2003年10月の記事
2003 10/29 22:05
Category : 日記
◆しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
ルカの福音書 24章16節
弟子たちは、イエスを当然知っていなければならなかった。
彼らは絶えず主の御声を聞き、御顔を見ていたのに、主を見分けることができなかったとは、
むしろ不思議である。
しかし、あなたも同様ではないか。
あなたは近ごろ、主に会っていない。あなたは主の食卓に列しながら主にお会いしていない。
今夜あなたは暗黒の苦悩のうちにあり、主がはっきりと、
「わたしだ。恐れることはない」
と告げられるのに、あなたは主を見分けることができない。
私たちの目はさえぎられている。主の御声を知り、御顔を眺め、自分の頭を主の胸にもたせかけてきた。
しかし、キリストがすぐ近くにおられるのに、
「主がどこにおられるかを知ることができたなら」と言っている。
私たちはイエスを知るべきである。私たちは主の御姿を示す聖書を愛している。
しかしそれを開きながら、自分の愛する主を一目見ることさえできないとは、どういうことか。
愛する神の子たちよ。あなたはこのような状態にいるか。
イエスはみことばのゆりの中におられる。
あなたはそのゆりの中を歩きながらも、主を見つけることをしない。
主は常に聖書の中を歩み、そよ風の吹くころ、御父がアダムと交わられたように、その民と交わられる。
あなたは聖書の園の中におり、主が常にそこにおられるのに、あなたは主を見ることができない。
なぜ私たちは、主を見ないのか。-----不信仰のゆえである。
弟子たちは、明らかに、イエスにお目にかかることを期待していなかった。
そのため、彼らはイエスであることがわからなかった。
私たちにイエスを見ることができるようにさせるのは、信仰のみである。
「私の目を開いて、私と共におられる救い主を見させてください。」
これをあなたの祈りとせよ。主にお目にかかることを願うのは幸いである。
しかし、主を見つめることは、はるかにまさる。
ご自分を求める者に対して、主は親切であられる。
しかし主を見いだした者には、主は表現できないほど親愛なお方である。
By Charles Haddon Spurgeon
ルカの福音書 24章16節
弟子たちは、イエスを当然知っていなければならなかった。
彼らは絶えず主の御声を聞き、御顔を見ていたのに、主を見分けることができなかったとは、
むしろ不思議である。
しかし、あなたも同様ではないか。
あなたは近ごろ、主に会っていない。あなたは主の食卓に列しながら主にお会いしていない。
今夜あなたは暗黒の苦悩のうちにあり、主がはっきりと、
「わたしだ。恐れることはない」
と告げられるのに、あなたは主を見分けることができない。
私たちの目はさえぎられている。主の御声を知り、御顔を眺め、自分の頭を主の胸にもたせかけてきた。
しかし、キリストがすぐ近くにおられるのに、
「主がどこにおられるかを知ることができたなら」と言っている。
私たちはイエスを知るべきである。私たちは主の御姿を示す聖書を愛している。
しかしそれを開きながら、自分の愛する主を一目見ることさえできないとは、どういうことか。
愛する神の子たちよ。あなたはこのような状態にいるか。
イエスはみことばのゆりの中におられる。
あなたはそのゆりの中を歩きながらも、主を見つけることをしない。
主は常に聖書の中を歩み、そよ風の吹くころ、御父がアダムと交わられたように、その民と交わられる。
あなたは聖書の園の中におり、主が常にそこにおられるのに、あなたは主を見ることができない。
なぜ私たちは、主を見ないのか。-----不信仰のゆえである。
弟子たちは、明らかに、イエスにお目にかかることを期待していなかった。
そのため、彼らはイエスであることがわからなかった。
私たちにイエスを見ることができるようにさせるのは、信仰のみである。
「私の目を開いて、私と共におられる救い主を見させてください。」
これをあなたの祈りとせよ。主にお目にかかることを願うのは幸いである。
しかし、主を見つめることは、はるかにまさる。
ご自分を求める者に対して、主は親切であられる。
しかし主を見いだした者には、主は表現できないほど親愛なお方である。
By Charles Haddon Spurgeon
2003 10/28 00:52
Category : 日記
聖書日課
◆『ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、
それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。』 ルツ記2章3節
彼女の運は開けた。
しかり、それは偶然のように見えるが、実は神が支配しておられたのである。
ルツは母の祝福を受け、母の神の保護のもとで、つつましいが立派な仕事に出かけた。
神の摂理はルツを一歩一歩導いた。
彼女は麦束の間で夫を見いだし、夫とともに広大な土地の所有者となったが、自分のようなあわれな外国人が、偉大なるメシヤの先祖の一人になろうとは、夢にも思わなかった。
神はご自身に信頼する人々に恵みを与え、しばしば予期しない祝福をもって、彼らを驚かされる。
明日何が起こるか、私たちはほとんど知らない。しかし、神が良いものを控えられないというすばらしい事実は、私たちを励ます。
クリスチャンの信仰の立場からは、偶然ということは存在しない。
彼らはすべてのことにおいて、神の御手を見るからである。今日、明日の小さな出来事が、非常に重大な結果を含んでいるかもしれない。
主よ。ルツを扱われたように、あなたのしもべをも深く恵んでください。
今夜、私たちが黙想の畑にさまよう時、最も血縁の近いお方がご自身を私たちに現してくださる場所に行き当たるとすれば、なんという祝福であろう。
おお、御霊なる主よ。私たちを主に導いてください。
私たちは、他の畑の全収穫をもらうよりも、むしろ主の畑で落ち穂を拾いたい。
おお、主の群れの歩みよ。それは主がお住みになる緑の牧場に私たちを導く!
