2003年09月の記事
2003 09/30 21:41
Category : 日記
◆聖書日課
『わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。』 箴言24章13・14
聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。
甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。
友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。
イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。
・ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」
�Tペテロ2:2 とすすめ、
・ダビデも、
「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」
詩篇119:103 と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。
「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。
苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。これが、私たち多くの人間の問題となっています。
きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。
おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。
卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。
ペテロは、
「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」
[�Tペテロ2:1]・・・みことばを慕い求めなさい
と言ったのです。
[今日の知恵・明日の知恵」から
天のお父様 御名を崇め讃美を致します。
9月も今日で終わります。あなたさまは溢れるばかりのあわれみによって、日々の歩みを守りこの月も導いて下さいました。感謝をいたします。
魂の飢え渇きを覚え、霊的な心の目を開いて、聖書のみことばの真理を、また知恵を慕い求める者となさせてください。
救い主 イエス・キリストのお名前を通してお祈りします。 アーメン
『わが子よ。蜜を食べよ。それはおいしい。
蜂の巣の蜜はあなたの口に甘い。
知恵もあなたのたましいにとっては、そうだと知れ。
それを見つけると、良い終わりがあり、
あなたの望みは断たれることがない。』 箴言24章13・14
聖書の中に、蜂蜜が何回も出てきます。
甘いものの少なかった時代に、蜂蜜がどんなに貴重であったかが想像できます。
友人から、子どものころ、蜂をつかまえて細いひもを結んで放し、蜂の行方を追って、それこそ野越え山越えして、蜂の巣を捜し当てたという経験を聞いたことがあります。
イスラエルの昔の人たちも、一生懸命蜂の巣を捜し、したたる蜜を求めたことでしょう。
蜜を恋い慕うと同じように、神の知識を恋い慕いなさいと、聖書は言っているのです。
・ペテロも、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい」
�Tペテロ2:2 とすすめ、
・ダビデも、
「あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」
詩篇119:103 と告白しました。
しかし、あなたにとってどうでしょうか。
「良薬口に苦し」ということばがありますが、聖書のことばとか、神とか永遠とかの話には食欲を感じない。
苦いとは感じても、とても蜜とは思えない。これが、私たち多くの人間の問題となっています。
きよいこと・永遠のこと・神・神の知識に対して飢え渇きや食欲がないのは、なぜでしょうか。
おいしいごちそうを前にしても、ほかのものでおなかがいっぱいで入らなかった経験はありませんか。
卑しいもので、腹を満たしている時、貴いものへの食欲がわいてきません。
ペテロは、
「すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて」
[�Tペテロ2:1]・・・みことばを慕い求めなさい
と言ったのです。
[今日の知恵・明日の知恵」から
天のお父様 御名を崇め讃美を致します。
9月も今日で終わります。あなたさまは溢れるばかりのあわれみによって、日々の歩みを守りこの月も導いて下さいました。感謝をいたします。
魂の飢え渇きを覚え、霊的な心の目を開いて、聖書のみことばの真理を、また知恵を慕い求める者となさせてください。
救い主 イエス・キリストのお名前を通してお祈りします。 アーメン
2003 09/25 22:04
Category : 日記
久しぶりに聖書日課は 箴言から
◆酒 に 酔 う
わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。
争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。
