愛と死を見つめて
 これはぼくが徐々に生育していく過程において知り得た事実である。決してその当時小学校の低学年だったぼくが、はっきりとは判りようがなかったことである。

 幼いころ、吉永小百合を見た記憶がある。母の実家の隣の家を彼女が訪ねてきたからだ。たまたまその日、ぼくはおばあちゃんのところへ預けられていて、突如として起こった喧噪を目の当たりにしてひどく驚いたものだった。おばあちゃんが外へ出てはいけないというので、二階の窓から別世界を見るようにして隣の光景を見ていた。大きな庭のある家だったが、通りにまで人があふれていた。近所の人たちを押しのけて、近隣の野次馬と芸能ファン、とりわけ全国津々浦々からやってきたサユリストたる連中が押し寄せ、警備員では収拾がつかなくなり、挙句警察が出てくる始末だった。

 そうして、隣の家の敷地内は報道陣だけになった。彼らは嵐の如く、吉永小百合に向かってシャッターを浴びせつづけた。あのとき、吉永小百合が手にしていた花は、百合だった。その写真は女性週刊誌はもちろんのこと、翌日の全国版新聞紙面にも載せられたのだった。

 その年、「愛と死を見つめて」という歌が、レコード大賞を受賞した。これまで全く無名だった青山和子という歌手が、その歌を歌っていた。「マコ甘えてばかりでごめんね。ミコはとっても悲しかったの」 こんな歌詞だったと思う。

 恋する女性の悲しすぎる手記。二人の往復書簡。病棟で知り合った男女の恋。その恋が実り始めるころ、女性の頬は悪性骨肉腫に冒されていると判明する。女性は顔の半分を切除されるくらいなら、命を捨てようと思う。愛する人に愛されたまま死んでいこうとする。だが、男は生きることを決意させる。頬骨を切除し、それでも自分を愛してくれるといった人への希望。そして、逃れることのできない死への怖れ。儚さ。命果つる場面では、ミコがこの世に生まれて、人を愛することができた歓びをも綴っている。

 女の命である顔を切除してさえも、愛を貫こうとした女性の手記、二人の往復書簡は出版され、ベストセラーとなり、一世を風靡した。そして、日活で映画化された「愛と死を見つめて」は日本中を涙させ、空前のヒットとなった。主演吉永小百合、共演浜田光夫であった。

 映画を撮り終えた吉永小百合は、ミコの墓参りに来ていた。そして、ミコの実家を訪れ、ご両親に哀悼の意を表したのだった。美しい女性だったが、それ以上に分をわきまえ、賢明で素晴らしい女優だった。吉永小百合 早稲田大学、ミコ 同志社大学在学中のことだった。

 で、定かじゃなかったぼくの記憶に色づけしてくれたのは、12〜3年程前、交互に昔の名前でやってきた浜田光夫と青山和子。ともに夏祭り盆踊り大会のスペシャルゲストとして、二人はやってきた。なんで彼らを呼んだかというと、偶然予算の範囲内のリストにあったからだ。

 二人ともあの映画のことを覚えていなかった。ここがミコの生まれた町だということを。が、青山和子は注文をつけずとも「愛と死を見つめて」を歌った。持ち歌はそれしかないくらいに、彼女はあの年だけの人気歌手だった。でも、中高年の人たちは、とても懐かしそうにその歌を聴いていた。竹笹と提灯飾りのやぐらの上で、彼女は錆びつくことなく、変わらずその歌を何度も繰りかえし歌った。

 浜田光夫は吉永小百合の相手役の面影は消えていた。ただのおっちゃんになってしまっていて、仕方なく暮らしのためにどさまわりをしているふうを隠せなかった。彼にとって、ミコの町はただ過ぎ去った過去であり、郷愁すら抱けないようだった。

 ぼくは販売促進というビジネスの役割の中で、いろんな芸能人と会ってきた。宇多田ヒカルのお母さん、ジャイアント馬場、天地真理、川中みゆき、坂本冬美・・・・・・、ラジオ大阪公開番組、明治乳業提供「こんにちは奥さん」をお聞きになったかたはいらっしゃらないだろうか?すでに番組が終了して八年が経った。ぼくがそのビジネスを離れて八年が経った。

編集 エリーザベト : とても良かったです。出来れば、この歌の歌詞が知りたいのですが・・・。おわかりになりますか。私は現在アメリカのオレゴン州に住んでおります。では、どうぞお元気で♪~