イエスがおられない時、この世は耐えがたい。
主を失うくらいなら、むしろ太陽や月なしにやってゆくほうがましである。
しかし主が臨在される時、すべてが神の栄光に照り輝く。
私たちのたましいは、イエスのうちに宿る徳を知る。
それゆえ、主がなければ決して満足することができない。
今夜私たちは、イエスのものである畑に行って、私たちにご自身を現されるまで、祈りつつ待ちたい。
『夕ごとに』By Charles Haddon Spurgeon
◆『ルツは出かけて行って、刈る人たちのあとについて、畑で落ち穂を拾い集めたが、
それは、はからずもエリメレクの一族に属するボアズの畑のうちであった。』 ルツ記2章3節
彼女の運は開けた。
しかり、それは偶然のように見えるが、実は神が支配しておられたのである。
ルツは母の祝福を受け、母の神の保護のもとで、つつましいが立派な仕事に出かけた。
神の摂理はルツを一歩一歩導いた。
彼女は麦束の間で夫を見いだし、夫とともに広大な土地の所有者となったが、自分のようなあわれな外国人が、偉大なるメシヤの先祖の一人になろうとは、夢にも思わなかった。
神はご自身に信頼する人々に恵みを与え、しばしば予期しない祝福をもって、彼らを驚かされる。
明日何が起こるか、私たちはほとんど知らない。しかし、神が良いものを控えられないというすばらしい事実は、私たちを励ます。
クリスチャンの信仰の立場からは、偶然ということは存在しない。
彼らはすべてのことにおいて、神の御手を見るからである。今日、明日の小さな出来事が、非常に重大な結果を含んでいるかもしれない。
主よ。ルツを扱われたように、あなたのしもべをも深く恵んでください。
今夜、私たちが黙想の畑にさまよう時、最も血縁の近いお方がご自身を私たちに現してくださる場所に行き当たるとすれば、なんという祝福であろう。
おお、御霊なる主よ。私たちを主に導いてください。
私たちは、他の畑の全収穫をもらうよりも、むしろ主の畑で落ち穂を拾いたい。
おお、主の群れの歩みよ。それは主がお住みになる緑の牧場に私たちを導く!
イエスがおられない時、この世は耐えがたい。
主を失うくらいなら、むしろ太陽や月なしにやってゆくほうがましである。
しかし主が臨在される時、すべてが神の栄光に照り輝く。
私たちのたましいは、イエスのうちに宿る徳を知る。
それゆえ、主がなければ決して満足することができない。
今夜私たちは、イエスのものである畑に行って、私たちにご自身を現されるまで、祈りつつ待ちたい。
『夕ごとに』By Charles Haddon Spurgeon
2003 10/25 23:31
Category : 日記
昨日は病院の帰りに、市民プラザに立ち寄り 現在開催中の (10/18〜10/26)
「星野富広詩画展」に行ってきました。
ちょうどお昼休み時間帯ということもあり、それ程の混雑もなくて 本当にゆっくり、心ゆくまで鑑賞できました。
原画を目の当たりにするのは初めてでしたが、
思っていたより、作品のサイズが大きくて驚かされました。
やはり、原画は素晴らしく、とても温かくて、じんわりと伝わってくるぬくもりがありました。
絵筆を口にくわえて描いたとは思えない伸びやかなタッチ。圧巻でした
全部で100枚の原画を展示ということでしたが
初期の「鈴の鳴る道」からは数点、サインペンで描かれたモノクロ作品集『速さのちがう時計』、風の旅からと、約半数は最近の詩画集「あなたのてのひら」に掲載された作品でした。
私の好きな・・・結婚指輪と題した「がくあじさい」はリトグラフの作品だったのですね。
水彩画とばかり思っていましたから、へぇーという感じでした。
パステル調の淡いピンクとブルーのアジサイが互いに寄り添って描かれてあり、奥様のやさしさ、夫婦愛が伝わってきます。
初期の作品、大好きな「ぺんぺん草」も 原画を見ることができて感動でした。やっぱり素晴らしい。
星野さんの作品からは、神さまの愛と憐れみがひたひたと伝わってきます。
初めて目にする作品もたくさんありましたが、印象に残った作品として「ひまわりの種」。
最初は 小さな種だった
ふりそそぐ神の恵みを
受けとめるだけで
喜びに溢れていた
渇ききった 一粒のいのちだった
心、潤され、『あなたの手のひら』と絵葉書を買って帰りました。
「星野富広詩画展」に行ってきました。
ちょうどお昼休み時間帯ということもあり、それ程の混雑もなくて 本当にゆっくり、心ゆくまで鑑賞できました。
原画を目の当たりにするのは初めてでしたが、
思っていたより、作品のサイズが大きくて驚かされました。
やはり、原画は素晴らしく、とても温かくて、じんわりと伝わってくるぬくもりがありました。
絵筆を口にくわえて描いたとは思えない伸びやかなタッチ。圧巻でした
全部で100枚の原画を展示ということでしたが
初期の「鈴の鳴る道」からは数点、サインペンで描かれたモノクロ作品集『速さのちがう時計』、風の旅からと、約半数は最近の詩画集「あなたのてのひら」に掲載された作品でした。
私の好きな・・・結婚指輪と題した「がくあじさい」はリトグラフの作品だったのですね。
水彩画とばかり思っていましたから、へぇーという感じでした。
パステル調の淡いピンクとブルーのアジサイが互いに寄り添って描かれてあり、奥様のやさしさ、夫婦愛が伝わってきます。
初期の作品、大好きな「ぺんぺん草」も 原画を見ることができて感動でした。やっぱり素晴らしい。
星野さんの作品からは、神さまの愛と憐れみがひたひたと伝わってきます。
初めて目にする作品もたくさんありましたが、印象に残った作品として「ひまわりの種」。
最初は 小さな種だった
ふりそそぐ神の恵みを
受けとめるだけで
喜びに溢れていた
渇ききった 一粒のいのちだった
心、潤され、『あなたの手のひら』と絵葉書を買って帰りました。
2003 10/25 21:45
Category : 日記
聖書日課”朝ごとに”より.....スポルジョン著
◆[ 主の木々は樹液に満ちています。] 詩篇104:16 英訳
『主の木々は満ち足りています。主の植えたレバノンの杉の木も。』 新改訳聖書
樹液なくして木は栄えることも存在することもできない。
活力はクリスチャンに欠くことのできないものである。
そこにいのちがなければならない。
聖霊なる神に注ぎ込まれた生気がなければならない。
そうでないと私たちは主の木となることはできない。
単なる名ばかりのクリスチャンは死んだものにすぎない。
私たちは神のいのちに満たされていなければならない。このいのちは神秘である。
私たちは樹液の循環を理解できない。すなわち、どのような力によって樹液が上り、
どのような力でそれが再び下がるかを知ることができない。
そのように、私たちのうちにあるいのちも聖なる奥義である。
聖霊が人の中に入り、その人のいのちとなることによって新生がもたらされる。
そしてこの信者の中にある神のいのちはキリストの肉と血とを食し、
神の食物で養われるが、それがどこから来て、またどこへ行くのかはだれにも説明できない。
樹液はいかに神秘であろう。
根は地中にはびこり、先端の小さな海綿状組織によって養分をとるが、私たちはその過程を見ることはできない。この作用は暗い地下でなされる。
私たちの根は主イエスであり、私たちのいのちは主のうちに隠されている。