ゆえなく傷を受ける者はだれか。
血走った目をしている者はだれか。
ぶどう酒を飲みふける者、
混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。
箴言23:29〜30
酒に、自分というものの支配権・コントロール権を売り渡してしまった酔っぱらいの姿が、
絵のように描かれています。
落語家にこの聖書のことばをテキストとして演じさせたら、泣き上戸・けんか上戸・ぐち上戸の
目の血走った姿を、さぞかし上手にやってのけるだろうと思います。
23章の後のほうを見ますと、異様なものを見たり聞いたりする幻聴幻覚、ねじれごとをしゃべる放心状態、もうどうにもならないのにもっと飲みたいという飢餓状態も描かれています。
「一杯人酒を飲み、二杯酒酒を飲み、三杯酒人を飲む」とは、うまいことを言ったものです。
酒は口から飲むのに、全身にまわって手も足も口も酒が支配し、
手が舞い足が踊り口が歌い出します。
ギリシャの賢人ダイオゼニスは、つがれた酒をすぐ地面にこぼして捨てるので
「惜しいじゃないか。むだにして」ととがめられ、
「それでも酒を飲んで、私と酒の両方をむだにするよりましだ」と言ったと聞きました。
新約聖書は、
「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。
御霊に満たされなさい」 エペソ書5:18
と言っています。神の御霊に満たされて酔え、酒に酔っぱらうなというのです。
しかし、エゴが支配していてはできないことです。
口は賛美の歌うたい
手は喜びの舞いを舞い
足は奉仕の道を行く
人は、陶酔を求めます。神の愛と喜びの中に、最も高貴な陶酔があるのではないでしょうか。
[今日の知恵・明日の知恵」から
◆酒 に 酔 う
わざわいのある者はだれか。嘆く者はだれか。
争いを好む者はだれか。不平を言う者はだれか。
ゆえなく傷を受ける者はだれか。
血走った目をしている者はだれか。
ぶどう酒を飲みふける者、
混ぜ合わせた酒の味見をしに行く者だ。
箴言23:29〜30
酒に、自分というものの支配権・コントロール権を売り渡してしまった酔っぱらいの姿が、
絵のように描かれています。
落語家にこの聖書のことばをテキストとして演じさせたら、泣き上戸・けんか上戸・ぐち上戸の
目の血走った姿を、さぞかし上手にやってのけるだろうと思います。
23章の後のほうを見ますと、異様なものを見たり聞いたりする幻聴幻覚、ねじれごとをしゃべる放心状態、もうどうにもならないのにもっと飲みたいという飢餓状態も描かれています。
「一杯人酒を飲み、二杯酒酒を飲み、三杯酒人を飲む」とは、うまいことを言ったものです。
酒は口から飲むのに、全身にまわって手も足も口も酒が支配し、
手が舞い足が踊り口が歌い出します。
ギリシャの賢人ダイオゼニスは、つがれた酒をすぐ地面にこぼして捨てるので
「惜しいじゃないか。むだにして」ととがめられ、
「それでも酒を飲んで、私と酒の両方をむだにするよりましだ」と言ったと聞きました。
新約聖書は、
「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。
御霊に満たされなさい」 エペソ書5:18
と言っています。神の御霊に満たされて酔え、酒に酔っぱらうなというのです。
しかし、エゴが支配していてはできないことです。
口は賛美の歌うたい
手は喜びの舞いを舞い
足は奉仕の道を行く
人は、陶酔を求めます。神の愛と喜びの中に、最も高貴な陶酔があるのではないでしょうか。
[今日の知恵・明日の知恵」から
2003 09/25 12:53
Category : 日記
Gospelが開かなくなって 更新が出来ませんでした。
先程ようやくログイン可能になり、まとめを書き込みました。Diaryにも同じものをアップします。
礼拝説教 「魂の安らぎ」マタイ11章25〜30節
『そのとき、イエスはこう言われた。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。
これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。
それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと
心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』マタイ11:28〜30
25節 文字通りの意味ではなくて
神の救いについて
・・・・・・・・・・・>幼子たちにあらわされた。
○賢いもの・知恵あるものとは
・・・・・・・・・・・>高ぶっている者、高慢な者。
○幼子とは
・・・・・・・・・・・>謙遜な者
を指しているのです。
・子ども(幼子)は 自分一人では
生きていけないと分かっている。
・両親に依存しきっている。
・自分が弱いということを知っている。
●謙遜な者は、神様なしでは一日たりとも生きていけないと自分の弱さを知っています。
●自分に自信があるものでも 強い、 元気だと思っていても、肉体は弱いものだと覚えるとき、
いのちも また 儚いものであるとわかるのです。
私たちは自覚するしないに関わらず、神の力と恵みに拠り頼んでいないと生きていけない
弱い存在です。
精神面においても人間の心の状態を見る時私達は自分の思い通りにいかない時にどうでしょうか?
