2003年08月の記事


8月31日(日) 晴れ
聖書日課
『朝ごとに』By Charles Haddon Spurgeon

◆わたしの腕に拠り頼む。(イザヤ51章5節)

激しい試練に直面して、クリスチャンは地上に何一つ頼るべきものをもたないので、ただ神にのみその身をゆだねることになる。
彼の船が真横に傾いて危機に瀕し、人の助けが全く及ばなくなった時、彼は単純かつ全面的に、自分を神の摂理と守りにゆだねなければならない。
人をこのように岩に打ちあてて難破させるあらしは、実は喜ばしいものである。
たましいを神に追いやり、神にのみ吹きつける烈風は幸いである。時に私たちは、友人が多すぎるために神に行かないことがある。
しかし、貧しく、友もなく、無力で、どちらを向いても身の置き場がないならば、御父のもとに駆けて行き、その幸いな腕により頼むのである。切迫した特別な困難を負い、神のほかにそれを打ち明けることができないならば、かえってそのことを感謝するであろう。なぜなら、そのような時にこそ主について深く学ぶからである。
あらしに悩む信者よ。あなたを御父のもとに追いやる苦難は、幸いな苦難である。
今、神のほかに頼るものはない。だから、神にすべての信頼を置くように努めよ。
あなたの主を、卑しむべき疑いや恐れによって辱しめるな。
信仰に堅く立って、神に栄光を帰せよ。
あなたにとって神がこの世界を千万集めたほどの価値があることを、世に向かって示せ。
主なる神があなたの助け手であられる時、あなたは貧困の中にあっても富める者であることを、世の富める者に示せ。
あなたの下に永遠の腕がある時、自分が弱い時にこそ強いことを、世の強い者に向かって示せ。
強くかつ雄々しくあれ。そうすればあなたの主である神は、天地を創造されたように確実に、あなたの弱さのうちにご自身の栄光を現し、あなたの患難のうちにご自身の力を示される。
もし青空が目に見える一本の柱で支えられていたら、天の荘厳さは損なわれるであろう。
あなたの信仰もまた、もし肉眼で見えるものに頼っていたなら、その栄光を失うのである。
この月の最後の日に、どうか聖霊があなたに、イエスにある安息を与えてくださいますように。
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8月30日(土) くもり
昨日、元気に退院いたしました。皆様の篤いお祈り感謝を致します。
スポルジョン氏の8/30「夕ごとに」より、また改めて”主の癒し”の真実をみことばから示され 励まされています。ありがとうございます。

今朝の聖書日課

◆私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。(エレミヤ17:14)

◆わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。(イザヤ57:18)

霊の病をいやすことは、神のみがもっておられる大権である。
肉体の病は、人が仲介していやされるかもしれない。
しかしその時ですら薬に効力を与え、人体に病を追い払う力を与えてくださる神をあがめるべきである。
霊の病に至っては、偉大ないやし主の手のみがこれをいやす。
そして神は、ご自分の独占権としてそれを主張される。
「わたしは殺し、また生かす。わたしは傷つけ、またいやす」と。
「わたしは主、あなたをいやす者である。」
このことばは、人のくちびるからは出すことのできない約束であり、永遠の神の御口からのみ出る。
そのゆえに、詩篇の作者は主に向かって叫んだ。
「主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。」
さらにまた「私のたましいをいやしてください。私はあなたに罪を犯したからです。」
敬虔な人々が主の御名を賛美する時も、同じように「主は私たちのすべての病をいやす」と言う。
人を造られた方は、人を回復させることができる。私たちの性質を造られた方は、それを新しく造り変えることができる。
キリストのうちに「神の満ち満ちたご性質が形をとって宿って」いることは、どれほどすばらしい慰めだろうか。
私のたましいよ。おまえの病がどのようなものであっても、この偉大ないやし主はいやすことができる。
このいやし主が神であられる以上、その力に限界はない。
だから、暗くて理解力がないなら、そのままで来い。
弱くなった足、信仰のない手、短気の熱、失望落胆の発作の状態のままで来い。
あなたの現在あるままの姿で来ればよい。もう何ものも、神である主イエスから流れ出るいやしの力をさえぎることはできない。
汚れた霊のレギオンも、愛する医師の力を認め、決して妨げようとはしなかった。
過去において、主の患者はすべていやされた。これから後もまたそうである。
友よ。主のうちに憩うことを願うなら、あなたもその一人となるであろう。

By Charles Haddon Spurgeon
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8月24日(日)晴れ
主日礼拝をお献げすることが出来感謝でした。

礼拝説教はルカ書12章29〜34節から
「あなたの宝のあるところ」と題してみことばを取次いで頂きました。

[12:29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、

と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。

12:30 これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。

しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。

12:31 何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。

そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。

12:32 小さな群れよ。恐れることはありません。

あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。

12:33 持ち物を売って、施しをしなさい。

自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。

そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。

12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。]



