2004年07月の記事
2004 07/30 20:19
Category : 日記
聖書日課
◆それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(マルコ14:72)
ある人々は、ペテロは一生、主を拒んだことを思うたびに涙が流れて止まらなかった、と考える。
そうかもしれない。彼の罪は非常に大きなものであったが、後には恵みが彼の中に完全なわざをなした。
この経験は程度の差こそあれ、聖霊によって生まれつきのままの石のような心を取り去られた、すべての贖われた者に共通の経験である。
私はペテロのように、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言った尊大な約束を思い起こす。
私たちは苦い後悔の思いをもって、自分のことばを追憶する。どのような誓いをなし、それがどうなったかを考える時、私たちは悲しみの涙にくれる。
ペテロは主を拒んだことを思った。自分がそれをした所、そのような極悪な罪を犯させた小さな理由、彼が偽りを証拠立てようとして激しく誓ったこと、彼をこのような罪に追いやったその心の恐るべきかたくなさについて考えた。
私たちも自分の罪を思い起こし、その極悪さを考える時、無神経な、かたくなな態度をとり続けられないだろう。
私たちは自分の家をボキム(泣く所)とし、主に向かって、罪に対する新たな愛の赦しが与えられるように叫び求めないであろうか。
私たちが涙を浮かべずに罪を見ることが決してないように。
そのようなことがあるなら、遠からず私たちの舌は地獄の火に焦がされてしまう。
ペテロはまた主の愛に満ちたまなざしを思った。
鶏の鳴き声の後に、主は悲しみと愛のまなざしを与えられた。このまなざしは、ペテロにとって一生忘れることのできないものとなった。
それは聖霊の注がれない千万の説教よりもはるかに力があった。
深く罪を悔いたこの使徒は、自分をもとの位置に回復された救い主の完全な赦しを思い出した時、きっと涙を流したに違いない。
しかし私たちは、この上なく愛と善に富んでおられる主のみこころをお痛めしたことを思う時、いくら泣いても泣ききれない気持ちなのである。
主よ。岩のような私の心を打って、水をほとばしらせてください。
◆Charles Haddon Spurgeon著 「朝ごとに」より
◆それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(マルコ14:72)
ある人々は、ペテロは一生、主を拒んだことを思うたびに涙が流れて止まらなかった、と考える。
そうかもしれない。彼の罪は非常に大きなものであったが、後には恵みが彼の中に完全なわざをなした。
この経験は程度の差こそあれ、聖霊によって生まれつきのままの石のような心を取り去られた、すべての贖われた者に共通の経験である。
私はペテロのように、「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と言った尊大な約束を思い起こす。
私たちは苦い後悔の思いをもって、自分のことばを追憶する。どのような誓いをなし、それがどうなったかを考える時、私たちは悲しみの涙にくれる。
ペテロは主を拒んだことを思った。自分がそれをした所、そのような極悪な罪を犯させた小さな理由、彼が偽りを証拠立てようとして激しく誓ったこと、彼をこのような罪に追いやったその心の恐るべきかたくなさについて考えた。
私たちも自分の罪を思い起こし、その極悪さを考える時、無神経な、かたくなな態度をとり続けられないだろう。
私たちは自分の家をボキム(泣く所)とし、主に向かって、罪に対する新たな愛の赦しが与えられるように叫び求めないであろうか。
私たちが涙を浮かべずに罪を見ることが決してないように。
そのようなことがあるなら、遠からず私たちの舌は地獄の火に焦がされてしまう。
ペテロはまた主の愛に満ちたまなざしを思った。
鶏の鳴き声の後に、主は悲しみと愛のまなざしを与えられた。このまなざしは、ペテロにとって一生忘れることのできないものとなった。
それは聖霊の注がれない千万の説教よりもはるかに力があった。
深く罪を悔いたこの使徒は、自分をもとの位置に回復された救い主の完全な赦しを思い出した時、きっと涙を流したに違いない。
しかし私たちは、この上なく愛と善に富んでおられる主のみこころをお痛めしたことを思う時、いくら泣いても泣ききれない気持ちなのである。
主よ。岩のような私の心を打って、水をほとばしらせてください。
◆Charles Haddon Spurgeon著 「朝ごとに」より
2004 07/25 19:59
Category : 日記
7/11 A神学生による奨励のまとめ