○憎しみ、争い、嘘、我侭、愚痴、盗み、不平不満 。
●自分は正しい間違っているのは他の人・・・・・高ぶり、妬み、嫉み、悪口 。
*人間の実情とは自己中心の塊なのです。
正しく、清く生きたいと願っているのに 意に反し、情けなく・惨めなことが分かるのです。
28節でイエスキリストは招いておられます。
求人案内でも、また私達が友人を求めるときも
元気で 明るく やる気があって、優しくて・・・・と願います。
しかし、イエスさまは ”疲れた人、重荷を負っている人は来なさい”と優しく招いて下さっています。
これは、信頼できることばです。この一言が心を捉えて離しません。
●クリスチャンでも試練の中で光りが見えない時、主の十字架の苦しみを思う時、信頼し、任せきっていこう、そう思う時に、心は安らぎで満たされます。
●また私達が幼子のように主に信頼する時、手をしっかり握って離さず、道から外れてしまうとき、疲れ果て立ち止まる時も、またもとの道に引き戻し、共に歩んで下さいます。
●本気でイエスさまを求めるとき、主のお働きを経験させられます。
「 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」
ローマ人への手紙7:19〜21
先程ようやくログイン可能になり、まとめを書き込みました。Diaryにも同じものをアップします。
礼拝説教 「魂の安らぎ」マタイ11章25〜30節
『そのとき、イエスはこう言われた。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。
これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。
それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと
心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』マタイ11:28〜30
25節 文字通りの意味ではなくて
神の救いについて
・・・・・・・・・・・>幼子たちにあらわされた。
○賢いもの・知恵あるものとは
・・・・・・・・・・・>高ぶっている者、高慢な者。
○幼子とは
・・・・・・・・・・・>謙遜な者
を指しているのです。
・子ども(幼子)は 自分一人では
生きていけないと分かっている。
・両親に依存しきっている。
・自分が弱いということを知っている。
●謙遜な者は、神様なしでは一日たりとも生きていけないと自分の弱さを知っています。
●自分に自信があるものでも 強い、 元気だと思っていても、肉体は弱いものだと覚えるとき、
いのちも また 儚いものであるとわかるのです。
私たちは自覚するしないに関わらず、神の力と恵みに拠り頼んでいないと生きていけない
弱い存在です。
精神面においても人間の心の状態を見る時私達は自分の思い通りにいかない時にどうでしょうか?
○憎しみ、争い、嘘、我侭、愚痴、盗み、不平不満 。
●自分は正しい間違っているのは他の人・・・・・高ぶり、妬み、嫉み、悪口 。
*人間の実情とは自己中心の塊なのです。
正しく、清く生きたいと願っているのに 意に反し、情けなく・惨めなことが分かるのです。
28節でイエスキリストは招いておられます。
求人案内でも、また私達が友人を求めるときも
元気で 明るく やる気があって、優しくて・・・・と願います。
しかし、イエスさまは ”疲れた人、重荷を負っている人は来なさい”と優しく招いて下さっています。
これは、信頼できることばです。この一言が心を捉えて離しません。
●クリスチャンでも試練の中で光りが見えない時、主の十字架の苦しみを思う時、信頼し、任せきっていこう、そう思う時に、心は安らぎで満たされます。
●また私達が幼子のように主に信頼する時、手をしっかり握って離さず、道から外れてしまうとき、疲れ果て立ち止まる時も、またもとの道に引き戻し、共に歩んで下さいます。
●本気でイエスさまを求めるとき、主のお働きを経験させられます。
「 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」
ローマ人への手紙7:19〜21
2003 09/23 10:31
Category : 日記
◆神はその愛する方によって私たちを受け入れてくださった。
エペソ人への手紙1:6 英訳
「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、
ほめたたえられるためです。」(新改訳)
なんという特権だろう。これは神の御前における私たちの義認を含むだけではない。
ギリシヤ語の「受け入れる」ということばは、それ以上の意味をもつ。
神の満足の対象であること、否、神の喜びの対象であることをさえ意味する。
私たちは虫であり、死すべき者、罪人である。それなのに神の愛の対象となるとは。
ある信者は、その経験において受け入れられているように見える。
少なくとも、彼らはそう理解している。
たましいが力に満ち、希望に燃える時、神に受け入れられていると思う。
そのような時、自分が高潔であり、聖化され、俗事をはるかに超越しているように感じるからである。
しかし彼らは、ちりあくたのようなものに心ひかれる時、もはや受け入れられていないのではないかと恐れおののく。