私達は人生において何を一番大切にするのでしょうか。

詩篇37:25には
「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、

その子孫が食べ物を請うのを見たことがない。」

とあります。

主に従うならば 私達のライフラインは
            ・与えられるであろう。
            ・与えられるかもしれない。ではなく
31節にはっきりと、・与えられます。と記されています。

信仰のあらゆる妨げになるものより、あなたがたは、神の国を求めなさい。
と教えます。
食べることはどうでも良いとはおっしゃらないのです。
優先順位・・・・・・●神の国と義とを求めなさい。
          ●神を第一とし神の喜ばれる生活をしなさい。と教えています。
神は食べ物がないと生きられないということを 百も承知なのです。

マタイ19章16節からの箇所に お金持ちの青年が
「永遠のいのちを得るためにはどのようなことをしたら良いのでしょう」
と質問する箇所があります。
答えは 「神を第一としなさい」でした。
この青年は、この世のこと、この世の基準を持っていながら
神にも従おうとしていたのです。
私達は 神の国と世に同時に仕えることは出来ません。
ともすれば、お金を頼りし、経済が満たされると良いと考えてしまいがちです。

ローマ書13:8「 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。」

・自分の収入に見合った生活をするように
・計画的に使うように と勧めます。
まず収入があったら1/10を神に献げるために取り分けておくことです。

マタイ6章3・4
「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが隠れているためです。
そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」

また献げるときは、人に分からないようにするだけでなく、
自分でも忘れるように、そのように献げなさい。 と聖書は教えています。

先人のことば

一生を終えて残るのは 私達が集めたものではなく

私達が 与えたものである
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8月22日(金) 晴れ 真夏日
聖書日課・・・箴言のみことば

◆正義と誠実を追い求める者は、
いのちと正義と誉れとを得る。
箴言21:21

まじめに誠実にやっていけばそれでいいという考えが、
今も日本人の人生観の底流となっているようです。
この箴言のみことばは、日本人のそんな人生観にはんこを押してくれるもののように響きます。
ところが、そうではないと思うのです。
正義と誠実について、同じように見えながら、全く違う三つの態度があります。

▲第一は、自分は正義だ誠実だと自任する態度です。

そのように自任する人で、ほんとうに正しく、ほんとうに誠実な人がいるでしょうか。
それに対して、私も聖書もイエス・キリストも、大きなクエスチョンマークを持っています。
エルサレムの神殿の前に、パリサイ人と取税人が祈りに来ました。
正しいまじめな者だと自任するパリサイ人は、こう祈りました。
「神よ。私が、隣にいる取税人のような罪人でないことを感謝します。
私は、祈りや施しや断食に励んでいます。」
ところが隣の取税人は、うつむいて胸をたたき、
「神よ。この罪深い私をあわれんでください。ゆるしてください」
と祈りました。 ルカ書18:9〜14

▲第二に、自分は正義と誠実をモットーとして生きていこうと、言い聞かせている態度です。

まじめ人間の特徴として、同情はできます。
しかしこれは、きたないどぶ川に、「いのちの清水」と立て札を立てるようなものです。
立て札やラベルだけで、人間がどうなるものでもありません。

▲第三に、正義と誠実を追い求める態度です。

自分にはそれがない、自分はそれが欲しいと、飢え渇いて、神に向かって心を開いて求めます。
自分が正しい、自分が誠実だなどと言いません。
しかし神の前に全く開かれた心に、神が ゆるしによる義・愛によるいのち・人の誉れでない天の誉れを与えてくださるのです。

「今日の知恵・明日の知恵」より

恵み深い父なる神さま、御名を心より褒め称え感謝をいたします。
今日の箴言のみことばの光りに照らされ、自分の 醜さ、罪深さがまたはっきりと分かりました。
パリサイ人のように、正義を振りかざし 自分は正しいと主張することの多い者です。
どうぞ、高慢な私を赦してください。
十字架を見上げ、悔いた砕かれた魂を持って、御前に出で正義と誠実をあなた様に願い求めてまいりますからどうぞ、導いてください。
われらの救い主イエスさまのお名前によってお祈りします。   アーメン。
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8月20日(水)晴れ
今日の聖書日課