クリスチャンの生命の根は生命そのものと同様に隠れたものである。
杉の木の中の樹液は長く活気を失わない。
クリスチャンにおいても、神のいのちは内にあって常に活気に満ちている。
常に実を結ぶとは限らないが、内部にあって活動している。
信者の徳は、その一つ一つが常に動いているのではない。
しかし、いのちは内にあって片時たりとも脈を打つことをやめない。
彼は常に神のために働いているのではない。
しかしその心は常に神によって生きている。
樹液が葉や実において現されるように、真に健全な信者は、
その徳をその歩みと日常の会話において表す。
もし語るなら、イエスを語らずにはいないだろう。
その行動に注意するならば、私たちは彼がイエスと共にいることを知るであろう。
内なる樹液がその行動と日常の会話に流れ出ないわけにはいかないからである。
◆[ 主の木々は樹液に満ちています。] 詩篇104:16 英訳
『主の木々は満ち足りています。主の植えたレバノンの杉の木も。』 新改訳聖書
樹液なくして木は栄えることも存在することもできない。
活力はクリスチャンに欠くことのできないものである。
そこにいのちがなければならない。
聖霊なる神に注ぎ込まれた生気がなければならない。
そうでないと私たちは主の木となることはできない。
単なる名ばかりのクリスチャンは死んだものにすぎない。
私たちは神のいのちに満たされていなければならない。このいのちは神秘である。
私たちは樹液の循環を理解できない。すなわち、どのような力によって樹液が上り、
どのような力でそれが再び下がるかを知ることができない。
そのように、私たちのうちにあるいのちも聖なる奥義である。
聖霊が人の中に入り、その人のいのちとなることによって新生がもたらされる。
そしてこの信者の中にある神のいのちはキリストの肉と血とを食し、
神の食物で養われるが、それがどこから来て、またどこへ行くのかはだれにも説明できない。
樹液はいかに神秘であろう。
根は地中にはびこり、先端の小さな海綿状組織によって養分をとるが、私たちはその過程を見ることはできない。この作用は暗い地下でなされる。
私たちの根は主イエスであり、私たちのいのちは主のうちに隠されている。
クリスチャンの生命の根は生命そのものと同様に隠れたものである。
杉の木の中の樹液は長く活気を失わない。
クリスチャンにおいても、神のいのちは内にあって常に活気に満ちている。
常に実を結ぶとは限らないが、内部にあって活動している。
信者の徳は、その一つ一つが常に動いているのではない。
しかし、いのちは内にあって片時たりとも脈を打つことをやめない。
彼は常に神のために働いているのではない。
しかしその心は常に神によって生きている。
樹液が葉や実において現されるように、真に健全な信者は、
その徳をその歩みと日常の会話において表す。
もし語るなら、イエスを語らずにはいないだろう。
その行動に注意するならば、私たちは彼がイエスと共にいることを知るであろう。
内なる樹液がその行動と日常の会話に流れ出ないわけにはいかないからである。
2003 10/21 08:21
Category : 日記
◆自分自身のコントロール
[ 自分の心を制することができない人は、
城壁のない、打ちこわされた町のようだ。]箴言25:28
あなたは、自分の心をコントロールできますか。
意志の力が強く、自分で自分がうまくコントロールできているように見える人もいます。
しかしたいていの場合、より強い欲望が、他の欲望を抑えているにすぎません。
・なぜ盗まないか。
・なぜ暴力をふるわないか。
・なぜ下品なことば遣いをしないか。
・なぜ乱暴しないか。
---その理由は、人に分かったり、見られたりしたら、恥ずかしいということです。
メンツがつぶれて、笑われ、侮辱され、仲間はずれにされることを恐れるからです。
人は恥を知る動物として、このみえを張ったりメンツを立てようとする欲望が、他のもっと程度の低い動物的即物的欲望を抑えているのです。
しかし、これは結局、みにくいエゴの奴隷的圧制です。そこには、自由も平安も喜びもないでしょう。
しかし聖書は、「神を恐れる」ことを教えます。
自分の全体を生かしコントロールしている神を、神として心から尊敬し恐れかしこむ、つまり、神のコントロールの中に身をゆだねる時、清らかな新しい意味の自己コントロールができるでしょう。
さらに聖書は、心の王座に神を迎えるという方面から、このことを教えます。キリストが心の王座に座り、自我が喜んで服従する時、キリストの愛が私の愛となり、キリストの力が私の力になるのです。
パウロは、
「もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2:20
「私の中に住みたもうキリスト、これこそ栄光の望みです」
コロサイ1:27 と言いました。
[今日の知恵・明日の知恵」から
天のお父さま、御名を讃美します。
今日もあなたさまの恵によって生かされ、今日を与えられていることを感謝します。
箴言からの みことばに照らし、自分の心を探る時、神を恐れることを忘れ、感情、気分に流されることの多い弱い者であることを思います。
今朝。もう一度そのことを示されました。ありがとうございます。
いつも、私のすべてをご存知で、共におられる主さまを覚え、罪ゆるされた者に相応しく歩むことが出来ますように、整え導いてください。
われらの主、イエス・キリストのみなによって祈ります。 アーメン
[ 自分の心を制することができない人は、
城壁のない、打ちこわされた町のようだ。]箴言25:28
あなたは、自分の心をコントロールできますか。
意志の力が強く、自分で自分がうまくコントロールできているように見える人もいます。
しかしたいていの場合、より強い欲望が、他の欲望を抑えているにすぎません。
・なぜ盗まないか。
・なぜ暴力をふるわないか。
・なぜ下品なことば遣いをしないか。
・なぜ乱暴しないか。
---その理由は、人に分かったり、見られたりしたら、恥ずかしいということです。
メンツがつぶれて、笑われ、侮辱され、仲間はずれにされることを恐れるからです。
人は恥を知る動物として、このみえを張ったりメンツを立てようとする欲望が、他のもっと程度の低い動物的即物的欲望を抑えているのです。
しかし、これは結局、みにくいエゴの奴隷的圧制です。そこには、自由も平安も喜びもないでしょう。
しかし聖書は、「神を恐れる」ことを教えます。
自分の全体を生かしコントロールしている神を、神として心から尊敬し恐れかしこむ、つまり、神のコントロールの中に身をゆだねる時、清らかな新しい意味の自己コントロールができるでしょう。
さらに聖書は、心の王座に神を迎えるという方面から、このことを教えます。キリストが心の王座に座り、自我が喜んで服従する時、キリストの愛が私の愛となり、キリストの力が私の力になるのです。
パウロは、
「もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2:20
「私の中に住みたもうキリスト、これこそ栄光の望みです」
コロサイ1:27 と言いました。
[今日の知恵・明日の知恵」から
天のお父さま、御名を讃美します。
今日もあなたさまの恵によって生かされ、今日を与えられていることを感謝します。
