2003年07月の記事


インマヌエル
インマヌエル アーメン

インマヌエル アーメン

インマヌエル アーメン


三度 唱えてみる

主はともに居られる

わたくしのみ傍に。

-f-
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7月30日(火) 晴れ
本日診察日、先日の検査の結果が出る日でした。
また一つ重荷を負うことになりました。詳しくは夜の日記に。。。。。。
遅い昼食を済ませこれから仕事に戻らなければなりません。
一年前アップした”答えられた祈り” 心に響きます。

答えられた祈り
私は強さを神に求めた
何事かを成し遂げるために
すると私は弱くされた
従うことを謙遜に学ぶようにと

私は健康を求めた
もっと偉大な仕事をするために
すると病を与えられた
恵みふかい仕事をするようにと

富を願い求めた
幸福になるために
すると貧しくされた
知恵ある者となるようにと

私は力を求めた
人々の称賛を得ようと
すると弱さが与えられた 自分には
神が必要であることを自覚するために
あらゆるものを求めた
人生を楽しむために
しかしいのちが与えられた
あらゆるものを楽しむように


求めたものは何一つ手に入らなかったが
ずっと望んでいたものは
すべて与えられた
的外れの私の祈りにもかかわらず 神は
ことばにならない 私の
ほんとうの願いを聴いてくださった
私はだれよりも
豊かに祝福を受けているのだ

(南北戦争時代の一兵士による)
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7月29日(火)晴れ
夏らしい設えへと少しリニュアル致しました。
BGMのほうも ニューエイジピアニスト・作曲家の須釜俊一氏より、
MIDI使用許可MAILを頂戴いたしましたので、早速 ”白い夏”を流しています。
詳しくはLinksにアップいたしましたので、須釜氏のサイトをご訪問なさってみてください。
素晴らしいオリジナル曲の数々を聞くことが出来ます。
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7月27日(日) 曇り
今朝は思いもよらず、早く目覚め 礼拝受付ご奉仕もあり、いつもより早めに教会へと向かいました。
一昨日から 東京の聖書神学舎のキャラバン隊(神学生4名)の方々がご奉仕をして下さっています。感謝です。
今朝のCS教師の学びで2名の方のお証、成人課の学びの時間には他の2名の方がお証をして下さいました。
神学生の方々が、神からの特別な招きにより、献身をする思いが起こされた証を伺うにつけ、
全知全能の神の不思議な御業に、身の引き締まるおもいが致しました。ハレルヤ!

本日の礼拝メッセージは エペソ書4:13〜15
「私たちの心とことば」と題してみことばの解き明かしをして頂きました。

『4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、
完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、
人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、
波にもてあそばれたりすることがなく、

4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、
かしらなるキリストに達することができるためなのです。』

箴言の中には実に150回も 口・ことば・舌に関して記されてあります。
なぜなら、私たちはことばによって失敗することが多いからに他なりません。

ヤコブ書には鋭い指摘がなされています。

『 3:8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。
それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

3:9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、
同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。
私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。』

「人は、心にも無いことを言ってしまって・・・・」などと言いますが、
決してそのようなことはないのです。
心が悪いので 悪いことばが出てくるのです。
それでは、どのようにすれば 良いことばが出てくるのでしょうか。

それは”唇を守ってください”といつも祈ることです。
『主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。』詩篇141:3

さらに、話をする時には 3つのことを考えることです。
1.本当ですか?
2.親切ですか?
3.必要ですか?

・私がこれから語ることは本当のことか?
特に自分の好きでない人の話をする時には 注意が必要です。

・私が語ることは親切だろうか?
建設的批判は当人だけに向かって密かに行いなさい。

・本当にこれから語ることは必要だろうか?
私たちは他の人に関して、間違った私的解釈をし、必要以上に話しすぎていないだろうか。

このように、こころを見つめ、ことばを吟味してから口にすることが大切です。
どんなときにも「愛をもって真理を語り」キリストの似姿に成長することを忘れてはなりません。



父なる神さま 御名を賛美します。
本当に唇の汚れた、罪深い者を、貴方さまは 愛と慈しみを持って今日も導いて下さっていますから有難うございます。
どうぞ、み言葉の照らし通り 心を見張り、ことばを発する時はあなたの子どもに相応しい清いことばでありますように、しもべの唇を守ってください。
一言感謝し、尊い主イエス・キリストの御名によってお祈りします。 アーメン 
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7月24日(木) 晴れ
今夜の聖書日課