◆快楽か喜びか

[ 快楽を愛する者は貧しい人となり、ぶどう酒や油を愛する者は富むことがない。]箴言21:17

このみことばを読むと、イエス・キリストの「放蕩息子のたとえ話」がすぐ思い起こされます。
お父さんから遺産を先取りし、大金をふところにして町に行き、
たちまち酒色の奴隷となり、肉の快楽のために金を湯水のように使いました。
そして金が尽きた時、彼は何もかも失ったことに気がついたのです。(ルカ書15:11〜16)
「放蕩息子のたとえ」を引くまでもなく、私たちのまわりに、たくさんの実例が見られます。
「歓楽極まりて哀情多し。」
二日酔いの苦しさどころではありません。快楽追求にふける快楽第一主義のむなしさとその結末のみじめさは、実に明らかです。
「快楽」と訳されたシムハーというヘブル語は、15節では「喜び」と訳されています。
喜びとは、人生の幸福と祝福を象徴することばではないでしょうか。
喜びを好まない人はありません。快楽を好むのと喜びを求めるのと、どこが違うのでしょうか。
どこから狂ってくるのでしょうか。
聖書は、人の幸福の三本柱のような愛も平和も喜びもみな、人生の果実だと言います。
パウロはガラテヤ人への手紙の中で、
「愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」は、聖霊の実だと言っています。
ほんとうの喜びが欲しければ、自分の欲求だけで生きる生き方から離れ、神に従い神を待ち望む生活をするべきです。神につながって初めて、喜びの実が実るのです。

イエス・キリストは言われました。
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。
わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」
(ヨハネの福音書15章4・5節)

神とつながっていなければ喜びの実は期待できないのに、
いのちのないものの中に快楽を追求していく。・・・・・ここから狂いが出るのです。
電信柱にリンゴがなるのを期待するようなまねは、やめなければなりません。

「今日の知恵・明日の知恵」より
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8月18日(月)晴れ
今朝は少し寝過ごし、6時・看護士さんの、ノック音で目覚めました。
週一回の血液検査日で3本分採られました。今朝は少し眠り足りない感じです。
自分では難なくこなせたようで、やはり昨日の礼拝出席は疲れたのでしょう。
久しぶりの礼拝といっても一週休んだだけなのですが、教会の方々は皆驚かれ”もう退院?”・・・・・「いえいえ、まだです。外出許可で。」この応答の繰り返しでした。

さて、昨日の礼拝説教はA神学生が奨励をされました。

「信仰の大盾」第�U歴代誌20章12〜26節

20:12 私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。
私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。
私たちとしては、どうすればよいかわかりません。
ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。
20:13 ユダの人々は全員主の前に立っていた。
彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。
20:14 ときに、主の霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。
彼はマタヌヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。
20:15 彼は言った。
「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。
主はあなたがたにこう仰せられます。
『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。
この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
20:16 あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。
あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。
20:17 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。
あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。
恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。
主はあなたがたとともにいる。』」
20:18 それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。
ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、
20:19 ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、
主を賛美した。
20:20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。
出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。
「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。
あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」
20:21 それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。
彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。
「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」
20:22 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。
20:23 アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。
20:24 ユダが荒野に面した物見の塔に上ってその大軍のほうを見渡すと、
なんと、死体が野にころがっている。のがれた者はひとりもない。
20:25 ヨシャパテとその民が分捕りをしに行くと、その所に、武具、死体、高価な器具を数多く見つけたので、これを負いきれないほど、はぎ取って、自分のものとした。
あまりにも多かったので、彼らはその分捕りに三日かかった。
20:26 四日目に、彼らはベラカの谷に集まり、その所で主をほめたたえた。
それゆえ、人々はその所の名をベラカの谷と呼んだ。今日もそうである。



今から約2800年前、ヨシャパテ王の時代の出来事。
■ヨシャパテ王・ユダ及びエルサレム住民は、何をするのでしょうか?
・主の霊がハジエルに臨んで言った。
  ●しっかり立って動かずにいるように。
  ●聖なる飾り物を着けて、前列に出て行き 主を賛美するように。

■神は何を言おうとしているのでしょうか?

賛美の声が 神の力に拠る 信仰の大盾となったのです。

「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、
堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。
それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。」エペソ書6:13〜16に記されてあります。

1.
礼拝のときに大声を張り上げて、神さまを賛美します。
2.
苦しいとき、どうしてよいか分からないとき私達はヨシャパテ王のような信仰を持っているでしょうか?
神さまにすがるように祈ります。
・・・・・・・・・・・・・すでに聴かれているのです。
私達は心から賛美をお捧げしているでしょうか?
嬉しい時、喜びのときは 賛美を捧げる事が容易です、しかし苦しみの時、気落ちしている時は 難しいものです。
・・・・・・・・・・・・・賛美する者でありたいと思います。
また、聖書には条件が記されてあります。
・主に向かって賛美をするとき、聖なる飾り物をつけてとあります。
・・・・・・・・・清められた者・・・・・・・
イエス・キリストを信じることによってのみ清められるのです。

3.
私達は勝利した後の賛美を忘れていないでしょうか?