箴言からの みことばに照らし、自分の心を探る時、神を恐れることを忘れ、感情、気分に流されることの多い弱い者であることを思います。
今朝。もう一度そのことを示されました。ありがとうございます。
いつも、私のすべてをご存知で、共におられる主さまを覚え、罪ゆるされた者に相応しく歩むことが出来ますように、整え導いてください。
われらの主、イエス・キリストのみなによって祈ります。 アーメン
2003 10/17 21:28
Category : 日記
箴言から 聖書日課
◆憎い隣人をどうするか
『もしあなたを憎む者が、飢えているなら、パンを食べさせ
渇いているなら、水を飲ませよ。
あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、
主があなたに報いてくださる。』
(箴言25章21〜22節)
イエス・キリストはすばらしい、聖書はすばらしい、「なんじの敵を愛せよ」
と教えていると、簡単に予期してはなりません。
この高い倫理に、足をつけなければならないとお考えになりませんか。
パウロは、こう語りました。
●「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:20〜21)。
●また出エジプト記23章5節には、このようなおきてが記されています。
「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、
それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」
この二か所を参照してみると、二つのことを教えられます。
憎しみの気持ちは、なかなか自分でどうにもできません。ところが、神はこう言われます。
■第一に、神が命令されたとおりに、感情に押し流されずに感情に反しても、善を行えというのです。
悪に負けてはいけません。人の問題ではなく、今や、あなた自身の魂の問題なのです。
・やりたくなくてもやりなさい。
・あいさつしない人にあいさつしなさい。
・分け与えない人に分け与えなさいというのです。
その時、神は力をかしてくださるでしょう。
■第二に、自分の力で報いや解決をつかもうとしたり、自分の目の前でそれらを見ようとするな。
完全に神にゆだねよ。神が報いてくださるというのです。
これもまた、現実的な指針ではないでしょうか。
自分の気持ちを自分でどうにかするのではなく、神のご命令に従うことにこそ、真実の解決があります。
[今日の知恵・明日の知恵」から
◆憎い隣人をどうするか
『もしあなたを憎む者が、飢えているなら、パンを食べさせ
渇いているなら、水を飲ませよ。
あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、
主があなたに報いてくださる。』
(箴言25章21〜22節)
イエス・キリストはすばらしい、聖書はすばらしい、「なんじの敵を愛せよ」
と教えていると、簡単に予期してはなりません。
この高い倫理に、足をつけなければならないとお考えになりませんか。
パウロは、こう語りました。
●「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。
そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:20〜21)。
●また出エジプト記23章5節には、このようなおきてが記されています。
「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、
それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」
この二か所を参照してみると、二つのことを教えられます。
憎しみの気持ちは、なかなか自分でどうにもできません。ところが、神はこう言われます。
■第一に、神が命令されたとおりに、感情に押し流されずに感情に反しても、善を行えというのです。
悪に負けてはいけません。人の問題ではなく、今や、あなた自身の魂の問題なのです。
・やりたくなくてもやりなさい。
・あいさつしない人にあいさつしなさい。
・分け与えない人に分け与えなさいというのです。
その時、神は力をかしてくださるでしょう。
■第二に、自分の力で報いや解決をつかもうとしたり、自分の目の前でそれらを見ようとするな。
完全に神にゆだねよ。神が報いてくださるというのです。
これもまた、現実的な指針ではないでしょうか。
自分の気持ちを自分でどうにかするのではなく、神のご命令に従うことにこそ、真実の解決があります。
[今日の知恵・明日の知恵」から
2003 10/15 08:22
Category : 日記
聖書日課”朝ごとに”より.....スポルジョン著
◆[ だれが、この方の来られる日に耐えられよう。](マラキ3:2)
主が初めて来られた時に、外に現れる華やかさや力の誇示はなかった。
しかし、それにもかかわらず、そのテストの力に耐えることのできた者はほとんどいなかった。
ヘロデとエルサレム中の人々は驚くべき誕生の知らせを聞いて動揺した。
主を待ち望んでいると思われた者たちは、実際に来られた主を拒否し、自分たちの告白が偽りであったことを暴露した。
主の地上におけるご生涯は、ふるい分ける箕であって、多くの宗教上の告白をふるい分けた。
それに耐えることのできた者はほとんどいなかった。
しかし、主が再臨される時はどうだろう。それを考えてみることさえ、罪人は耐えられない。
「(主は)口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」
・主が「それはわたしです」と言われただけなのに、兵士たちは地に倒れた。
それなら主があらわにご自身を現される時の恐怖はどれほどだろう。
・主の死は地を震わせ、天を暗くした。それなら、主が生ける救い主として死者と生者を御前に集められる時の恐ろしい光景はどうであろう。
ああ、その恐怖が人々に罪を捨てさせ、神の子の怒りをなだめるために主に口づけするまでになるように。
主は小羊であられるが、ユダ族から出た獅子であられ、獲物をばらばらに引き裂かれる。
主はいたんだ葦を折られないが、鉄の杖で敵を打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。
その敵は一人でも主の怒りのあらしの前に耐えることができず、その憤りのひょうから姿を隠す。
しかし、主のいつくしみを受け、その血によって洗われた民は、その現れを喜びをもって待ち望み、恐れることなく主と共になることを願う。
彼らにとって、主は今も金の精錬者であられる。そして、主によって精錬された者は、純金となって出て来る。
今朝私たちは自らを探り、主の再臨が私たちの心に暗影を投ずることのないよう、
私たちの受けた召しと選びとを確かなものとしよう。
ああ、すべての偽善を去って、主のおいでになる時、純真で非難されるところのない者となる恵みを得たい。
◆[ だれが、この方の来られる日に耐えられよう。](マラキ3:2)
主が初めて来られた時に、外に現れる華やかさや力の誇示はなかった。
しかし、それにもかかわらず、そのテストの力に耐えることのできた者はほとんどいなかった。
ヘロデとエルサレム中の人々は驚くべき誕生の知らせを聞いて動揺した。
