が噴出しそうでした。
風邪で声がかすれて出なかったし、マスクも掛けていたし・・・・その後も 何事も無かったように学びは進行していきました。
講壇の牧師先生には聞こえないにしても 近くの兄弟、姉妹は気がつかれたことでしょう。
みなさんお優しいかたばかりですから笑ったりなさる方はおられませんが、風邪のせいには出来ません。あーっ、今思い出しても恥ずかしや 恥ずかしや。

礼拝説教は、夜のデボーション時にGospelにアップすることにしましょう。
体調を考えながら・・・・一応予定です。また暫くはベッドで休みます。


『 わが子よ。すぐれた知性と思慮とをよく見張り、これらを見失うな。
それらは、あなたのたましいのいのちとなり、あなたの首の麗しさとなる。
こうして、あなたは安らかに自分の道を歩み、あなたの足はつまずかない。
あなたが横たわるとき、あなたに恐れはない。休むとき、眠りは、ここちよい。 』

箴言3章21〜24
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1月11日(sat.) くもり
◆たゆみなく祈りなさい。(コロサイ4-2)

興味深いことに、聖書の中には祈りについての模範と訓戒、また約束の記事が多い。
聖書を開けばすぐに、「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」とあり、
また聖書の末尾には「アーメン」という熱心な嘆願がある。祈りの実例はいくらでもある。
神と格闘するヤコブ、日に三度祈るダニエル、心を込めて神を呼ぶダビデなどがいる。
山上にはエリヤがおり、獄中にはパウロとシラスがいる。
祈りの戒めも約束も数えきれないほどある。
これが祈りの重要性、必要性を示すものでなくて、何であろう。
神がことばを尽くしてお語りになったことは、私たちの生涯にとって重要なことである。
神が祈りについてこれほど多くのことばを費やしておられるのも、祈りが私たちにとってどれほど必要であるかを知っておられるからである。
私たちの欠乏はまさに深刻な状態にあるので、天国に入るまで祈りをやめてはいけない。
あなたには何の不足もないというのか。
もしそうだと言うなら、あなたは自分の貧しさを知らないのだ。
あなたは神のあわれみを求めなくてもいいのか。
もしあなたが求めようとしないなら、主のあわれみがあなたのみじめな状態を示してくださるように。
祈りのないたましいは、キリストのないたましいである。
祈りは信仰の幼子の片言であり、戦っている信者の叫びであり、臨終の床にある聖徒がイエスの中に眠る時の歌である。
祈りはクリスチャンの息であり、合言葉であり、慰めであり、力であり、誉れである。

もしあなたが神の子なら、あなたはあなたの父である神の御顔を求め、また父なる神の愛の中に生きることを望むであろう。
この年も、あなたが全く謙遜であり、熱心であり、忍耐強くあるように祈れ。
キリストとの深い交わりに入り、さらにしばしば愛のうたげに加われ。
あなたが他の人の模範となり祝福となり、さらに主の栄光のために生きることができるように祈れ。
この年の標語は、「たゆみなく祈りなさい」でなければならない。

◆Charles Haddon Spurgeon
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1月10日(金) くもり
寒い一日でした。月の初めは仕事も然程忙しくなく、室内でデスクワークが多いのです。
(これで外回りとか出張が入ったら大変。)
体をあまり動かさないから寒いのかなぁと思っていたのでした。
しかし どうもゾクゾクする・・・・・悪寒という症状が出始めてきたのです。
インフルエンザも年末から流行っているし 私もなんとも怪しい体調に・・・・・。
液晶体温計が示した値は 37度3分と 微妙なところです。
さて、これから徐々に上がるのか、はたまた単純な風邪で終るのか、結果は明日のお楽しみです。
今夜はこのへんで 退散致します。勿論、お風呂はお休み 早々にベッドにもぐりこみましょう。

『 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、
すべての道で、あなたを守るようにされる。
彼らは、その手で、あなたをささえ、
あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。 』

詩篇91−11・12
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1月9日(木) 晴れ
★恐れることを知る生活

主を恐れることは知識の初めである。(箴言1−7)