「 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 
 詩篇103篇2節

心から主を賛美いたしましょう。
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8月17日(日) 雨
今日は聖日です。朝食後、処置(傷の消毒)を終えたら礼拝出席の予定です。
昨日から外出許可を出してあるので すぐに出発出来ます。
病院の昼食は止めて頂き、教会にて愛餐会に預かります。
こんなに早く礼拝をお捧げ出来るとは・・・・主よ、そのお守りとお導きに感謝をいたします。

朝の聖書日課

◆神の恵み……。(詩篇52:8)

神の恵みについてしばらく静かに考えよう。

●それはあわれみ深い恵みである。
優しく愛のこもった手で触れて、神は悲嘆に沈む心をいやし、その傷の手当てをなさる。
神の恵みの内容と同じく、実際の扱いもまた情け深い。

●それは大いなる恵みである。
神のうちに小さなものは何もない。神の恵みはご自身のように無限である。
たぐいなく大きいので、大罪人の大きな罪を赦し、大きな恩恵と特権を与え、引き上げて、偉大な神の大いなる天での大きな喜びにあずからせてくださる。

●それは無条件で与えられる恵みである。
真の恵みはすべてそうでなければならない。条件つきの恵みはさばきの別名だからである。
神に反逆した罪人がただちに永遠の炎に投ぜられたとしても、それは当然である。
万一怒りを解かれたとすれば、それは神の一方的な愛のゆえである。
なぜなら、罪人の側にはそれを要求する根拠は何もないからである。

●それは豊かな恵みである。
この恵みは、あなたのうなだれたたましいの強壮剤であり、血の流れる傷口につける高価な薬、折れた骨に対しての天来のほうたい、疲れた足を助ける王の車、また震えおののく心に対する愛の思いやりである

●それは幾重もの恵みである。
あなたは、ただの一つの恵みしか受けていないと思うかもしれない。しかし少し考えれば、それが恵みの房であることがわかるであろう。

●それは満ちあふれる恵みである。
多くの人がその恵みを受けたが、それは枯れることなく依然として新鮮であり、充満しており、無代価で提供されている。

●それは信頼するに足る恵みである。
決してあなたを離れない。恵みがあなたの友であるなら、それは誘惑の時にも共にあって、敗北から守り、苦難の時にも共にいて、意気消沈から守る。
あなたが生きている時にはあなたの顔の光、またいのちとなり、あなたが死の谷間にあって、この世の慰めがにわかに去っていく時にも、あなたのたましいの喜びとなるであろう。

「 私は世々限りなく、神の恵みに拠り頼む 」詩篇52:8

『朝ごとに』By Charles Haddon Spurgeon
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8月15日(金) くもり
本日は理学療法士によるリハビリのTEST(週1回)があります。
これに合格することが退院の一つの目安になるといいます。
毎日リハビリに励み随分バンザイ運動ができるようになりました。
朝の創の消毒時 リンパ液を初めて(注射針を刺して)抜き、脇に挟まった感じがすっきりしました。
さぁて 今日のTESTは合格できるでしょうか・・・・・・・。

聖書日課

◆イサクは夕暮れ近く、黙想するため野に出かけた。創世記24:63 英訳

イサクの行為は、まことに賞賛すべきものであった。
もし怠惰な友と交わり、つまらないものを読みふけり、無益なことに多くの時を費やす人が、知恵を得るならば、今夢中になっている空しいものよりも、黙想するほうがはるかに有益であり、興味深いことであるのを見いだすであろう。
もし私たちがさらに孤独になるならば、従来よりもさらによく神を知り、さらに神に近く生活し、恵みに成長するであろう。
黙想は他の場所において集められた心の糧を反芻し、その中から真の栄養を引き出す。
イエスが黙想の主題となる時、その黙想は実に甘美なものである。
イサクはただひとり黙想している時に、リベカを見いだした。他の多くの者も、黙想の時に最愛の者を見いだしている。
イサクの選んだ場所も、強く賞賛されるべきである。野にあって、私たちは聖句を思い巡らす。
杉の木とヒソプ、天を飛び駆けるわしと草原に鳴く虫、そして広大な青空から一滴の露に至るまで、すべてのものは教訓に満ちている。
目が神によって開かれているならば、その教訓は書物を読むよりも、はるかに生き生きと私たちの心にひらめくのである。
小さい私の部屋は、野原のように健全ではなく、暗示的でもなく、居心地もよくなく、私たちを力づけることもない。
私たちは何ものをも平凡だとか汚れているとか考えないようにしよう。
すべての被造物がその創造主を指し示していることを感じ取ろうではないか。
そうすれば、野原はただちに聖別されるであろう。