◆『私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。
また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。』 (ピリピ4:12)

「貧しさの中にいる道」を知って、「豊かさの中にいる道」を知らない者が多い。
彼らは神殿の頂上に立たされると、めまいを起こして落ちそうになる。
クリスチャンは逆境の時よりも繁栄の時に、自分の告白している信仰を辱しめる。
繁栄は危険である。クリスチャンにとって繁栄の美しいつぼは、逆境のるつぼよりもはるかに耐えがたい試練なのである。
神のあわれみと富に接して後に、たましいがやせ、霊的なことがなおざりにされる。
そうであってはならない。
なぜなら使徒は「私は……豊かさの中にいる道も知っています」と言っているからである。
彼は多くの富を得た時に、どのようにしてそれを使うべきかを知っていたのである。
風を帆いっぱいにはらんでバラストを多く積み込んだ時には、安全に航海することができる。
地上の歓楽にあふれているさかずきを安全に運ぶことは、人間わざでは難しい。
パウロはそのこつを心得ていた。なぜなら、
「私は……飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」
と断言しているからである。
飽くことに処する道は神が与えられる教訓である。
イスラエルはかつて飽食したことがあったが、肉がまだ彼らの口の中にある間に、神の怒りが臨んだ。
多くの人々は、自分の心の欲を満足させるためにあわれみを求めてきた。
食に飽き、心の欲望を満足させると、やがては霊的な乱れを引き起こすようになる。
私たちが神の摂理のあわれみを豊かに受けた時、神の恵みをなおざりにし、与えられた富に対して感謝の念をもたないことがしばしばである。
私たちは満たされると、神を忘れ、地上に満足して天を念頭に置かない。
だから、飢えることより飽くことのほうが恐ろしいのである。
人の心はともすれば高ぶって神を忘れがちである。あなたも神に祈り、飽くことに処する秘訣も学ぶべきである。

あなたの愛が与えてくださる賜物のゆえに、私の心があなたから離れることがないように

By Charles Haddon Spurgeon
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7月3日(木) くもり
伝道者の書3章 (旧約聖書)

天の下では、何事にも定まった時期があり、

すべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、

死ぬのに時がある。

植えるのに時があり、

植えた物を引き抜くのに時がある。

殺すのに時があり、

いやすのに時がある。

くずすのに時があり、建てるのに時がある。

泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。

嘆くのに時があり、踊るのに時がある。

石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。

抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。

捜すのに時があり、失うのに時がある。

保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。

引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。

黙っているのに時があり、話をするのに時がある。

愛するのに時があり、憎むのに時がある。

戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

働く者は労苦して何の益を得よう。

私は神が人の子らに与えて労苦させる仕事を見た。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。

しかし、人は、神が行なわれるみわざを、

初めから終わりまで見きわめることができない。


主よ 必要なみことばを与えてくださり感謝致します。
どうぞ、聖霊様自ら、みことばの真理を語ってくださいますようにお願いいたします。
信仰を持ってみことばに生かされ、従うことが出来ますように 導いてください。
主のみなに拠って 祈ります。 AMEN
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7月20日(日) 雨時々くもり
最近はROM専門の人となり、自ら書き込むこともあまりなくなりました。
季節ごとに変えていた壁紙も そのままですし、そのうち日記も隔日となり・・・・・滞りがちです。
誰に咎められるでもなし、自分のペースで 細く長くが良いのかなあって思っています。

色々な方々のHP巡りをしながら とても心に響いた言葉とか、この方はどんな人かなぁ
と想いを馳せたり、是非イエスさまに出会ってほしいと 強く心を捉えられたり。
(そういう方には その場で短く祈らせていただきます。) 
ネットの世界は虚構の空間かもしれません。
真実なんて十分の一も語られていないのかもしれません。
しかし そこから伝わってくるそれぞれの想いの中に真理もきっとあるはずと思っています。