「恐れることを知る生活」は尊いと思います。
友人に言わせると、「事故を起こしたことのない人の運転はこわい。
一度事故を起こした人はかえって慎重だ」とのことです。
やはり、事故は起こさないにこしたことはありません。しかし、考えさせることばです。
人生には、恐ろしいことがあります。それに気がつかないことは、また恐ろしいことです。
恐ろしさに気がつかないのは、どんな場合でしょうか。

・ 欲望と衝動と自分のことだけで明け暮れしている時。

三年ほど前に横浜で、シンナーを吸った高校三年生(男・十八歳)が、車の助手席に女友達(高三)を乗せてジグザグ運転をしました。
そして歩道に乗りあげて、七人をなぎ倒し、二人は重体・四人は重傷・一人は軽傷という結果を引き起こしました。

・ 若くて人生を知らない時。

経験がないので恐ろしさが分かりません。
私たちがまずほんとうに恐るべきものは神です。
神は、全世界を造り支配している力ある方、しかも、私たちを愛しておられる方です。
このきよい神を敵にまわしたら、それこそ大変です。勝ち目はありません。
しかし、この方を知り、この方の愛を受け、この方に従って生きるなら、すばらしい人生を送ることができます。
神がいらっしゃることに気がつかないでいるなら危険です。
しかし、神を恐れることを知る生活は幸いです。

一月一日、新年の祝福を祈ります。しかし、「神を恐れる」ことをも、肝に銘じていきたいものです。

羽鳥明先生の「今日の知恵 明日の知恵』(いのちのことば社)から
元旦に記されてある箇所をアップいたしました。
今、お休みしていた聖書日課をまとめ読みしているのですが、この箇所を読みながら真にその通りであると示されました。
私達は本当に恐れなければならないものは何であるか。今一度原点に立ち返り 心に問いかける必要があると感じ入りました。
創造主であり、全てを統べ納める神様を恐れること、これこそが人間の原点であると・・・・。
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1月8日(水) くもりのち晴れ
◆私にとっては、生きることはキリスト 死ぬこともまた益です。(ピリピ1-21)

信者も、常にキリストのために生きていたわけではない。
聖霊なる神によって罪を自覚させられ、また、死の苦しみを味わった救い主が自分の罪のための贖いとなられたことを恵みによって示された時から、その人は常にキリストのために生きることを始める。
新しく天より生まれた瞬間から、キリストのために生き始める。
イエスは価の高い真珠であり、私たちは、そのために喜んですべての所有を捨てる。
主が完全に私たちの愛を占領してくださるから、私たちはただ主のみを愛する。
主の栄光のために生き、主の福音を守るために死にたい。
キリストは生涯の模範であり、人格形成のよりどころとなる原型である。
パウロのことばには、人々の考えている以上の深い意味がある。
彼の生涯の目的がキリストであったこと、いや、生活そのものがイエスであったことを意味する。
昔の聖徒のことばで言えば、彼は永遠のいのちを食し、飲み、眠ったのである。
主は彼の呼吸、たましいのたましい、心の心、いのちのいのちであった。
クリスチャンであると告白しているが、このような思いで生きていると言えるだろうか。
私にとって生きることはキリストであると、正直に言えるだろうか。
キリストのために事業をなしているだろうか。
自分の栄達のため、家族の利益のためにしているのではないだろうか。
「それがいけないのか」
そう。クリスチャンにとっては、それはいけないのである。
キリストのために生きると公言する者が他の目的のために生きるなら、霊的姦淫を犯すことになる。
ある程度までキリストのために生きる人はあるだろう。
だが、全くキリストのために生きていると言うことができる者は、はたして何人いるか。
自己の源、力、流儀、目的がキリスト・イエスの一語に要約される生活こそ、真のクリスチャン生活である。

主よ。ただあなたにあって、あなたのためにのみ生きることを祈り、今私自身をささげます。
祭壇と鋤の間に立つ雄牛のように、犠牲と労働のいずれにも私を備えさせ、「私には備えがある」と言わせてください。
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2003年 ひつじ年
[ あなたのしようとすることを主にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計画はゆるがない。]
箴言16:3
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