イサクの黙想の時期も、まことによかった。
日没となり、あたりが夕やみに包まれるころはたましいの休息に最適だ。
世の憂いを捨て、天上の交わりの喜びに入る。
夕日の輝きは私たちに驚異の念を起こさせ、近づく夜の荘厳さは、畏怖の心を目覚めさせる。
愛する友よ。もし今日の仕事が許すならば、一時間を割いて、夕暮れの野原を散歩するとよい。
しかしそれができなくても、主は町の中にもおられる。
またあなたの部屋で、あるいは街の雑踏の中であなたに会われる。
あなたの心を進み出させ、主にお会いせよ。


『朝ごとに』By Charles Haddon Spurgeon
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8月14日(木) 雨
昨夕、牧師夫妻が見舞って下さいました。ちょうど夕食時で4階の食堂に集っている時でしたし、
これから祈祷会に向かわれるところということもあり、現在の病状を手短にご報告させて頂きました。
とても順調な回復であることをご報告することができ、感謝なことでした。
お見舞いに”祈りの花たば”という小冊子を頂いたのですが、
その中でとても心に響いたみことばがありました。

『 私は多くの者のそしりを聞きました。「四方八方みな恐怖だ。」と。
彼らは私に逆らって相ともに集まったとき、私のいのちを取ろうと図りました。
しかし、主よ。私は、あなたに信頼しています。
私は告白します。「あなたこそ私の神です。」 
私の時は、御手の中にあります。      詩篇31:13〜15 』    

この箇所は今までも何度も読んだであろうと思います。
「あなたこそ私の神です」・・・・・暗唱聖句として覚えている箇所でしたが、
その次の行 私の時は、御手の中にあります。は読み過ごしていた箇所です。
詩篇の詩人はこのように告白し、全能の神の御手にすべてを委ねました。
なんと深い信仰の告白でしょうか。
四方が塞がっても天だけは開いている。そう信じて神に求めることができるということは・・・・・・・・・。
主よ、ありがとうございます。

リビング・プレイズの中に次のような賛美があります。アーメンと言わずにはおられません。
心から賛美を捧げます。

御手(みて)の中で

すべては変わる感謝に

わが行く道を 導き給え

あなたの御手の中で
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8月14日(木) 雨
朝の聖書日課

◆主よ。あなたは、あなたのなさったことで、私を喜ばせてくださいました。
私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。   詩篇92:4

あなたは自分の罪が赦され、キリストが罪の完全な贖いを成し遂げられたことを信じるか。
もしそうなら、喜びにあふれたクリスチャンとなるべきである。
日常の試練や苦難から超然として生きるべきである。
罪が赦されたからには、どのようなことが起こっても恐れる必要はない。
ルターは言った。「主よ。私を打ってください。私の罪は赦されたからです。あなたが赦されたのですから、みこころのままに強く打ってください」と。
あなたも同じ思いで、「私に病を、貧しさを、損失を、苦難を、迫害を、あなたの望まれるものを送ってください。あなたは私を赦されたので、私のたましいは喜びます」と言うことができる。
クリスチャンよ。あなたがこのように救われたのであれば、喜ぶとともに感謝し、親愛の情を抱け。
あなたの罪を取り去った十字架にすがれ。あなたに仕えられた方に仕えよ。
あなたの熱心は、少しの歌を歌ったぐらいで消えてしまうようなものであってはならない。
あなたの愛をはっきりしたしるしで表せ。あなたを愛された主の兄弟を愛せよ。
どこかに足の不自由なメフィボシェテがいるなら、ヨナタンのために助けよ。
もしあわれな試練に会う信者がいるなら、彼と共に泣き、彼の十字架を担え。・・・・・あなたのために泣き、あなたの罪を負われた方のゆえに。

あなたはキリストのゆえに無代価の赦しを受けた。だから出て行って、他の者に罪の赦しの喜ばしい知らせを伝えよ。
このことばでは言い尽くせない祝福にひとりで満足しているのではなく、十字架の物語を広く宣べ伝えよ。
神聖な喜びと神聖な勇気はあなたを良い説教者とし、この世のすべての場所が説教の講壇となるだろう。
喜びにあふれた聖潔は、説教を最も力あるものとする。しかし主が自らそれをあなたに与えられる。
この世に出かける前に、今朝それを求めよ。あなたが喜んでなしていることが主のための働きであるなら、喜びすぎていることを恐れる必要はない。
By Charles Haddon Spurgeon
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8月13日(水)雨 時々曇り
朝からの雨で今日の外出は しないことにしました。
体調は良好です。贅沢なもので、元気になってくると退屈とさえ感じてしまう・・・・・弱さを覚えます。
感謝して時を有意義に過ごさなければ。