主を待ち望んでいると思われた者たちは、実際に来られた主を拒否し、自分たちの告白が偽りであったことを暴露した。
主の地上におけるご生涯は、ふるい分ける箕であって、多くの宗教上の告白をふるい分けた。
それに耐えることのできた者はほとんどいなかった。
しかし、主が再臨される時はどうだろう。それを考えてみることさえ、罪人は耐えられない。
「(主は)口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」
・主が「それはわたしです」と言われただけなのに、兵士たちは地に倒れた。
それなら主があらわにご自身を現される時の恐怖はどれほどだろう。
・主の死は地を震わせ、天を暗くした。それなら、主が生ける救い主として死者と生者を御前に集められる時の恐ろしい光景はどうであろう。
ああ、その恐怖が人々に罪を捨てさせ、神の子の怒りをなだめるために主に口づけするまでになるように。
主は小羊であられるが、ユダ族から出た獅子であられ、獲物をばらばらに引き裂かれる。
主はいたんだ葦を折られないが、鉄の杖で敵を打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。
その敵は一人でも主の怒りのあらしの前に耐えることができず、その憤りのひょうから姿を隠す。
しかし、主のいつくしみを受け、その血によって洗われた民は、その現れを喜びをもって待ち望み、恐れることなく主と共になることを願う。
彼らにとって、主は今も金の精錬者であられる。そして、主によって精錬された者は、純金となって出て来る。
今朝私たちは自らを探り、主の再臨が私たちの心に暗影を投ずることのないよう、
私たちの受けた召しと選びとを確かなものとしよう。
ああ、すべての偽善を去って、主のおいでになる時、純真で非難されるところのない者となる恵みを得たい。
2003 10/13 12:37
Category : 日記
雨の聖日となりました。
新しい週の始め、すべての手の業を止め、
過ぎる一週間も守り、導いて下さったことを感謝し、
霊と真をもって主に礼拝をお捧げするため教会へ集いました。
牧師先生は四国の教会で礼拝説教の御用で不在でした。
2ヶ月に一度御奉仕頂いている熊本の井上先生にバイブルクラス学びと礼拝にてみことばを取次いでいただきました。
学びは●コロサイ人への手紙2章1〜17節
礼拝説教の箇所は●ダニエル書2章31〜45節です。
2:31 王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。
2:32 その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、
2:33 すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。
2:34 あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
2:35 そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。
2:36 これがその夢でした。私たちはその解き明かしを王さまの前に申し上げましょう。
2:37 王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、
2:38 また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。あなたはあの金の頭です。
2:39 あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。
2:40 第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。
2:41 あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
2:42 その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
2:43 鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。
2:44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。
2:45 あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」
時代的背景はイスラエル(南王国ユダ)がバビロン捕囚の時代・・・紀元前603年
青年ダニエルには夢と幻を解く能力がありました。
この箇所はネブカデネザル王の命令を受けて夢を解き明かす場面です。
この夢はバビロンとその後の国々の未来に関することを啓示していると解き明かします。
夢で現れた人間の形をした巨大な像について
●第一の国---頭--------純金--------(バビロン)
●第二の国---胸・両腕---銀----------(ペルシャ)
●第三の国---腹・もも----青銅--------(ギリシャ)
●第四の国---すね・足----鉄/粘土-----(ローマ)
一つの石はイエス・キリスト-----[一つの国]とは神の国のことを指しています。
第四の国の時代以降・・・・ローマ以降世界を統一する国は起こされていません。
神の国は キリストの初臨(降臨)に始まり、再臨で完成します。
■この箇所から何を学ぶでしょうか。
聖書には歴史上起こったこと、これから起こることが記されていますが、私たちは正しい歴史感を持つ必要があります。
今までどうであったのか・・・・現在目の前にあるこの世の現状、世界の営みというものがどうであれ、聖書に啓示されてあることはすべて成就されてきましたし、またこれから未来においても 成し遂げられていきます。
ですから、私たちは 神に信頼し、聖書の約束を信じて、歩む者とさせていただきましょう。
神は愛なり。愛なる天のお父さま 御名を讃美します。
今日も素晴らしい一日を与えられいることを感謝します。
日々起こる色々な出来事に、一喜一憂し、目先のことにのみ捕われ易い弱い者です。
主よ、いつも ”キリストは私のすべてです。”との告白をもって
”永遠”に想いをはせることが出来ますように、強め導いてください。
尊い主 イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン
新しい週の始め、すべての手の業を止め、
過ぎる一週間も守り、導いて下さったことを感謝し、
霊と真をもって主に礼拝をお捧げするため教会へ集いました。
牧師先生は四国の教会で礼拝説教の御用で不在でした。
2ヶ月に一度御奉仕頂いている熊本の井上先生にバイブルクラス学びと礼拝にてみことばを取次いでいただきました。
学びは●コロサイ人への手紙2章1〜17節
礼拝説教の箇所は●ダニエル書2章31〜45節です。
2:31 王さま。あなたは一つの大きな像をご覧になりました。見よ。その像は巨大で、その輝きは常ならず、それがあなたの前に立っていました。その姿は恐ろしいものでした。
2:32 その像は、頭は純金、胸と両腕とは銀、腹とももとは青銅、
