2003 06/23 18:47
Category : 日記
日曜日の礼拝説教をGOSPELにアップしていますが 見て頂ける機会を増すという意味で
同じものをb-berryのDiaryにもアップいたします。
今回の説教は牧師先生のお証もありました。私の拙いまとめ方では感動が薄らいでしまいますが、
大変心に響くみことばの解き明かしでした。
礼拝説教 「死んでも大丈夫」
第�Tコリント15章54〜58節
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、
動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
人間の究極的な敵は 死です。
しかし死んだらおしまいではありません。
●1.復活によって、イエス・キリストは人間ではなく神さまだったことがわかり
十字架の死によって 罪の贖いは完全なったのです。
●2.イエス・キリストは死を打ち破ったお方・死を克服できたお方なのです。
十字架を見ましょう。
復活されたので十字架につけられたままではありません。
●3.死んでも大丈夫
イエスさまは初穂として甦られました。
以前の姿とは違う。。。栄光の体に変えられたのです。
初穂とは・・・・甦りの第一号がイエス・キリストです。
次に過去に亡くなった聖徒たち、モーセもエリヤも、たくさんのクリスチャンがいます。
そして、私たちです。・・・・やがて主と同じ 栄光の体に変えられます。
主と共に永遠に生きることが出来るのです。
ですから 死を恐れなくてもいいのです。
キリストに希望を持たない人々にとっては死はすべての終わりのときです。
しかし、信じる私たちクリスチャンにとって 死は終わりではなく
永遠の命の 栄光への入り口に過ぎません。新しい命の始まりです。
イエス・キリストが死に打ち勝って甦られたことにより 主の復活こそ真の希望なのです。
30年前のことになりますが、当時3歳だった私の子供の行方がわからなくなりました。
翌日、団地の浄化槽から死体で発見されたのでした。
30年たった今でもその子の名前を口に出して呼ぶことが出来ません。
本当に苦しくて、苦しくて、
「神さま どうしてこんなことになったのですか?」と。
不思議と神さまに恨み言は言いませんでしたが、家内と共に一生懸命祈りながら聖書を読みました。
そして、第�Tコリント10章13節のみことばが心に刺さりました。
”あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような
試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。”
亡くなった子供は三歳でしたが神さまを信じていました。
亡くなる少し前のこと 風が強い日に 公園の砂場で
「神さま 風を止めてください」と祈っていた姿を家内は見ていました。
3歳のこどもであっても信仰をもてないということは無いのです。ちゃんと分かるのです。
ダビデも同じ体験をしています。
わが子が亡くなる前迄は、泣いて伏して祈ったと聖書にはあります。
しかし、亡くなったという知らせを受けてからは
体を清め着替えをし、しっかりとして姿を現したのです。
これは ”死んだ子供は帰って来ないけれども 自分が子供の所にやがて行ける”
という確信と希望を持ったからです。
ダビデは天国への希望を理解していたのです。
私も子供を亡くしたことで天国がより具体的になりました。
天国で再開するという希望があるというのは何と感謝なことでしょう。
それから神さまを知らずに子供のまま亡くなってしまう子供達がいることを覚えて、子供伝道のビジョンを与えられたのです。
私たちは死んだらおしまいではありません。
死は 新しい命の始まりなのですから・・・・・。
同じものをb-berryのDiaryにもアップいたします。
今回の説教は牧師先生のお証もありました。私の拙いまとめ方では感動が薄らいでしまいますが、
大変心に響くみことばの解き明かしでした。
礼拝説教 「死んでも大丈夫」
第�Tコリント15章54〜58節
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、
「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。
神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、
動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。
人間の究極的な敵は 死です。
しかし死んだらおしまいではありません。
●1.復活によって、イエス・キリストは人間ではなく神さまだったことがわかり
十字架の死によって 罪の贖いは完全なったのです。
●2.イエス・キリストは死を打ち破ったお方・死を克服できたお方なのです。
十字架を見ましょう。
復活されたので十字架につけられたままではありません。
●3.死んでも大丈夫
イエスさまは初穂として甦られました。
以前の姿とは違う。。。栄光の体に変えられたのです。
初穂とは・・・・甦りの第一号がイエス・キリストです。
次に過去に亡くなった聖徒たち、モーセもエリヤも、たくさんのクリスチャンがいます。
そして、私たちです。・・・・やがて主と同じ 栄光の体に変えられます。
主と共に永遠に生きることが出来るのです。
ですから 死を恐れなくてもいいのです。
キリストに希望を持たない人々にとっては死はすべての終わりのときです。
しかし、信じる私たちクリスチャンにとって 死は終わりではなく
永遠の命の 栄光への入り口に過ぎません。新しい命の始まりです。
イエス・キリストが死に打ち勝って甦られたことにより 主の復活こそ真の希望なのです。
30年前のことになりますが、当時3歳だった私の子供の行方がわからなくなりました。
翌日、団地の浄化槽から死体で発見されたのでした。
30年たった今でもその子の名前を口に出して呼ぶことが出来ません。
本当に苦しくて、苦しくて、
「神さま どうしてこんなことになったのですか?」と。
不思議と神さまに恨み言は言いませんでしたが、家内と共に一生懸命祈りながら聖書を読みました。
そして、第�Tコリント10章13節のみことばが心に刺さりました。
”あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような
試練に会わせるようなことはなさいません。
むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。”
亡くなった子供は三歳でしたが神さまを信じていました。
亡くなる少し前のこと 風が強い日に 公園の砂場で
「神さま 風を止めてください」と祈っていた姿を家内は見ていました。
3歳のこどもであっても信仰をもてないということは無いのです。ちゃんと分かるのです。
ダビデも同じ体験をしています。
わが子が亡くなる前迄は、泣いて伏して祈ったと聖書にはあります。
しかし、亡くなったという知らせを受けてからは
体を清め着替えをし、しっかりとして姿を現したのです。
これは ”死んだ子供は帰って来ないけれども 自分が子供の所にやがて行ける”
という確信と希望を持ったからです。
ダビデは天国への希望を理解していたのです。
私も子供を亡くしたことで天国がより具体的になりました。
天国で再開するという希望があるというのは何と感謝なことでしょう。
それから神さまを知らずに子供のまま亡くなってしまう子供達がいることを覚えて、子供伝道のビジョンを与えられたのです。
私たちは死んだらおしまいではありません。
死は 新しい命の始まりなのですから・・・・・。