第 15章
[ 15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。]
同じ箇所がマタイ18章にも記されてあります。
羊とは、旧約以来 選民の比喩であり、
詩篇119:176に
『私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
私はあなたの仰せを忘れません。』
失われた羊の例え話は、
私たち人間の迷いやすい姿を描く直喩です。
迷った羊は帰路を見出す能力がありません。
ですから、羊の群れを導く羊飼いが必要です。
水・草・・・・たっぷりと食べれる場所に連れて行かなければなりません。
また、非常に臆病ですから逃げることしかできませんし、
すぐに怖がって走り出す習性があるという、弱い動物です。
夜は、さらに敵から守ってあげなければなりません。
また、羊は倒れたら自分では起き上がれないので、
羊飼いはいつもいつも注意深く見張っている必要があります。
-------------------------------------------
羊飼いは一匹いないことに気づきました。さあ、あなたなら どうするでしょうか?
99匹の羊をそこに残して 一匹を捜しに行きますか。
イエスさまは失われた人を捜すためにこられたのです。
神を離れ、道を失い、自分勝手な方向に向かっている私たち人間を捜して・・・・・。
律法学者・パリサイ人達は、神さまを信じていましたが、律法を守ると言う方向に進んでいきました。そうして神さまの御思いから離れていってしまったのでした。
それでは 私たちはどうなのでしょうか?
神さまは捜しておられます。
そして、豊かに生きる為の食物、必要を満たしてくださいます。
私たちは 自分の考えで色々なことを試してみます。
人に優しくしても、ボランティァをしたとしても、この自分の汚れた心は赦されないのです。
かえって、自分の心が満たされる方向へ、と進んで行く危険性もあります。
楽しい時・・・・苦しい時・・・・・悲しい時・・・・
罪赦されて 神様の元に帰る・・・・・このような喜びがほかにあるでしょうか。
天においても大きな喜びがあるのです。
第 15章
[ 15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。
「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」
15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。]
同じ箇所がマタイ18章にも記されてあります。
羊とは、旧約以来 選民の比喩であり、
詩篇119:176に
『私は、滅びる羊のように、迷い出ました。
どうかあなたのしもべを捜し求めてください。
私はあなたの仰せを忘れません。』
失われた羊の例え話は、
私たち人間の迷いやすい姿を描く直喩です。
迷った羊は帰路を見出す能力がありません。
ですから、羊の群れを導く羊飼いが必要です。
水・草・・・・たっぷりと食べれる場所に連れて行かなければなりません。
また、非常に臆病ですから逃げることしかできませんし、
すぐに怖がって走り出す習性があるという、弱い動物です。
夜は、さらに敵から守ってあげなければなりません。
また、羊は倒れたら自分では起き上がれないので、
羊飼いはいつもいつも注意深く見張っている必要があります。
-------------------------------------------
羊飼いは一匹いないことに気づきました。さあ、あなたなら どうするでしょうか?
99匹の羊をそこに残して 一匹を捜しに行きますか。
イエスさまは失われた人を捜すためにこられたのです。
神を離れ、道を失い、自分勝手な方向に向かっている私たち人間を捜して・・・・・。
律法学者・パリサイ人達は、神さまを信じていましたが、律法を守ると言う方向に進んでいきました。そうして神さまの御思いから離れていってしまったのでした。
それでは 私たちはどうなのでしょうか?
神さまは捜しておられます。
そして、豊かに生きる為の食物、必要を満たしてくださいます。
私たちは 自分の考えで色々なことを試してみます。
人に優しくしても、ボランティァをしたとしても、この自分の汚れた心は赦されないのです。
かえって、自分の心が満たされる方向へ、と進んで行く危険性もあります。
楽しい時・・・・苦しい時・・・・・悲しい時・・・・
罪赦されて 神様の元に帰る・・・・・このような喜びがほかにあるでしょうか。
天においても大きな喜びがあるのです。
2004 07/25 19:57
Category : 日記
1.