最近ある方のHPで こういう記述が目に留まりました。


ぼそっと「辛いね・・・」と言ったら、
「そうだね・・・辛いね・・・」がいい。

「私もだよ」とか、
「そんな事言わないで元気出して」
くそくらえ

あぁー、本当にそうだなぁ って思いました。
今の私の心境は まさにこれなんです。
今まで健康に恵まれ 病の中にある方を高いところから見下ろすような感覚といいましょうか。
強者が弱者に向ける眼差しで、物言いで、接していたのではないのか と示されたのです。
それが、自分の病を知ることにより、立場が逆転したのです。
そうなると、慰めのことばとか、紋切り型のことばを掛けられると 反発する心が生じるんです。
クリスチャンには「祈っています。」この一言以外何もいらないって。。。。。。。

主は 愛の無い驕り高ぶった思いでいる私に このことを通して、強く示してくださいました。
主よ、感謝いたします。 

『 自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。』ルカ書6−31
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7月19日(土) 雨時々くもり
聖書日課

◆『あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。』
エレミヤ書17−17

クリスチャンの道は、いつも太陽が輝いているわけではない。時にはやみもあらしもある。
なるほど神のみことばには、
「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」と記されている。
まことにそれは一大真理であり、信仰は人に天上の喜びのみならず、地上の幸福をも与えるものだと考えられている。
しかし、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」にしても、時にその光がさえぎられることを経験する。
ある期間、雲が信者の太陽をおおい、信者はやみの中を歩き、全く光を見ないことがある。
しばらくの間、神の臨在を喜んだ人は多い。彼らが信者となったころ、彼らは十分な日光を浴び、「いこいの水のほとり」の「緑の牧場」を歩んだ。
しかし突然、彼らは晴れた空が雲におおわれるのを発見し、ゴシェンの地に代わって砂漠を歩かなければならない。
甘い水の場所には困難な川が流れ、彼らはその苦い水をなめて、
「もし私が神の子なら、こういうことは断じてあってはならない」と言う。

ああ、暗い道を歩む者よ。そういうことを言ってはならない。
すぐれた神の聖徒は苦よもぎを飲まなければならない。
神の最も愛される子どもたちは、十字架を負うべきである。
クリスチャンはだれであっても繁栄ばかりを楽しむものではなく、
常にたてごとを柳の木に掛けないでいられるわけではない。
おそらくあなたが弱く臆病であったために、主は初めのうち、やわらかく日の当たる道を与えてくださったのであろう。
主は毛を切った小羊に強い風が当たらないように配慮される。
しかしあなたは、霊的生活において強くなったので、神の成長した子どもとして円熟した激しい経験に入らなければならない。
私たちは自分の信仰を鍛練し、自己依存の腐敗した枝を除き、
さらによくキリストに根を下ろすために、風とあらしを必要とするのである。
わざわいの時が、私たちの輝かしい希望の価値を示すのである。

By Charles Haddon Spurgeon
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7月17日(木) 曇り時々雨
今夜の聖書日課

◆[夕暮れには涙が宿っても、

朝明けには喜びの叫びがある。]詩篇30-5

主にある友よ。もしあなたが試練の夜にあるならば、夜明けのことを考えよ。
主が来られることを思い、あなたの心を奮起させよ。忍耐強くあれ。
「見よ、彼が、雲に乗って来られる」からである。忍耐せよ。
農夫である主は刈り入れの時を待っておられる。忍耐せよ。
あなたは「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、
わたしの報いを携えて来る」と言われたのがだれであるかを知っているからだ。
もしあなたが、現在ほど不幸な境遇に置かれたことはないとしても、次のことばを覚えよ。
「太陽があと幾たびか出、また没するなら、あなたは美しいカナンの岸に着くだろう。」
あなたが現在、困難のいばらの冠をいただいているとも、遠からず星のように輝く冠をいただく。
あなたの手は心配でいっぱいかもしれない。
しかしやがて、その手で、天上にあってたてごとを奏でる。
あなたの衣は、今はちりにまみれているかもしれない。しかしそのうちにそれは純白になるのだ。
しばらく待て、私たちが困難や試練を後ろに顧みる時、それはなんと小さく見えることか。
ところが前途に見る時、それは測り知れないほど大きく見える。
しかし天国に行けば、私たちは喜びにあふれつつ 足もとの勤労を追憶する。
その時、私たちの試練は、わずかの間の苦しみであったことがわかる。
いかに夜が暗くても必ず朝が来る。
それは、地獄の暗やみに閉じ込められている者には想像も及ばぬ、すばらしい朝である。
あなたは、将来に生き、希望に生き、天国を期待しつつ暮らすことが
どのようなものであるかを知っているか。
このような確実で慰めに満ちた希望をもつ信徒は幸いである。
今はまっ暗であるかもしれない。しかしまもなく光が来る。
今は試練のみであるかもしれない。しかしすぐ身に余る幸福がおし寄せてくる。