けれども彼らが、彼らの崇高な喜びは彼らを高めもせず、失望落胆は彼らを低くするのでもなく、常に完全にして、傷も汚れもない神の愛する御子によってのみ受け入れられていることを知るならば、どれほど幸福に満たされ、また救い主をあがめることであろう。
だから、主にある友よ。喜べ。あなたは「愛する方によって受け入れ」られている。
あなたは心のうちをながめて「受け入れられる何ものもない」と言うであろう。
しかし、キリストを見よ。そこにおいてすべてのものが受け入れられていないか。
あなたの罪はあなたを悩ます。しかしその罪を、神はご自身の後ろに捨てられた。
あなたは義なる方によって受け入れられている。あなたは腐敗と戦い、誘惑と格闘しなければならないが、すでに悪の力を征服した方にあって受け入れられている。
悪魔は誘惑するだろう。しかし、雄々しくあれ。悪魔にはあなたを滅ぼすことはできない。
あなたは、すでにサタンの頭を砕いた方にあって受け入れられている。
あなたの栄光ある地位を確信をもって知れ。
すでに栄化されたたましいは、天国で、「愛する方によって」受け入れられている。
そして全く同様に、あなたはキリストにあって受け入れられている。
By Charles Haddon Spurgeon
主イエス・キリストの父なる神が褒め称えられますように。
天のお父さま、感謝します。
あなた様は世界の基がおかれる前より、私を選び救いの恵みの中に入れようと待っておられました。罪深い私をも赦し 受け入れてくださいました。ありがとうございます。
今朝もう一度この恵を覚え、召しに相応しく、あなたさまの喜ばれる歩みが出来ますように導いてください。ひとこと感謝し、主の御名によって祈ります。アーメン。
エペソ人への手紙1:6 英訳
「それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、
ほめたたえられるためです。」(新改訳)
なんという特権だろう。これは神の御前における私たちの義認を含むだけではない。
ギリシヤ語の「受け入れる」ということばは、それ以上の意味をもつ。
神の満足の対象であること、否、神の喜びの対象であることをさえ意味する。
私たちは虫であり、死すべき者、罪人である。それなのに神の愛の対象となるとは。
ある信者は、その経験において受け入れられているように見える。
少なくとも、彼らはそう理解している。
たましいが力に満ち、希望に燃える時、神に受け入れられていると思う。
そのような時、自分が高潔であり、聖化され、俗事をはるかに超越しているように感じるからである。
しかし彼らは、ちりあくたのようなものに心ひかれる時、もはや受け入れられていないのではないかと恐れおののく。
けれども彼らが、彼らの崇高な喜びは彼らを高めもせず、失望落胆は彼らを低くするのでもなく、常に完全にして、傷も汚れもない神の愛する御子によってのみ受け入れられていることを知るならば、どれほど幸福に満たされ、また救い主をあがめることであろう。
だから、主にある友よ。喜べ。あなたは「愛する方によって受け入れ」られている。
あなたは心のうちをながめて「受け入れられる何ものもない」と言うであろう。
しかし、キリストを見よ。そこにおいてすべてのものが受け入れられていないか。
あなたの罪はあなたを悩ます。しかしその罪を、神はご自身の後ろに捨てられた。
あなたは義なる方によって受け入れられている。あなたは腐敗と戦い、誘惑と格闘しなければならないが、すでに悪の力を征服した方にあって受け入れられている。
悪魔は誘惑するだろう。しかし、雄々しくあれ。悪魔にはあなたを滅ぼすことはできない。
あなたは、すでにサタンの頭を砕いた方にあって受け入れられている。
あなたの栄光ある地位を確信をもって知れ。
すでに栄化されたたましいは、天国で、「愛する方によって」受け入れられている。
そして全く同様に、あなたはキリストにあって受け入れられている。
By Charles Haddon Spurgeon
主イエス・キリストの父なる神が褒め称えられますように。
天のお父さま、感謝します。
あなた様は世界の基がおかれる前より、私を選び救いの恵みの中に入れようと待っておられました。罪深い私をも赦し 受け入れてくださいました。ありがとうございます。
今朝もう一度この恵を覚え、召しに相応しく、あなたさまの喜ばれる歩みが出来ますように導いてください。ひとこと感謝し、主の御名によって祈ります。アーメン。
2003 09/14 09:16
Category : 日記
聖書日課
◆『私は、恵みとさばきを歌いましょう。』 詩篇101:1
信仰は試練に打ち勝つ。
理性が牢獄の奥に押し込まれ、足かせに縛られている時も、信仰は楽しそうに
「私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう」
と叫んで、牢獄の壁を揺り動かす。
信仰は苦悩の顔から黒い仮面を取り除いて、その下にある天使の顔を見いだす。
信仰は雲を見上げて、「あの密雲の中にはあわれみが宿り、やがて祝福の慈雨を降らす」ことを知る。
神の私たちに対するさばきの中にさえ、歌の主題を見ることができる。
なぜなら、第一に、試練は当然あるべきものよりはるかに軽く、次に、患難は私たちが当然担うべきものより苛酷ではなく、そして、私たちの苦痛は他の人が負うべきものほど重くはないからである。