くじゅくひきのひつじは おりにあれども
もどらざりし いっぴきは いずこにゆきし
かいぬしより はなれて おくやまに まよえり
おくやまに まよえり
2.
くじゅくひきもあるなり 主よ よからずや
主はこたえぬ 「迷えしものも わがもの
いかに深き やまをも わけゆきて みいださん
わけゆきて みいださん 」
3.
主は 越えゆきたまえり ふかきながれを
主は すぎゆきたまえり くらきよみちを
死にのぞめり ひつじの なきごえを たよりに
なきごえを たよりに
4.
「主よ やまみちたどる 血潮はなにぞ」
「そは いっぴきの迷いしもののためなり」
「みての傷はなにゆえ」
「いばらにて さかれぬ いばらにて さかれぬ」
5.
谷底より 空まで み声ぞ 響く
「失なわれしひつじは みいだされたり」
みつかいらはこたえぬ
「いざともに 喜べ いざともに 喜べ」
くじゅくひきのひつじは おりにあれども
もどらざりし いっぴきは いずこにゆきし
かいぬしより はなれて おくやまに まよえり
おくやまに まよえり
2.
くじゅくひきもあるなり 主よ よからずや
主はこたえぬ 「迷えしものも わがもの
いかに深き やまをも わけゆきて みいださん
わけゆきて みいださん 」
3.
主は 越えゆきたまえり ふかきながれを
主は すぎゆきたまえり くらきよみちを
死にのぞめり ひつじの なきごえを たよりに
なきごえを たよりに
4.
「主よ やまみちたどる 血潮はなにぞ」
「そは いっぴきの迷いしもののためなり」
「みての傷はなにゆえ」
「いばらにて さかれぬ いばらにて さかれぬ」
5.
谷底より 空まで み声ぞ 響く
「失なわれしひつじは みいだされたり」
みつかいらはこたえぬ
「いざともに 喜べ いざともに 喜べ」
2004 07/19 18:57
Category : 日記
あなたの こころの
さけび きかれる 主イェスは
愛の手 ひろげて
今も 待っておられる
明日でなく 今 主イェスの
みての中で 安らごう
十字架で 死なれた 主はいのちを
あ な た に
さけび きかれる 主イェスは
愛の手 ひろげて
今も 待っておられる
明日でなく 今 主イェスの
みての中で 安らごう
十字架で 死なれた 主はいのちを
あ な た に
2004 07/14 06:42
Category : 日記
聖書日課
◆[ あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。
あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。] 出エジプト20:25
神の祭壇は、人の技巧や努力が見られない、切られていない石で造られなければならなかった。
人の知恵は十字架の教えをひねくりまわして人工的なものとし、人間の堕落した性質に適したものとする。
肉の知恵は福音を改善するどころか、むしろそれを汚し、全く異なる福音にし、神の真理とはおよそ似つかぬものとする。
主ご自身のみことばを添削することはすべて、それを汚す結果となる。
人間の高慢な心は、たましいが神の御前に義とされるために、ひとかどの助けをしたいと気をもむ。
キリストのために何か準備することを夢見、謙遜や悔い改めを鼻にかけ、あるいは善行を誇り、あるいは生来の能力を誇示する。
そして、なんとかして人間の道具を神の祭壇の上にふるおうとする。
罪人の肉に属する確信は、救い主のみわざを完成するどころか、それを汚し、辱しめるものであることをよく記憶したい。
贖いのみわざにおいては、主のみが高められなければならない。
人間ののみやハンマーの跡は、ただの一つも印されてはならないのである。
キリスト・イエスが、その死の瞬間において「完了した」と宣言されたものに、何かを加えようとし、主なる神が完全な満足をもってご覧になっているものを改善しようとするのは、人間固有の�瑞_の罪である。
おののいている罪人よ。道具を捨ててその場にひざまずき、へりくだってあわれみを求めよ。