今日の聖書日課・・・・・・・・・”今日の知恵・明日の知恵”より

◆人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。    箴言20:27

人間の良心は、神が人間の中に備えつけられたサーチライトです。
神が人間を造られた時、「いのちの息」(創世記2:7)を吹き入れられました。
ほかのすべての動物と違って、人間には良心があり、善と悪を判別します。
神を離れて罪の道を長く歩いてきた人間の良心は、曇ったりなまったりしているので、エレミヤは、
「人の心はすべてのものより偽るもので、はなはだ悪い」(エレミヤ17-9)とさえ言いました。
確かにそうです。しかし、すべての人の心の中に、この神の声・神のともしび・神のサーチライトがあることも事実でしょう。

姦淫の現場を押さえられた女を、パリサイ人たちはイエス・キリストのところへ連れてきました。

「律法によると石で打ち殺せとあるが、先生、あなたならどうします」

と言って、人のみじめで不幸な姿を、イエスを試す材料にしようとしました。
イエスはしばらくだまっておられましたが、やがて言われました。

「あなたがたの中で罪のない者が、まず石を投げなさい。」

すると、どうでしょう。人々は、一人去り二人去り、みなこそこそと姿を消してしまいました。
パリサイ人たちにも良心があったのです(ヨハネ8:3〜11)。
良心に責められる時、弱りはててはなりません。がっかりしてぺしゃんこになってはなりません。
自分でこそこそと「もうしません」などと決心してみたり、償いだといって自分をいじめたり痛めつけたりしてもいけません。
神の前に正直に告白し、キリストの血潮の中に、神の愛の中に、洗いざらい全部を投げ出しなさい。
光の中に投げ出したものは、みな光となるとさえ聖書は言うのです。
イエス・キリストの愛と十字架の血潮は、すべての人の良心のけがれを完全に洗いきよめます。

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(�Tヨハネ1:7)
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8月12日(火) 夜・・・・・くもり
今日で術後5日目・・・・外出許可を提出し、p.m.2:00〜4:00迄、宮崎神宮を散策という名目で、 
神宮近辺を文字通りぶらぶらと散歩して来ました。
時々コンビニに立ち寄り、飲み物を補給し また歩き、予定より少し早めに病院へ戻りました。
心地よい疲労感あり。
実は・・・尾篭な話で恐縮ですが、術前に下剤を服用、絶食以来一度もお通じがありません。
あれから何食頂いていることか、恐ろしいです。
ほとんど運動らしき運動をしていませんから・・・・・という訳で看護士さんに勧められて、そういった意味でも有益な散歩でした。
散歩の効果は明日の朝に期待し、これから病院でお借りしたビデオ「恋におちたシェイクスピア」を観て休むことに致します。
今夜の検温は平熱でした。なんとか微熱続きの夜から解放されそうです。おやすみなさい。
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8月12日(火) 雨
夕べも微熱が出始め37度4分、この時点でもう横になって休んでしまい、その後は全く覚えず(PM8:00頃)でした。
病院の起床時刻は6時ですが 4時過ぎには目覚めてディボーションをたっぷり。
それでもすっきり目覚め、今朝は熱も下がって、大丈夫そうです。
雨も上がってきたようですし、今日は近くを散策がてら外出でもしてみようと思います。
eclat コミュニティはまたまた入室を拒否されています。困った困ったです。


聖書日課”朝ごとに”より.....スポルジョン著
◆主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。 詩篇97−1

この幸いな聖句が真実である限り、不安の原因は何もないはずである。
地上にあっては、主の力は大波を支配するように、悪人の怒りをも支配している。
主の愛は、雨が地を潤すように、あわれみをもって貧しい者を力づける。
神の主権は恐ろしいあらしの中の閃光のように輝き、主の栄光は国々の滅亡と王座の転覆のうちにその荘厳さを現す。
私たちはすべての戦いと苦悩のうちに、王である神の御手を見る。

 神は神である

 私たちのすべての苦悩と涙を見られ

 また聞いてくださる

 たましいよ。苦痛の中にいても忘れるな

 神がすべてを永遠に治められることを

地獄において悪霊どもは、疑うことのできない神の支配下に苦しんでいる。
彼らは外へ出て歩き回ることを許されたとしても、その足には鎖がついている。
河馬の口にはくつわがかけられ、レビヤタンのあごには鉤がつけられている。
死の夜は主の鎖につながれ、神の力が墓場の牢獄の番をしている。
全地の審判者の恐ろしい報復には、悪魔もむちを恐れる飼い犬のように立ち竦んで震えるのである。

 死を恐れるな。サタンの攻撃に驚くな

 神はご自身を信頼する者を守られる

 たましいよ。苦痛の中にいても忘れるな

 神がすべてを永遠に治められることを

天上にあっては、永遠の王の主権を疑う者はなく、すべての者はひれ伏して、臣下としての礼を尽くす。
天使は神の廷臣であり、贖われた者は神の寵臣であり、すべての者は日夜喜びに満たされつつ神に仕える。
私たちにも速やかに偉大な王の都に行かせてください。