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある」
なら、今受けるしばらくの軽い患難は何ほどのことがあろう
 By Charles Haddon Spurgeon
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昨夜の夢
夢などめったに見ない人なのに・・・・・昨夜の夢は鮮明に覚えていました。

礼拝後、一人の姉妹が心配そうな顔で近づいて来ます。
●「A姉妹、検査の結果はどうでした?」

私「はい、残念ながら・・・・・・。」

●「あぁ、そうでしたか。(涙ぐむ)
Y姉妹も乳癌でしたけど 手術して直りましたからね、大丈夫よ。
清水町教会のS姉妹も同じ病気でしたけど 治って 今は元気にされてますよ。頑張ってね。」

私「はぁ、はい。お祈りお願いいたします。」

そこへ もう一人の姉妹が
▲「A姉妹・・・・・。(涙ぐみながら)
手術は何時ですか。病院は、Y姉妹と同じ病院ですってね。まだ初期なのでしょう。
皆さんにお知らせして祈って頂きましょう。
お知らせしていいですね。」

私「あのぅ・・・・・わたし、そんなふうに話しかけられると悲しくなるんです。
別に、動揺もしておりませんし、平安なんです。大丈夫、元気ですから。」

▲「A姉妹、祈りは 力強いものですよ。
皆に祈って頂くというのは それはそれは侮れないものですよ。
祈って頂きましょう。」

私「はい、祈りは必要としています。祈りの力も存じています。祈って下さい。
でも、その同情的な眼差しには耐えられないんです。ごめんなさい。」

帰ろうとして教会の玄関に立ったときO兄弟に話しかけられます。

■「A姉妹、突然の大変な病で・・・・・。
(憐れむような目で。)大丈夫ですか。
頑張ってください。」
私「はい・・・・・・・・・・・。」

立て続けに今度はK姉妹
○「A姉妹。大丈夫?お見舞いに行きますね。Y姉妹と同じブレストピアでしたね。
あそこなら大丈夫ね。頑張ってください。」


ここで私は大声で泣き叫ぶのです。

『病院へのお見舞いは遠慮いたします。そっとしておいて下さい。
どなたにも来て欲しくないんです。
Y姉妹、Y姉妹って、人と比べるのはやめてください。
Y姉妹は本当に直ったかどうかなんてわからないのではないですか?
手術をしてまだ一年も経っていないのでしょう。
5年間は再発の危険性が高いということご存知ないのですか?
それに今も再発の不安を抱えながら 治療なさっておられるはずですよ。
気休めの慰めはよしてください。
それに私の母とあまり変わらない70代の方と
私の症状が同じであるはずはないでしょう。
私はまだ40代なのですよ。』

泣きながら 目が覚め・・・・・しばらくぼんやりしていました。

そして、これが私の本当の姿なのかと思い、がっかりし 落ち込んでしまいました。
なんと高慢で高ぶった物言いなのでしょうか。肉の想い全開という感じです。

『また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、
これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。』マルコ7章20〜23節
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7月13日(日) 晴れ
聖日の朝、礼拝をお献げする為に教会に集い 心から主をほめたたえ、力いっぱい主を賛美いたしました。
最近礼拝説教をGOSPELにアップする作業を怠けていました。暫らくぶりに礼拝説教のまとめです。

今日の聖書の箇所はローマ書12章より

『 この世と調子を合わせてはいけません。
いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、
完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。
だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。
いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、
慎み深い考え方をしなさい。』
ローマ人への手紙12章2・3節

『 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって
互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。
勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。
望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。
聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。
あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。
祝福すべきであって、のろってはいけません。
喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。
自分こそ知者だなどと思ってはいけません。』
ローマ人への手紙12章9〜16節