そして、主を贖いの祭壇として受け入れ、ただ主にあって憩え。
信仰を公言する多くの者たちは、この聖句により、その信じる教義に対して警告を受けるであろう。
クリスチャンの中にも、啓示された真理を加減しようとする傾向が非常に強い。このようなことは不敬虔であり、不信仰である。
この傾向に対して私たちは戦い、みことばの教えは切れない石であり、それゆえ主の祭壇を築くには最も適した材料であることを喜び、真理をそのまま素直に受け入れようではないか。
◆Charles Haddon Spurgeon著 「朝ごとに」より
◆[ あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。
あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。] 出エジプト20:25
神の祭壇は、人の技巧や努力が見られない、切られていない石で造られなければならなかった。
人の知恵は十字架の教えをひねくりまわして人工的なものとし、人間の堕落した性質に適したものとする。
肉の知恵は福音を改善するどころか、むしろそれを汚し、全く異なる福音にし、神の真理とはおよそ似つかぬものとする。
主ご自身のみことばを添削することはすべて、それを汚す結果となる。
人間の高慢な心は、たましいが神の御前に義とされるために、ひとかどの助けをしたいと気をもむ。
キリストのために何か準備することを夢見、謙遜や悔い改めを鼻にかけ、あるいは善行を誇り、あるいは生来の能力を誇示する。
そして、なんとかして人間の道具を神の祭壇の上にふるおうとする。
罪人の肉に属する確信は、救い主のみわざを完成するどころか、それを汚し、辱しめるものであることをよく記憶したい。
贖いのみわざにおいては、主のみが高められなければならない。
人間ののみやハンマーの跡は、ただの一つも印されてはならないのである。
キリスト・イエスが、その死の瞬間において「完了した」と宣言されたものに、何かを加えようとし、主なる神が完全な満足をもってご覧になっているものを改善しようとするのは、人間固有の�瑞_の罪である。
おののいている罪人よ。道具を捨ててその場にひざまずき、へりくだってあわれみを求めよ。
そして、主を贖いの祭壇として受け入れ、ただ主にあって憩え。
信仰を公言する多くの者たちは、この聖句により、その信じる教義に対して警告を受けるであろう。
クリスチャンの中にも、啓示された真理を加減しようとする傾向が非常に強い。このようなことは不敬虔であり、不信仰である。
この傾向に対して私たちは戦い、みことばの教えは切れない石であり、それゆえ主の祭壇を築くには最も適した材料であることを喜び、真理をそのまま素直に受け入れようではないか。
◆Charles Haddon Spurgeon著 「朝ごとに」より
2004 07/10 23:37
Category : 日記
キリスト教に無病息災というご利益はあるでしょうか?
人間が生きるということは、不幸な出来事、試練を避けて通ることはできません。
神さまを信じている人は虫歯にもならず、風邪も引かない、疲れを知らず、交通事故にもあう事もなく、ガンにもかからない。
・・・・果たしてそんなことがありうるでしょうか?
世にある様々な宗教は 信じればこれこれの御利益がありますと不思議な業を説きます。
冷静になって考えれば簡単に分かることです。
どなたの人生にも色々な悲しみ、様々な苦しみがやってくることでしょう。
賢い人にも、愚かな人にも、富める人にも、貧しい人にも、程度や内容に差はあるように見えても
一人の例外なく負う連帯の痛みなのです。
人間の肉体には終わりがありますし、死を免れることは絶対にできません。
これは人類の最初の人であるアダムとエバが神にそむき、
背を向けてから入り込んできた罪と死の原理によるもの。・・・・と聖書には記されています。
人間は何故死を恐れるのでしょうか。
それは 死んだらそれで終わり・・・・・その先 どこへ行くのか?分からないからではないでしょうか?