最悪の悲しみの中にあっても、信仰は懲罰を見ない。その中に神の怒りは一滴でも含まれず、すべては神の愛によってもたらされたものである。
怒られる神の御胸に、愛が宝石のように輝いているのを信仰ははっきり認める。
悲しみについて、信仰はこう言う。
「これは誉れのしるしである。なぜなら、子どもこそがむちを受けなければならないからである」と。
そして信仰は、悲しみのもたらすすばらしい結果について歌う。
悲しみこそ、霊的な益をもたらすからである。否、信仰はさらに言う。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」と。
このように、信仰は黒馬にまたがり、征服に征服を重ね、肉の理性と感覚とを踏みにじりつつ、激しい戦いの中にあって勝利の歌を歌う。
私の道で会うすべてのものは
天を目指していく私を助ける
行く道に試みの矢が襲ってきても
主にあるたましいの安きを奪うものはない
『夕ごとに』By Charles Haddon Spurgeon
◆『私は、恵みとさばきを歌いましょう。』 詩篇101:1
信仰は試練に打ち勝つ。
理性が牢獄の奥に押し込まれ、足かせに縛られている時も、信仰は楽しそうに
「私は、恵みとさばきを歌いましょう。主よ。あなたに、ほめ歌を歌いましょう」
と叫んで、牢獄の壁を揺り動かす。
信仰は苦悩の顔から黒い仮面を取り除いて、その下にある天使の顔を見いだす。
信仰は雲を見上げて、「あの密雲の中にはあわれみが宿り、やがて祝福の慈雨を降らす」ことを知る。
神の私たちに対するさばきの中にさえ、歌の主題を見ることができる。
なぜなら、第一に、試練は当然あるべきものよりはるかに軽く、次に、患難は私たちが当然担うべきものより苛酷ではなく、そして、私たちの苦痛は他の人が負うべきものほど重くはないからである。
最悪の悲しみの中にあっても、信仰は懲罰を見ない。その中に神の怒りは一滴でも含まれず、すべては神の愛によってもたらされたものである。
怒られる神の御胸に、愛が宝石のように輝いているのを信仰ははっきり認める。
悲しみについて、信仰はこう言う。
「これは誉れのしるしである。なぜなら、子どもこそがむちを受けなければならないからである」と。
そして信仰は、悲しみのもたらすすばらしい結果について歌う。
悲しみこそ、霊的な益をもたらすからである。否、信仰はさらに言う。
「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」と。
このように、信仰は黒馬にまたがり、征服に征服を重ね、肉の理性と感覚とを踏みにじりつつ、激しい戦いの中にあって勝利の歌を歌う。
私の道で会うすべてのものは
天を目指していく私を助ける
行く道に試みの矢が襲ってきても
主にあるたましいの安きを奪うものはない
『夕ごとに』By Charles Haddon Spurgeon
2003 09/12 23:38
Category : 日記
最近Diaryの内容が ガン・死と暗い偏った話題になっていますが、
そのことが私の心の中を占めているからなのでしょう。
私達は生きている限り、悲しい出来事に遭遇します。
人間関係の悩み、家族の不和、失恋、失業(リストラ)、倒産、病気等等。
数え上げたらキリがありません。
しかし、最も悲しい出来事はなんでしょうか。
それは愛する人の死・別れ だと思います。
疫学調査によれば、愛する人との死別によって
鬱病などの心の病や糖尿病、高血圧、心臓疾患等の生活習慣病、
そして、免疫系機能低下によるガンの多発が認められるのだそうです。
これは想像以上に大きなストレスとなって心に覆いかぶさってきます。
箴言17:22に「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」
このみことばに象徴されるように心と体には相関関係があります。
愛する人との死別は自らの病、死の引き金ににもなり得る訳です。
人は究極の苦しみ、悲しみといった自分の限界状況に追い込まれて初めて
神に目を向けるようになるのではないか、と思うのです。
私自身 神の存在を意識し、信じ救われたのは、自分の罪を「これでもか」というほど示され、絶望し、打ちのめされ、神さま以外に救いはないと確信を頂いたからです。
救いの証は長くなるのでまた別の機会に記すことにしますが。。。。。。
第�Uコリント7:60
「世の悲しみは、死をもたらす」
第�Uコリント7:10
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。」
聖書には 悲しみには二種類あると記されいます。
・この世の悲しみ
・神のみこころに添った悲しみ
前者は「死」に至り、後者は「救い」に至るというのです。
この分岐点になるのが「悔い改め」だと思います。、
私達は もし愛する人が亡くなったならば
・もっと話を聞いてあげれば良かった
・もっと優しく接してあげれば良かった
・もっと看病の為に時間をとってあげれば良かった。
・もっと良い医療を、もっと十分な看護をしてあげれば良かった
もっと、もっと・・・・・・という亡くなった人に対する罪責感を持つのではないでしょうか。
どんなに最善を尽くしたと思っても、この想いは避けられないと思うのです。
