35years
 ”It's safe or suitable for swim” VS ”Farewell、My Johnny”

 二つの短編には35年の隔たりがある。先に新しいほうを読んで、後で古いほうを読んだ。新しいほうは今年山本周五郎賞を受賞しているが、古いほうは何も受賞していないと思う。ページ数は新しいほうが古いほうの半分で、文字数は三分の一ほどだ。

 前者が新しいほうで後者が古いほうだが、いずれのハードカバーの表紙にも原題と共に英語のタイトルが添えられている。前者が白、後者が黒をベースにカバーが意匠されているのが対象的だ。男女の違いこそあれ、共に作者三十代半ばのときの作品である。

 前者を昨晩読んだ。おそらくプリズンホテルを読んだ余韻が影響していたのかもしれない。実に他愛なく、実に短い時間で、週刊誌をぱらぱらとめくる感じで、登場人物の名前さえ記憶できていない。そして、後者を先ほど読んだ。あるひとに勧めていたからでもある。蔵書は初版より10年を重ねて増刷されたものだったが、イントロだけであのころの記憶が鮮明に甦ってきた。今回はプレズンホテルほどハートを揺すぶらなかったが、前者との差は比較に値しなかった。なつかしいだけでなく、作者の若かりしころのビートがやけに切なく胸に響いたのだ。やはりいい作品だった。

 が、その作品ですら今は絶版となっている可能性がある。もしそうなら、図書館へ行くか全集の一部を手に入れるしか読む方法はない。かつて、文庫は文芸作品の宝庫、倉庫といわれてきた。だが、一部人気作品を除き、芥川賞および直木賞受賞作までが次々と絶版となり、姿を消している状況は覆しようもなくなった。菊池寛の「真珠夫人」などは異例中の異例だ。全くのヒョウタンからコマみたいなもので、テレビドラマがあったからこそ復活できた。今や文庫も流行を追い、まるで芸能界のようにビルド&スクラップを繰り返しはじめてきた。

 束の間の栄光だけがもてはやされ、その栄光は歴史を持てなくなった。人々はそれに追随していく。流行に感動し、置き去りになったものを忘却していく。流行り廃りは当然のことと、人々の気持ちの移ろいが早くなってきた。まるでハリウッド映画を見ているかのごとくに。

 ぼくは抗うでなく、あるがままをこの目で見つめていたい、と思う。決して文学は進化していない。日々醸成されていない。最も停滞している芸術だという確信が揺らぐときまで。