2:33 すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。
2:34 あなたが見ておられるうちに、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と粘土の足を打ち、これを打ち砕きました。
2:35 そのとき、鉄も粘土も青銅も銀も金もみな共に砕けて、夏の麦打ち場のもみがらのようになり、風がそれを吹き払って、あとかたもなくなりました。そして、その像を打った石は大きな山となって全土に満ちました。
2:36 これがその夢でした。私たちはその解き明かしを王さまの前に申し上げましょう。
2:37 王の王である王さま。天の神はあなたに国と権威と力と光栄とを賜い、
2:38 また人の子ら、野の獣、空の鳥がどこに住んでいても、これをことごとく治めるようにあなたの手に与えられました。あなたはあの金の頭です。
2:39 あなたの後に、あなたより劣るもう一つの国が起こります。次に青銅の第三の国が起こって、全土を治めるようになります。
2:40 第四の国は鉄のように強い国です。鉄はすべてのものを打ち砕いて粉々にするからです。その国は鉄が打ち砕くように、先の国々を粉々に打ち砕いてしまいます。
2:41 あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたが、それは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。
2:42 その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
2:43 鉄とどろどろの粘土が混じり合っているのをあなたがご覧になったように、それらは人間の種によって、互いに混じり合うでしょう。しかし鉄が粘土と混じり合わないように、それらが互いに団結することはありません。
2:44 この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。
2:45 あなたがご覧になったとおり、一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と青銅と粘土と銀と金を打ち砕いたのは、大いなる神が、これから後に起こることを王に知らされたのです。その夢は正夢で、その解き明かしも確かです。」
時代的背景はイスラエル(南王国ユダ)がバビロン捕囚の時代・・・紀元前603年
青年ダニエルには夢と幻を解く能力がありました。
この箇所はネブカデネザル王の命令を受けて夢を解き明かす場面です。
この夢はバビロンとその後の国々の未来に関することを啓示していると解き明かします。
夢で現れた人間の形をした巨大な像について
●第一の国---頭--------純金--------(バビロン)
●第二の国---胸・両腕---銀----------(ペルシャ)
●第三の国---腹・もも----青銅--------(ギリシャ)
●第四の国---すね・足----鉄/粘土-----(ローマ)
一つの石はイエス・キリスト-----[一つの国]とは神の国のことを指しています。
第四の国の時代以降・・・・ローマ以降世界を統一する国は起こされていません。
神の国は キリストの初臨(降臨)に始まり、再臨で完成します。
■この箇所から何を学ぶでしょうか。
聖書には歴史上起こったこと、これから起こることが記されていますが、私たちは正しい歴史感を持つ必要があります。
今までどうであったのか・・・・現在目の前にあるこの世の現状、世界の営みというものがどうであれ、聖書に啓示されてあることはすべて成就されてきましたし、またこれから未来においても 成し遂げられていきます。
ですから、私たちは 神に信頼し、聖書の約束を信じて、歩む者とさせていただきましょう。
神は愛なり。愛なる天のお父さま 御名を讃美します。
今日も素晴らしい一日を与えられいることを感謝します。
日々起こる色々な出来事に、一喜一憂し、目先のことにのみ捕われ易い弱い者です。
主よ、いつも ”キリストは私のすべてです。”との告白をもって
”永遠”に想いをはせることが出来ますように、強め導いてください。
尊い主 イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン
2003 10/11 07:49
Category : 日記
聖書日課”朝ごとに”より.....スポルジョン著
◆私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。(哀歌3:41)
●祈りは私たちに自らの無価値を教える。
・それは高慢な私たちにとって非常に有益な教訓である。もし神が、私たちの祈りなしに恵みを与えられるとすれば、私たちは決して、自分の貧しさを知らないであろう。
・しかし、真の祈りは欠乏の目録であり、必要のカタログであり、隠れた貧困の暴露である。
それは神の富を求めるものであるが、また人間の空虚さを告白するものでもある。
・クリスチャンの最も健全な状態は、常に自己を空しくして主の供給により頼むことである。
・常に自己を貧しくし、キリストにあって富むことである。
自分は弱いが、神によって強くされて偉大なわざをなす。
それゆえ、祈りは神をあがめるものであるが、それは被造物をそのあるべき位置、すなわち、ちりの中に置くものでもある。
●祈りへの応答もさることながら、祈り自体がクリスチャンに大きな益をもたらす。
競技をする者が日々の練習によって技をみがくように、私たちも人生の大レースにおいて、堅い祈りの労苦によって力を得る。
●祈りは神の若鷲のように翼を整え、雲の上にかけ上ることを学ばせる。
また祈りは神の戦士の武装を整え、その筋骨をたくましくして戦いに送り出す。
熱心な祈りの人が密室から出て来るのは、あたかも太陽が東の天から上がろうとしているのに似ており、元気いっぱいの若者が、喜びにあふれてレースに出場するのに比べられる。
●祈りは、モーセの上げられている手である。それは、ヨシュアの剣にまさってアマレク人を敗走させる。それは預言者の部屋から射られた矢であって、アラム人の敗走を預言するものである。
●祈りは人間的な弱さを神の力によって強め、人の愚かさを天の知恵に変え、悩む人に神の平安を与える。私たちは祈りによって成し遂げられないというものを知らない。
大いなる神さま、あなたの恵みの御座に感謝します。
それはあなたの驚くべき慈しみの不動の証拠であるからです。
どうか、私たちを助け、この一日、それを正しく用いるようにさせてください。
◆私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。(哀歌3:41)
●祈りは私たちに自らの無価値を教える。
・それは高慢な私たちにとって非常に有益な教訓である。もし神が、私たちの祈りなしに恵みを与えられるとすれば、私たちは決して、自分の貧しさを知らないであろう。
・しかし、真の祈りは欠乏の目録であり、必要のカタログであり、隠れた貧困の暴露である。
それは神の富を求めるものであるが、また人間の空虚さを告白するものでもある。
・クリスチャンの最も健全な状態は、常に自己を空しくして主の供給により頼むことである。