『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・・』
ヘブル9:27
死後の裁きの時・・・・聖なる神の前に立てる義人(罪のない人)は一人もいません。
しかしイエス・キリストの十字架の贖いが自分の罪のためであった と信じる人には、イエスさまが神さまへ とりなしてくださり、全く罪のない者として御前に立つことが出来るのです。
『今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』
コロサイ1:22
クリスチャンは 肉体の死後 どこへ行くのか聖書によって啓示されていることを知っています。
ですから、たとえ目の前にある現実は厳しい事ばかりという時であっても、平安があります。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』ローマ8:28
と言われても、知識だけではイエス・キリストを信じることは出来ないのですけれど・・・・・・。
聖霊様が働いてくださり、語りかけて下さらないと・・・・・。
『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。』ローマ10:9
『また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』
コリント�T12:3
人間が生きるということは、不幸な出来事、試練を避けて通ることはできません。
神さまを信じている人は虫歯にもならず、風邪も引かない、疲れを知らず、交通事故にもあう事もなく、ガンにもかからない。
・・・・果たしてそんなことがありうるでしょうか?
世にある様々な宗教は 信じればこれこれの御利益がありますと不思議な業を説きます。
冷静になって考えれば簡単に分かることです。
どなたの人生にも色々な悲しみ、様々な苦しみがやってくることでしょう。
賢い人にも、愚かな人にも、富める人にも、貧しい人にも、程度や内容に差はあるように見えても
一人の例外なく負う連帯の痛みなのです。
人間の肉体には終わりがありますし、死を免れることは絶対にできません。
これは人類の最初の人であるアダムとエバが神にそむき、
背を向けてから入り込んできた罪と死の原理によるもの。・・・・と聖書には記されています。
人間は何故死を恐れるのでしょうか。
それは 死んだらそれで終わり・・・・・その先 どこへ行くのか?分からないからではないでしょうか?
『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている・・・・』
ヘブル9:27
死後の裁きの時・・・・聖なる神の前に立てる義人(罪のない人)は一人もいません。
しかしイエス・キリストの十字架の贖いが自分の罪のためであった と信じる人には、イエスさまが神さまへ とりなしてくださり、全く罪のない者として御前に立つことが出来るのです。
『今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。』
コロサイ1:22
クリスチャンは 肉体の死後 どこへ行くのか聖書によって啓示されていることを知っています。
ですから、たとえ目の前にある現実は厳しい事ばかりという時であっても、平安があります。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』ローマ8:28
と言われても、知識だけではイエス・キリストを信じることは出来ないのですけれど・・・・・・。
聖霊様が働いてくださり、語りかけて下さらないと・・・・・。
『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。』ローマ10:9
『また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。』
コリント�T12:3
2004 07/08 21:02
Category : 日記
神はひとりごを たもうほどに
よびとを 愛したもう 神は愛なり
あゝ神は愛なり けがれはてし
われさえ愛したもう 神は愛なり
罪をばおかして 神にそむき
てきとうわれさえ なお愛したまえり
あゝ神は愛なり けがれはてし
われさえ愛したもう 神は愛なり
罪ゆるさんために われにかわり
イエスきみ十字架に 死にたまえり
あゝ神は愛なり けがれはてし
われさえ愛したもう 神は愛なり
いざとく来りて 神の愛に
汝身をゆだねよ すくわるべし
あゝ神は愛なり けがれはてし
われさえ愛したもう 神は愛なり
よびとを 愛したもう 神は愛なり
あゝ神は愛なり けがれはてし
われさえ愛したもう 神は愛なり
罪をばおかして 神にそむき
てきとうわれさえ なお愛したまえり
あゝ神は愛なり けがれはてし
われさえ愛したもう 神は愛なり
罪ゆるさんために われにかわり
イエスきみ十字架に 死にたまえり
あゝ神は愛なり けがれはてし
われさえ愛したもう 神は愛なり
いざとく来りて 神の愛に
汝身をゆだねよ すくわるべし
あゝ神は愛なり けがれはてし
われさえ愛したもう 神は愛なり