この箇所から「私たちの心ー高ぶり」と題してみことばを取り次いで頂きました。

私たちクリスチャンは何か立派なこと・清い行いをしたので救われたというのではありません。
しかし、救われたあと、以前と同じであるということはあり得ないことです。
信仰が生活に現れていなければそれは救われているとはいえないのではないでしょうか。
『救いは行いによらず ただ信仰による』
と信じる私たち福音主義者は、救われたあとのあり方を軽視する傾向にあるのではないでしょうか。
聖書は高ぶる心を注意しなさい、慎み深い考え方をしなさいと言っています。
慎み深いとは 消極的な考え方・態度を示すものではなく、 
聖書の基準に照らした考え方・態度のことです。
私たちは弱い者で ・威張る・卑屈の両極端になりがちだからです。
救いは神の一方的な哀れみに拠るものであり、確かに主はなんどでも赦して下さるのですが、
いつまでも罪を犯しては赦して頂くことの反復で果たして良いのでしょうか?
私たちはこの世と調子を合わせやすい者です。
ですからこの世の(新聞等の)基準ではなく、聖書の基準で、みことばを食べるようにして
みことばの糧を日々頂き、蓄え、整えられたクリスチャンにして頂きましょう。
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7月11日(金)晴れ
今夜の聖書日課

◆サタンは主に答えて言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。』
ヨブ記1章9節

このことばは、昔 義人ヨブについてサタンが発した悪意ある質問であった。
しかし、今の世では、まさしくこの質問に該当する多くの人がいる。
彼らは神が繁栄を与えられるので、神を愛するのである。
彼らは逆境に陥るならば、誇っていた信仰を打ち捨てる。
もし彼らの回心の時からすべてがうまく運ぶならば、肉的な、
あわれな方法で神を愛するであろう。
しかし、一度患難に会えば、彼らは主に反抗する。
彼らの愛は、食卓を愛する愛であり、客をもてなす主人に対する愛ではない。
配膳の棚に対する愛であって、主人に対するものではない。
しかし真のクリスチャンは、この世では苦難に耐えて、来るべき世での報いを期待する。
旧約の約束は繁栄であったが、新約の約束は苦難である。
キリストの次のみことばを覚えよ。

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、
実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」

あなたが実を結ぶことを願うならば、苦難に耐えなければならない。
あなたは「ああ、たまらない」と言う。しかしこの患難こそ、尊い実をもたらす。
患難を受けるクリスチャンは、患難に会って喜ぶことを学ばなければならない。
患難の多い時には、キリスト・イエスによる慰めも豊かだからである。
神の子どもであるならば、あなたにとってむちは避けられないことを覚えて、心を安んじなさい。
すべての金の延べ棒は、いつかは火の中を通らなければならない。
恐れてはいけない。むしろ、そのような実りの時があなたのために備えられていることを喜べ。
その時あなたは、地上を離れて天国に入るにかなう者とされるからである。
あなたは現在に対する執着から救われ、やがて示される永遠のものを熱望する者とされるであろう。
現在、利得を離れて神に仕えていると感じるなら、来る世の無限の報酬を喜ぶことになろう。

Charles Haddon Spurgeon 著 「夕ごとに」



父なる神様、御名を崇め心から感謝をいたします。今日はヨブ記からのみことばを有難うございます。
ヨブ記の最終章において 主はヨブの半生よりも後の半生をもっと祝福された、と記されています。
すべてのことを働かせて益として下さるというあなた様の約束を信じます。
今はこの患難をも恵みと覚え 喜び、感謝して受けとる者とさせてください。
どうぞ、聖霊様で満たし、強めてください。
尊い主イエス・キリストさまの御名によってお祈りいたします。 アーメン
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愛唱讃美歌 『神はわが櫓(やぐら)』
讃美歌 267


1.
神はわがやぐら わがつよき盾

苦しめるときの 近きたすけぞ

おのが力 おのが知恵を たのみとせる

陰府(よみ)の長(おさ)も など恐るべき


2.
いかに強くとも いかでか頼まん

やがては朽つべき ひとのちからを

われと共に 戦いたもう イエス君こそ

万軍(ばんぐん)の主なる あまつ大神


3.
あくま世に満ちて よしおどすとも

神の真理(まこと)こそ わがうちにあれ

読みの長よ ほえ猛りて 迫り来とも

主のさばきは 汝(な)がうえにあり


4.
暗きの力の よし 防ぐとも

主のみことばこそ 進みにすすめ

わが命も わがたからも とらばとりぬ

神のくには なお我にあり

Ein' Feste Burg ist unser Gott
Martin Luther 1529

「屈するなかれ」と「神はわが櫓」は私の愛唱讃美歌です。
この曲を賛美すると 神さまからの力と希望を戴くことが出来ます。
マルチン・ルタ−の曲です。私のお葬式にはこの讃美歌を希望しています。
主を心から褒め称えます。主に栄光がありますように。
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7月7日(月)晴れ
●『私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。
主が私たちに報いてくださったすべての事について……。』イザヤ書63−7