・常に自己を貧しくし、キリストにあって富むことである。
自分は弱いが、神によって強くされて偉大なわざをなす。
それゆえ、祈りは神をあがめるものであるが、それは被造物をそのあるべき位置、すなわち、ちりの中に置くものでもある。
●祈りへの応答もさることながら、祈り自体がクリスチャンに大きな益をもたらす。
競技をする者が日々の練習によって技をみがくように、私たちも人生の大レースにおいて、堅い祈りの労苦によって力を得る。
●祈りは神の若鷲のように翼を整え、雲の上にかけ上ることを学ばせる。
また祈りは神の戦士の武装を整え、その筋骨をたくましくして戦いに送り出す。
熱心な祈りの人が密室から出て来るのは、あたかも太陽が東の天から上がろうとしているのに似ており、元気いっぱいの若者が、喜びにあふれてレースに出場するのに比べられる。
●祈りは、モーセの上げられている手である。それは、ヨシュアの剣にまさってアマレク人を敗走させる。それは預言者の部屋から射られた矢であって、アラム人の敗走を預言するものである。
●祈りは人間的な弱さを神の力によって強め、人の愚かさを天の知恵に変え、悩む人に神の平安を与える。私たちは祈りによって成し遂げられないというものを知らない。
大いなる神さま、あなたの恵みの御座に感謝します。
それはあなたの驚くべき慈しみの不動の証拠であるからです。
どうか、私たちを助け、この一日、それを正しく用いるようにさせてください。
2003 10/07 00:25
Category : 日記
久しぶりに雨の一日となりました。
昨日はうろこ雲が空いっぱいに広がってました。本日の気温は急に下がって20℃、朝からクシャミの連続です。まさか、風邪ではないでしょうね・・・・・気をつけなければ。
さて、昨日に引き続き今夜も礼拝説教をまとめ、アップすることにいたしましょう。
日が経つとMEMOを見ても思い出せなかったり、大事なエッセンスが抜け落ちてしまったり
ということもあるので。
10/5の礼拝説教「御霊のちから」
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。
御霊に満たされなさい。」エペソ人への手紙5:18
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」使徒の働き1:3
教会がどのようにして、できたかが記されています。
・使徒行伝1:1・・・テオピロよ。私は前の書で-------
・ルカ書1:3・・・・テオピロ殿、-----
この箇所から、使徒行伝は医者ルカによって書かれたことが分かります。
●何故、イエス・キリストは 十字架で死んだ後、黄泉に下り、3日目に甦って40日間 たくさんの人々に現れたのでしょうか?
・神の国のことをしっかりと伝える為
・イエスさまが生きておられることを示す為。
事実、数多くの確かな証拠をもって使徒たちに示されました。
弟子達と共に、復活のイエスさまはガリラヤ湖畔で 魚を食べられました。
これは足のない幽霊が現れるような現象とは違い、生きておられるということです。
わき腹には槍で刺し通された跡があり、両手の平、両足には釘の跡がありました。
・十字架を見てください。
イエス・キリストは復活されたのですから、十字架上に磔にはなっていません。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
第�Tコリント15:20
・このことから死は恐れるに値しない。
・地上のいのちで終わりではない。
・死んでも大丈夫である。
私たちも栄光の姿に変えられることがはっきりと分かります。
しかし、これだけで十分ではありません。
4節で「父の約束を待ちなさい」と記されています。
これは御霊(聖霊)が下るのを待つようにということです。
使徒行伝1、2章に記されてあるペンテコステのような体験は 歴史上たった一度だけの出来事です。
クリスチャンなのに自分はそんな経験はないと言われるでしょうか?
【 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。】第�Tヨハネ4:15
私たちはイエスさまを神のひとり子、救い主と信じ、主と告白した時に、もうすでに聖霊さまが住んでおられるのです。
聖霊さまのお働き無しに、イエスさまを主と告白することは出来ないのですから。
恵み深い天のおとうさま 感謝をいたします。
イエス様が共にいて下さることを覚え、けっして、聖霊さまを追い出すことがありませんように
いつも聖霊さまに満たされていることが出来ますように
聖霊さまが自由に働いて下さり、力強く証の生活が出来ますように
主の御名によって祈ります。 アーメン
昨日はうろこ雲が空いっぱいに広がってました。本日の気温は急に下がって20℃、朝からクシャミの連続です。まさか、風邪ではないでしょうね・・・・・気をつけなければ。
さて、昨日に引き続き今夜も礼拝説教をまとめ、アップすることにいたしましょう。
日が経つとMEMOを見ても思い出せなかったり、大事なエッセンスが抜け落ちてしまったり
ということもあるので。
10/5の礼拝説教「御霊のちから」
「また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。
御霊に満たされなさい。」エペソ人への手紙5:18
「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現われて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。」使徒の働き1:3
教会がどのようにして、できたかが記されています。
・使徒行伝1:1・・・テオピロよ。私は前の書で-------
・ルカ書1:3・・・・テオピロ殿、-----
この箇所から、使徒行伝は医者ルカによって書かれたことが分かります。
●何故、イエス・キリストは 十字架で死んだ後、黄泉に下り、3日目に甦って40日間 たくさんの人々に現れたのでしょうか?
・神の国のことをしっかりと伝える為
・イエスさまが生きておられることを示す為。
事実、数多くの確かな証拠をもって使徒たちに示されました。
弟子達と共に、復活のイエスさまはガリラヤ湖畔で 魚を食べられました。
これは足のない幽霊が現れるような現象とは違い、生きておられるということです。
わき腹には槍で刺し通された跡があり、両手の平、両足には釘の跡がありました。
・十字架を見てください。
イエス・キリストは復活されたのですから、十字架上に磔にはなっていません。
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
第�Tコリント15:20
・このことから死は恐れるに値しない。
・地上のいのちで終わりではない。
・死んでも大丈夫である。
私たちも栄光の姿に変えられることがはっきりと分かります。
しかし、これだけで十分ではありません。
4節で「父の約束を待ちなさい」と記されています。
これは御霊(聖霊)が下るのを待つようにということです。
使徒行伝1、2章に記されてあるペンテコステのような体験は 歴史上たった一度だけの出来事です。
クリスチャンなのに自分はそんな経験はないと言われるでしょうか?
