2003 06/23 18:46
Category : 日記
受難日の聖書日課
◆『”どくろと呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。
犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。』ルカの福音書23章33節
ゴルゴダの丘
慰めの丘はどくろの丘である。慰めの家は十字架の木で造られている。
王の祝福の宮は裂かれた岩(それは主の脇腹を刺した槍で裂かれた)の上に建てられている。
聖書に記された歴史の中で、カルバリの悲劇ほど魂に喜びを与えるものはない。
この罪の世の暗いときに 御使いの歓喜にもまさる優しい力をもって慰められるとは
なんと不思議なことだろう。
ああ、悲しみに沈む目よ、ベツレヘムの星のあたりよりも 十字架にこそ向けられるように
ゴルゴタの、真昼なのに真夜中のように暗い所から光が輝き、
かつてののろいの木の陰からは野の花が美しく咲く。
水のない乾いた地に、神の恵みは水晶のような清水あふれる泉を掘りだし、
その一滴一滴は人類の苦悩をいやすことができる。
戦いの時を通ったあなたは、慰めを見いだしたのがオリーブ山でもシナイの丘でも
タボルの峰でもなく、ゲツセマネであり、ガバタであり、ゴルゴタであったことを告白するだろう。
ゲツセマネの苦菜がしばしばあなたのいのちの苦味を取り、ガバタのむちは心労を追い散らし、
カルバリの苦しみは、他のすべての苦痛を除く。
こうして、カルバリの苦しみは私たちに、他のものと比べることのできない豊かな慰めを与える。
もしキリストが死なれなかったとすれば、私たちは、
決してキリストの愛の高さ、深さを知らなかったであろう。
また父なる神が御子を与えて死なせられなかったならば、
その深い愛をさぐることができなかったであろう。
私たちが日々受けるあわれみは、すべて愛を歌っている。
それはさながら、耳をあてると故郷の深い海のささやきが聞こえる貝がらに似ている。
しかし私たちが、海そのものの音を開こうと願うなら、
日々の祝福を考えるだけでなく、十字架を見上げなければならない。
愛を知ろうと願う者は、カルバリに退き、そこで死なれた悲しみの人を見なければならない。
By Charles Haddon Spurgeon
◆『”どくろと呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。
犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。』ルカの福音書23章33節
ゴルゴダの丘
慰めの丘はどくろの丘である。慰めの家は十字架の木で造られている。
王の祝福の宮は裂かれた岩(それは主の脇腹を刺した槍で裂かれた)の上に建てられている。
聖書に記された歴史の中で、カルバリの悲劇ほど魂に喜びを与えるものはない。
この罪の世の暗いときに 御使いの歓喜にもまさる優しい力をもって慰められるとは
なんと不思議なことだろう。
ああ、悲しみに沈む目よ、ベツレヘムの星のあたりよりも 十字架にこそ向けられるように
ゴルゴタの、真昼なのに真夜中のように暗い所から光が輝き、
かつてののろいの木の陰からは野の花が美しく咲く。
水のない乾いた地に、神の恵みは水晶のような清水あふれる泉を掘りだし、
その一滴一滴は人類の苦悩をいやすことができる。
戦いの時を通ったあなたは、慰めを見いだしたのがオリーブ山でもシナイの丘でも
タボルの峰でもなく、ゲツセマネであり、ガバタであり、ゴルゴタであったことを告白するだろう。
ゲツセマネの苦菜がしばしばあなたのいのちの苦味を取り、ガバタのむちは心労を追い散らし、
カルバリの苦しみは、他のすべての苦痛を除く。
こうして、カルバリの苦しみは私たちに、他のものと比べることのできない豊かな慰めを与える。
もしキリストが死なれなかったとすれば、私たちは、
決してキリストの愛の高さ、深さを知らなかったであろう。
また父なる神が御子を与えて死なせられなかったならば、
その深い愛をさぐることができなかったであろう。
私たちが日々受けるあわれみは、すべて愛を歌っている。
それはさながら、耳をあてると故郷の深い海のささやきが聞こえる貝がらに似ている。
しかし私たちが、海そのものの音を開こうと願うなら、
日々の祝福を考えるだけでなく、十字架を見上げなければならない。
愛を知ろうと願う者は、カルバリに退き、そこで死なれた悲しみの人を見なければならない。
By Charles Haddon Spurgeon