あなたにはこのことができないのか。
あなたには今までに経験した恵みがないと言うのか。
あなたは今ふさぎ込んでいるが、かつてイエスがあなたに会って
「わたしのところに来なさい」と言われたあの喜ばしい時を忘れているのか。
あなたは、イエスがあなたの足かせを切り、くさりを地面に投げ捨てて
「わたしはあなたの縄目を解いて自由を得させるために来たのである」
と言われた歓喜の時を思い出すことができないのか。
あなたの配偶者の愛が忘れられても、人生の路傍には尊い道標があって、そこにあなたに対する神のあわれみの楽しい記憶が、こけに覆われもせず、なお読むことができるはずではないか。
あなたは、あなたが今かかっているようなひどい病気には、今までかかったことがないと言うのか。
イエスがあなたの病気をいやされなかったことがあるか。
あなたは今ほど貧乏になったことはないと言うのか。
イエスがあなたの欠乏を満たされなかったことがあるか。
あなたは今ほどの困難に出会ったことはないと言うのか。
イエスがあなたを助けられなかったことがあるだろうか。
立ち上がってあなたの経験の川岸に行き、そこで、草を手折ってかごを編め。
あなたの幼い信仰は、その中にあって無事に流れるであろう。
[ 神があなたのためになさったことを忘れるな。]
あなたの記憶の本のページをめくって、昔の事を考えよ。
あなたは、ミツァルの山を思い起こすことができないのか。
主はへルモンであなたに会われなかったか。あなたは喜びの山々に登ったことはなかったか。
たしかに助けられたはずである。
それなら、昨日の深い恵みにまで少し後戻りして、たとい今は暗くても過去のともしびをともせ。
それがやみのうちに輝くので、あなたは、夜が明け、暗い影が逃げ去るまで、主に頼ることができるだろう。

「主よ。あなたの哀れみと恵みを覚えていてください。
それらはとこしえからあったのですから。」

By Charles Haddon Spurgeon
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7月4日(金)晴れ時々曇り
聖書日課

日々聖書日課を開くと本当に不思議なことに 私が必要としている箇所が用意されていることです。
感謝いたします。

◆ひしがれた心

『人の心は病苦をも忍ぶ。
しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。』
箴言18章14節

目の中に小さなごみが入ったり 指先に小さなとげがささったりしても、痛いし 気になって仕方がありません。
いざ、自分が癌になって断末魔の苦しみに会ったら、はたして耐えられるのかと、時々思います。
しかし、絶え間ない脇腹と関節の痛みに悩まされながら、寝たきりで、『闘病』というユーモアとペーソスにあふれた五冊もの本を出された後藤光三先生のことを思います。
するとやはり、「人の心は病苦をも忍ぶ」とは、ほんとうだと実感するのです。
人間の内なる人、すなわち心がしっかりしているなら 人は病苦やその他の試練をも耐えていきます。
使徒パウロも、こう語っています。
「ですから、私たちは勇気を失いません。
たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」�Uコリント4-16
しかし、心がひしがれてしまうと、人生の重荷・苦しみ・試練に、だれ一人耐えられなくなります。
ひしがれた心とはどんな心でしょうか。
● 生きる目的や意味を全く見失ったと思っている心。
● 愛を見失い、希望を見失い、神と人に捨てられたと思っている寂しい心。
● 罪の責苦に苦しんでいる心。
● 罪の奴隷の状態から這い上がれないと思っている希望のない不安な心。

しかし、神は愛です。
神は「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」イザヤ書42−3
と聖書の中で言われました。さらにイエス・キリストは、こう言われます。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。・・・・・・・・
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
マタイの福音書9章12・13節
神のみが、ひしがれた心をいやしてくださるのです。 アーメン
「今日の知恵・明日の知恵」より
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