【 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。】第�Tヨハネ4:15
私たちはイエスさまを神のひとり子、救い主と信じ、主と告白した時に、もうすでに聖霊さまが住んでおられるのです。
聖霊さまのお働き無しに、イエスさまを主と告白することは出来ないのですから。
恵み深い天のおとうさま 感謝をいたします。
イエス様が共にいて下さることを覚え、けっして、聖霊さまを追い出すことがありませんように
いつも聖霊さまに満たされていることが出来ますように
聖霊さまが自由に働いて下さり、力強く証の生活が出来ますように
主の御名によって祈ります。 アーメン
2003 10/05 22:15
Category : 日記
聖なる主の日礼拝をお捧げるするため教会へ集いました。
現在バイブルクラスの学びはヤコブへの手紙からみことばを頂いています。
本日はヤコブ書3:18
『 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。』
イエスさまも マタイ伝10:34 山上の説教の中で
「平和をつくる人は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」
と教えてくださいました。
ヤコブ(イエスさまの肉の弟)はこの山上の説教を思い出し ヤコブ書を書いたと言われています。
今日の学びのポイント
●平和をつくる人の条件とは
・自分の心に平和を持っている人であること
・神さまと心が通い合い、平和な関係にあること
しかし、誤解をしてはいけません。
けっして事なかれ主義であったり、波風を立てないように、現状をそのままにして・・・・・
そのような平和を作るのではなく
ピースメーカーは 時として聖なるトラブルメーカーになることもあるのです。
■聖書の義とは・・・・・神さまからみた正しさであり
心の想いだけでなく 行いにおいてもかみさまの心に一致しているのです。
それでは平和はどのようにしてつくられるのでしょうか。
平和のうちに(in)=平和のために(for)
・神の前に静まり 謙虚になって祈るとき心が見えてきます。
・自分の為にではなく、神がつくりだす平和の為に、
平和をつくる人は 忍耐強く蒔き続ける必要があります。
しかし種を蒔くということは慰めです。なぜならば、私たちは種を蒔くだけで良いのです。
神は 私達に 成長させたり、収穫を求めてはおられないからです。
そのことは 神さまが責任を持って為して下さることだからです。
私たちは 本当のピースメーカーになっているかどうか?
条件を覚え、神さまの御心に添うように証をさせて戴く。
すぐに収穫はないかもしれませんが・・・・・私たちは生きている間に収穫はないかもしれません。
しかし、せっかちにならずに・・・・・・
神さまの時を信じて、種を蒔き続ける者とさせていただきましょう。
現在バイブルクラスの学びはヤコブへの手紙からみことばを頂いています。
本日はヤコブ書3:18
『 義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。』
イエスさまも マタイ伝10:34 山上の説教の中で
「平和をつくる人は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」
と教えてくださいました。
ヤコブ(イエスさまの肉の弟)はこの山上の説教を思い出し ヤコブ書を書いたと言われています。
今日の学びのポイント
●平和をつくる人の条件とは
・自分の心に平和を持っている人であること
・神さまと心が通い合い、平和な関係にあること
しかし、誤解をしてはいけません。
けっして事なかれ主義であったり、波風を立てないように、現状をそのままにして・・・・・
そのような平和を作るのではなく
ピースメーカーは 時として聖なるトラブルメーカーになることもあるのです。
■聖書の義とは・・・・・神さまからみた正しさであり
心の想いだけでなく 行いにおいてもかみさまの心に一致しているのです。
それでは平和はどのようにしてつくられるのでしょうか。
平和のうちに(in)=平和のために(for)
・神の前に静まり 謙虚になって祈るとき心が見えてきます。
・自分の為にではなく、神がつくりだす平和の為に、
平和をつくる人は 忍耐強く蒔き続ける必要があります。
しかし種を蒔くということは慰めです。なぜならば、私たちは種を蒔くだけで良いのです。
神は 私達に 成長させたり、収穫を求めてはおられないからです。
そのことは 神さまが責任を持って為して下さることだからです。
私たちは 本当のピースメーカーになっているかどうか?
条件を覚え、神さまの御心に添うように証をさせて戴く。
すぐに収穫はないかもしれませんが・・・・・私たちは生きている間に収穫はないかもしれません。
しかし、せっかちにならずに・・・・・・
神さまの時を信じて、種を蒔き続ける者とさせていただきましょう。
2003 10/05 22:12
Category : 日記
教会では毎年 年間聖句が掲げられます。
今年はヨハネの福音書21:17
「あなたはわたしを愛しますか」です。
この箇所は イエスさまが 3度繰り返しペテロに語りかけられことばです。
この聖句を思い起こす時 主が正に私に語りかけておられると感じることがしばしばあります。
ペテロのように
「はい、主よ私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」
と心から言えないときがあります。主よゆるして下さい。
真剣に自分の心の奥を探る時に、いや、主以上に自分自身が可愛くて、共に居て下さることさえ忘れてしまうなんと愚かで、弱い者だろうと思います。
いつも主は 問いかけておられるのですね。
そのことは、私を愛する心からしているのですか? と。
今年はヨハネの福音書21:17
「あなたはわたしを愛しますか」です。
この箇所は イエスさまが 3度繰り返しペテロに語りかけられことばです。
この聖句を思い起こす時 主が正に私に語りかけておられると感じることがしばしばあります。
ペテロのように
「はい、主よ私があなたを愛することは、あなたがご存知です。」
と心から言えないときがあります。主よゆるして下さい。
真剣に自分の心の奥を探る時に、いや、主以上に自分自身が可愛くて、共に居て下さることさえ忘れてしまうなんと愚かで、弱い者だろうと思います。
いつも主は 問いかけておられるのですね。
そのことは、私を愛する心からしているのですか? と。