つまり、人は最愛の人を失うことによって初めて自分がいかに愛が足りない者であり、
不完全で限界がある存在であるかということに気が付くのだと思います。
罪に対する、この自覚と反省・・・・・神の前で悔い改めに導かれるきっかけになる、と。
いつまでも悲しみを引きずり、その罪責感にとらわれ過去にばかり目を向けていては
いけないと、理屈は解かっていても なかなか逃れられない
というのが本当のところだと思います。
私達は愛する人を失って悲しみを完全に拭い去ることは出来ないとしても
その重荷を担って下さり、共に歩んで下さる イエスさまが居られるのですから。
重荷を主のもとに全て委ねてしまえばいいのです。
まだ、神さまを知らない人々は、まず、神さまを知る必要がありますね。
主よ感謝いたします。
今 悲しみ、お苦しみの中にある方々を覚えます。
どうぞ主がお一人お一人を行き巡って下さり、慰めと励ましをお与えください。
また、心を探って下さって、自分の罪に気が付くことがことが出来ますように。
本当の神を知らない方々が、神の存在を知り、神に出会うことが出来ますように。
愛なる主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン
そのことが私の心の中を占めているからなのでしょう。
私達は生きている限り、悲しい出来事に遭遇します。
人間関係の悩み、家族の不和、失恋、失業(リストラ)、倒産、病気等等。
数え上げたらキリがありません。
しかし、最も悲しい出来事はなんでしょうか。
それは愛する人の死・別れ だと思います。
疫学調査によれば、愛する人との死別によって
鬱病などの心の病や糖尿病、高血圧、心臓疾患等の生活習慣病、
そして、免疫系機能低下によるガンの多発が認められるのだそうです。
これは想像以上に大きなストレスとなって心に覆いかぶさってきます。
箴言17:22に「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす」
このみことばに象徴されるように心と体には相関関係があります。
愛する人との死別は自らの病、死の引き金ににもなり得る訳です。
人は究極の苦しみ、悲しみといった自分の限界状況に追い込まれて初めて
神に目を向けるようになるのではないか、と思うのです。
私自身 神の存在を意識し、信じ救われたのは、自分の罪を「これでもか」というほど示され、絶望し、打ちのめされ、神さま以外に救いはないと確信を頂いたからです。
救いの証は長くなるのでまた別の機会に記すことにしますが。。。。。。
第�Uコリント7:60
「世の悲しみは、死をもたらす」
第�Uコリント7:10
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせます。」
聖書には 悲しみには二種類あると記されいます。
・この世の悲しみ
・神のみこころに添った悲しみ
前者は「死」に至り、後者は「救い」に至るというのです。
この分岐点になるのが「悔い改め」だと思います。、
私達は もし愛する人が亡くなったならば
・もっと話を聞いてあげれば良かった
・もっと優しく接してあげれば良かった
・もっと看病の為に時間をとってあげれば良かった。
・もっと良い医療を、もっと十分な看護をしてあげれば良かった
もっと、もっと・・・・・・という亡くなった人に対する罪責感を持つのではないでしょうか。
どんなに最善を尽くしたと思っても、この想いは避けられないと思うのです。
つまり、人は最愛の人を失うことによって初めて自分がいかに愛が足りない者であり、
不完全で限界がある存在であるかということに気が付くのだと思います。
罪に対する、この自覚と反省・・・・・神の前で悔い改めに導かれるきっかけになる、と。
いつまでも悲しみを引きずり、その罪責感にとらわれ過去にばかり目を向けていては
いけないと、理屈は解かっていても なかなか逃れられない
というのが本当のところだと思います。
私達は愛する人を失って悲しみを完全に拭い去ることは出来ないとしても
その重荷を担って下さり、共に歩んで下さる イエスさまが居られるのですから。
重荷を主のもとに全て委ねてしまえばいいのです。
まだ、神さまを知らない人々は、まず、神さまを知る必要がありますね。
主よ感謝いたします。
今 悲しみ、お苦しみの中にある方々を覚えます。
どうぞ主がお一人お一人を行き巡って下さり、慰めと励ましをお与えください。
また、心を探って下さって、自分の罪に気が付くことがことが出来ますように。
本当の神を知らない方々が、神の存在を知り、神に出会うことが出来ますように。
愛なる主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン
2003 09/12 22:39
Category : 日記
『 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
そこで彼らはイエスに言った。
「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
イエスは言われた。
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
ヨハネの福音書6章33節〜