 人生の悲しく長い夜にも

 神は平安と喜びを与えられる

 たましいよ。苦痛のなかにいても忘れるな

 神がすべてを永遠に治められることを
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8月10日(日) 晴れ
今日はeclatのHPに入室出来ません。朝早くからアクセスすれども、すれどもエラーの連続。
最近Gaiax コミュニテイは不調続きです。

私の体調も今日は芳しくありませんでした。
お昼までは何事も無かったのですが 昼食後 悪寒がして検温すると 38.0℃ありました。
氷枕をあて、解熱剤を服用し 夕食時まで横になっていました。
なんとか現在は平熱に戻りましたが、毎日夕方になると微熱が出ています。
術後、ほとんどの方が微熱を出されるということなのですが、”38度は微熱ではないので、もし熱が下がらないようでしたら 診察して頂きましょう”と看護士さんに言われていました。
平熱に戻って 一安心。今夜はもうこの辺で休むことにします。おやすみなさい

『私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。』

詩篇3章5節
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8月10日(日)晴れ
今朝の聖書日課

◆人の歩み・主の定め

『人の歩みは主によって定められる。

人間はどうして

自分の道を理解できようか。』

箴言20:24 

すべての人のすべての歩みは、神が定めていらっしゃいます。
ある人はここを、
「なぜ、人生にいろいろ起こることを全部理解しようとするのか」
と訳しました。
いったい、聖書のこのことばは、どうにもならない宿命論なのでしょうか。
宿命論につきものは「あきらめ」ですが、聖書は、けっしてあきらめを教えてはいません。
きよく、正しく、愛深く、真実な方である神から出ていることは、結局最善なことだから、
「神にゆだねきりなさい」と言うのです。
ペテロは言いました。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。
神があなたがたのことを心配してくださるからです」(�Tペテロ5:7)

ある島のハンセン病療養所に、皆から「お父さん」と呼ばれ慕われているクリスチャンがいます。
かつてその方の心は、憤り・やけ・不信・疑問・孤独・むなしさでいっぱいでしたのに、
その苦しみを通して、神の深い愛と永遠のいのちを知り、神が与え定めていてくださる自分への尊い人生が分かった時、ハンセン病の手当を一切やめてもらったというのです。
「私に人生の最高の喜びを分からせてくれたのは、このハンセン病です。
もし、私がこの病気にかからなかったら、ごうまんで不遜で不満に満ちたままでいたでしょう。
私は、ハンセン病を感謝して、大切にしたいのです」と言ったそうです。
今、あわてて分かろうとしなくても、やがて分かる時が来ます。
●神がいらっしゃる●神があなたを愛していてくださる●あなたに最善のプランを持っていてくださる。
このことを心の底で分かり、受け止め、神にゆだねるところに、意味深い明るい道が開けてくるのではないでしょうか。

「今日の知恵・明日の知恵」
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8月5日(火) 晴れ
聖書日課

今朝のディボーションの箇所は、クリスチャンであれば知らない人はいない有名なみことば
ローマ書8-28でした。
このみことばによって いっそう励まされ、強められました。
入院の朝にローマ書とは神さまは実に粋なお方です。感謝いたします。

◆『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、

神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』ローマ書8-28



信者は、ある一点について絶対的な確信をもつ。
たとえば舟が最も激しく揺れる時、舟のともには神が座しておられることを知っている。
見えない手が常に世界の舵をとっており、摂理の潮がどこに流れようと、神が支配されることを知っている。
心を奮い立たせるこの知識は、彼をすべてのことに対して備えさせる。
彼は荒れ狂う怒濤を見渡し、イエスが大波の上を歩いて近づき、
「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われる声を聞く。
また神が常に賢明な方であることを知っているので、事故や失敗などありえないことを確信する。
彼はこう言う。
「たとえ私の持っているものをすべて失っても、それがみこころならば、むしろ失ったほうがいい。
もし神の定められたことならば、最悪の災いであっても、それは私にとって最も賢明な、また最も親切な賜物である。」

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と。

クリスチャンはこれを理論として把握しているだけではなく、これが事実であると知っている。
今まですべてのことは働いて益となってきた。すべてのことが、すばらしい祝福された結果をもたらしてきた。

だから、神がすべてを支配し、災いの中からよいものを与えてくださることを信じるので、心が確信に満たされ、あらゆる試練にも冷静に直面できる。
信者はすべてをゆだねてこう祈る。
「私の神様。あなたのよいとご覧になるものを送ってください。
あなたの子どもに害になるものを、あなたは決して与えられませんから」と。
私のたましいよ。「神はいつ私の思い煩いを取り除かれるのか」と言ってはならない。
全能なる神は至る所にしもべをもっておられる。神の方法は崇高で、そのみこころはいつくしみ深い。
神は決して定められた時に先立たれることもなく、また遅れることもなさらない。

[朝ごとに] BY Charles Haddon Spurgeon
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8月3日(日) 晴れ
今日は主の日、礼拝説教は 第�Tコリント9章24〜27節

「 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、
ということを知っているでしょう。
ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。
彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、
私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。
空を打つような拳闘もしてはいません。
私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。
それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、
自分自身が失格者になるようなことのないためです。」



「神のなさること、人のすること」と題して牧師先生より、みことばを取り次いで頂きました。

ヨハネ1-12の御約束にあるように、私達が救われたのは私達の努力に拠るものではありません。
頑張って救われた人は一人もいないのです。

●まず、受け身の中で 受け取るという面では・・・・・。
・救い主キリストを受け入れ 主を信頼し、より頼むことです。
私たちは救いの恵みを受け取り、主イエス・キリストを信頼し、すべてのことを働かせて益として下さると信じています。
より頼み、委ね、イエス様が一緒にいてくださるので大丈夫と信頼しています。
ですから、イエスさまに従った生き方を、主の喜ばれるように生きていこうと思うのは当然のことです。

●もう一つの面として・・・・・。
・主イエス・キリストを人生の主、生活の主と崇め従うことです。
27節にあるように、”体を打ちたたいて従わせます。”
私たちに責任があるということもあります。
・心を悪いことから離れる、逃れることです。
・神さまに心を向けることです。
・積極的に清いこと、イエス・キリストのことを思い、イエスさまのような心の人になりたいと思うことです。
行いは心から出て来るのですから、心が清められ、清く保つことが大切なことです。

私たちは決勝点を目指して走っているのです。
朽ちる冠を受け取る為ではなく、朽ちない冠・・・・天における希望、永遠のいのちという素晴らしい目標のわかる走り方をしたいですね。


8月最初の聖日 心から主を賛美し、霊と真をもって礼拝をおささげ致しました。
第�T聖日は聖餐の恵みにも預かることが出来ました。
過ぎる一週間も 弱く・あなた様を悲しませることの多い者を守り導いてくださいましたから有難うございます。
主の十字架で流された血潮ゆえに罪赦されていることを想い、感謝致しました。

今日の聖書の箇所から、信仰生活には救われ受身のままで留まっていることなく、信仰生活の戦い・・・・誘惑と積極的に戦うべきであること、古い肉なる自分を打ちたたいて従わせる努力が必要であることを学びました。
どうぞ、人生の決勝点はなんであるかを覚えて、それを目指し走る者とさせて下さい。
主イエス・キリストのお名前を通して祈ります。 アーメン
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8月2日(土) 晴れ
聖書日課

◆ みこころによりご計画のままをみな実現される方……。  エペソ1-11

私たちは神の知恵について考えるときに、神が救いのみわざにおいて
一定不変の目的と計画をもっておられるに違いないと信じる。
神のご意志なくして、被造物は何であろう。
海の一匹の魚、空の一羽の鳥でさえ、偶然に造られたものがあろうか。
否、すべての骨、関節、筋肉、腱、腺、血管には、一切のことを無限の知恵による計画に従って働かせられる神の臨在が認められる。
このように神が創造において臨在され、すべてを支配されるのであれば、恵みにおいてそうでないことがあろうか。
神のご計画が古い被造物を支配しているのに、新しく造られた者が、当てにならない自由意志で自らの道を切り開いていかなければならないだろうか。
摂理を見よ。
・雀の一羽でも、父なる神のお許しなしには地に落ちない。
・あなたの髪の毛さえも、みな数えられている。
・神は私たちの悲しみの山、苦難の丘をはかりにかけられる。
では、神は摂理の中にのみいまし、恵みの中にはおられないのだろうか。
外のからが知恵によって定められながら、中身は全くの偶然に任されているのであろうか。
否、神は初めから結末を知っておられる。
神は定められた場所に、ご自身が置かれた美しい礎石ばかりでなく、天然の石切り場から切り出され、神の恵みによってみがき上げられた選ばれた石の一つ一つをもご覧になる。
神はすべてを知っておられる。
部屋の隅からなげしまで、土台から屋板まで、基礎から尖塔までをご存じなのである。
神は、それぞれの場所に置かれる一つ一つの石について明らかな知識をもち、建物がどれほどの大きさになるか、
また「恵みあれ。これに恵みあれ」と叫びながら、いつ、かしら石が運び出されるかもご存じである。
最後の時になれば、神が、選ばれたすべてのあわれみの器に対してみこころをなされたこと、
恵みのみわざのすべての部分において、その目的は成就され、ご自身の栄光を現されたことが明らかにわかるであろう。

By Charles Haddon Spurgeon



『私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、
このようにあらかじめ定められていたのです。』エペソ人への手紙1章11節
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