今、C.Frank 作曲の 「天使のパン」を聞いています。
上記聖書の箇所をもとに書いたといわれている曲です。
CDから流れるチェロとピアノによる讃美は、心を穏やかにし、かさついた心を潤いで満たしてくれます。
「このパンは人類のために天国から下る真実のパンである。
この天からの贈りものは ”永遠のいのち”を与える。」
イエス・キリストは魂の成長のため、ご自分をパンに喩えられました。
私達がこの天国のパンを食べるなら・・・・・・・
すなわちイエス・キリストを信じて受け入れるなら
私達に次に揚げる2つのことが約束されると聖書は教えます。
1.神さまと共に生きる 永遠のいのちがあたえられる。
2.わたしたちが 地上に生活をしている間中 イエスさまが
その必要を完全に知り、全ての必要を満たして下さる。
アーメン
2003/ 9/11/ 00:47 記
そこで彼らはイエスに言った。
「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
イエスは言われた。
「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、
わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
わたしはいのちのパンです。
あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。
しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
ヨハネの福音書6章33節〜
今、C.Frank 作曲の 「天使のパン」を聞いています。
上記聖書の箇所をもとに書いたといわれている曲です。
CDから流れるチェロとピアノによる讃美は、心を穏やかにし、かさついた心を潤いで満たしてくれます。
「このパンは人類のために天国から下る真実のパンである。
この天からの贈りものは ”永遠のいのち”を与える。」
イエス・キリストは魂の成長のため、ご自分をパンに喩えられました。
私達がこの天国のパンを食べるなら・・・・・・・
すなわちイエス・キリストを信じて受け入れるなら
私達に次に揚げる2つのことが約束されると聖書は教えます。
1.神さまと共に生きる 永遠のいのちがあたえられる。
2.わたしたちが 地上に生活をしている間中 イエスさまが
その必要を完全に知り、全ての必要を満たして下さる。
アーメン
2003/ 9/11/ 00:47 記
2003 09/08 20:05
Category : 日記
聖書日課”朝ごとに”より.....スポルジョン著
◆「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、
また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、
苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
ピリピ人への手紙2:15・16
私たちは物を明白にするために光を用いる。
クリスチャンはこの世において光り輝き、一週間も相手と共にいるならば、必ず福音を知らせるというようでなければならない。
彼の会話は、それを聞く者のすべてが、彼はだれのものであり、だれに仕えているかを明確に知り得るものでなければならない。
また日々の行動には、イエスの御姿が反映していなければならない。
光は導くためにある。私たちは暗黒にいる周囲の人を助けなければならない。
彼らにいのちのことばを伝えなければならない。
罪人に救い主を指し示し、疲れた者に聖なる安息所を教えなければならない。
人々は聖書を読みながらも、その意味を理解できない場合がある。
ピリポのように、私たちは問う者に対して、いつでも神のみことばの意味と救いの道と信仰生活の何たるかを答える準備ができていなければならない。
光はまた警告のために用いられる。岩の多い所や浅瀬には必ず灯台が建てられている。
クリスチャンは、この世の至る所に多くの偽りの光が輝いていることを知るべきである。
したがって、正しい光が必要である。サタンの配下は、常に諸方を巡り、不信仰な者を快楽の名のもとに罪に誘惑している。偽りの光を掲げている。
私たちは、すべての危険な岩に真の光を掲げ、あらゆる罪の一つ一つを指摘し、その結果がどれほど恐ろしいかを告げ、すべての人の血に対して責任のない者となり、世の光となって輝かなければならない。
光はまた人を非常に力づける。クリスチャンもそうである。口には親切なことばをもち、心には同情を抱いて人を慰める者でありたい。
行く所に光をもたらし、周囲に幸いをまき散らさなければならない。
恵みの御霊なる主よ。私に宿ってください
そうすれば、私も恵みに進み
人を助け、いやすことばをもって
あなたのいのちを内に現し
雄々しく、柔和な行いで
救い主キリストを証しします
◆「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、
また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。
そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、
苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」
ピリピ人への手紙2:15・16
私たちは物を明白にするために光を用いる。
クリスチャンはこの世において光り輝き、一週間も相手と共にいるならば、必ず福音を知らせるというようでなければならない。
彼の会話は、それを聞く者のすべてが、彼はだれのものであり、だれに仕えているかを明確に知り得るものでなければならない。
また日々の行動には、イエスの御姿が反映していなければならない。
光は導くためにある。私たちは暗黒にいる周囲の人を助けなければならない。
彼らにいのちのことばを伝えなければならない。
罪人に救い主を指し示し、疲れた者に聖なる安息所を教えなければならない。
人々は聖書を読みながらも、その意味を理解できない場合がある。
ピリポのように、私たちは問う者に対して、いつでも神のみことばの意味と救いの道と信仰生活の何たるかを答える準備ができていなければならない。
光はまた警告のために用いられる。岩の多い所や浅瀬には必ず灯台が建てられている。
クリスチャンは、この世の至る所に多くの偽りの光が輝いていることを知るべきである。
したがって、正しい光が必要である。サタンの配下は、常に諸方を巡り、不信仰な者を快楽の名のもとに罪に誘惑している。偽りの光を掲げている。
私たちは、すべての危険な岩に真の光を掲げ、あらゆる罪の一つ一つを指摘し、その結果がどれほど恐ろしいかを告げ、すべての人の血に対して責任のない者となり、世の光となって輝かなければならない。
光はまた人を非常に力づける。クリスチャンもそうである。口には親切なことばをもち、心には同情を抱いて人を慰める者でありたい。
行く所に光をもたらし、周囲に幸いをまき散らさなければならない。
恵みの御霊なる主よ。私に宿ってください
そうすれば、私も恵みに進み
人を助け、いやすことばをもって
あなたのいのちを内に現し
雄々しく、柔和な行いで
救い主キリストを証しします
2003 09/04 18:21
Category : 日記
--+ 不死鳥 +--
死ぬることをおもえば
死ぬことはひかってみえる
かるげである
ひかりのなかに 命あるものが
ちさくうごくようにおもわれる
++ 八木 重吉 ++
この病をとおし、漠然と思い描いていた”死”について、最も身近に、また真剣に向き合い、
今まで生きてきた48年の人生を振り返る時となりました。
クリスチャンは 救われた時にすでに主の十字架の贖いによって罪赦され、「永遠のいのち」を頂いている という約束、「天のみくに」への希望があります。
ですから、死への恐れは 一般の方より少ないかもしれません。
八木重吉さんの詩を、読みながら、死期の迫った彼が どのような気持ちでこの詩を綴ったのだろうかと・・・・・以前読んだときには 知りえなかった想いが もう少し深いところまで知り得たような気がしています。
愛する妻と二人の可愛い子ども達に恵まれ家庭生活は恵みに満ちていたことでしょう。
しかし、思いもよらぬ結核に倒れ、家族から離れ一人療養生活に入ります。
死を目前にしてこれほどまでに穏やかに死を見つめている。この詩から伝わってきます。
彼を慰め、励まし希望を与えていたのはインマヌエルの主イエス・キリストにほかなりません。
29歳という若さで天に逝った・・・・重吉氏は果たしてこの世に全く未練が残らなかったのだろうかと思うとき、いや、そんなことはないだろう。クリスチャンといえどもこの世にまだまだ思いは残ったであろうと思うのです。
主の御心であれば・・・・神さまの時であれば従います。私にもそういう思いは確かにあります。
しかし相反する思いがあることも否定できないのです。
死ぬることをおもえば
死ぬことはひかってみえる
かるげである
ひかりのなかに 命あるものが
ちさくうごくようにおもわれる
++ 八木 重吉 ++
この病をとおし、漠然と思い描いていた”死”について、最も身近に、また真剣に向き合い、
今まで生きてきた48年の人生を振り返る時となりました。
クリスチャンは 救われた時にすでに主の十字架の贖いによって罪赦され、「永遠のいのち」を頂いている という約束、「天のみくに」への希望があります。
ですから、死への恐れは 一般の方より少ないかもしれません。
八木重吉さんの詩を、読みながら、死期の迫った彼が どのような気持ちでこの詩を綴ったのだろうかと・・・・・以前読んだときには 知りえなかった想いが もう少し深いところまで知り得たような気がしています。
愛する妻と二人の可愛い子ども達に恵まれ家庭生活は恵みに満ちていたことでしょう。
しかし、思いもよらぬ結核に倒れ、家族から離れ一人療養生活に入ります。
死を目前にしてこれほどまでに穏やかに死を見つめている。この詩から伝わってきます。
彼を慰め、励まし希望を与えていたのはインマヌエルの主イエス・キリストにほかなりません。
29歳という若さで天に逝った・・・・重吉氏は果たしてこの世に全く未練が残らなかったのだろうかと思うとき、いや、そんなことはないだろう。クリスチャンといえどもこの世にまだまだ思いは残ったであろうと思うのです。
主の御心であれば・・・・神さまの時であれば従います。私にもそういう思いは確かにあります。
しかし相反する思いがあることも否定できないのです。