カフェは時間を買うところ
 重厚な木製の扉、ほのかに店内を映し出すゆるやかな照明、琥珀色した魅惑的な空間、どことなくインテリじみて見えるマスター・・・・・・・。少年のころ、喫茶店はまだ見ぬ世界がそこにあるかのように、何かを期待せずにはいられない大人の世界だった。

 時代を経て、最近はチェーン店のコーヒーショップ、しゃれたオープンテラスのカフェ、テイクアウトの移動販売コーヒーに至るまで、いろいろなコーヒーを飲む場所がふえてきた。でも、友だちと議論や駄弁りに入り浸ったり、読書や物書き、思索のために長居したりすることなど・・・・・、そんな思い出に残る喫茶店はノスタルジアのようであり、残された場所はとても貴重なものとなっている。

 20分ほど歩くと、さびれた商店街の端に「ルンバ」という喫茶店がある。冒頭の文句ほどにいかしたところではないが、照明以外はほとんど木製のつくりで、朽ちかけたテーブルのふちが、ぼくが生まれるずっと以前の年輪を感じさせる。そこでは先日八十歳になったばかりの老婦人が、亡夫の遺志を継ぎ、毎日細々と珈琲と紅茶だけを入れている。騒々しい客はめったに来ない。携帯で話す客も殆ど来ない。スポーツ新聞はもちろん、週刊誌の類いも全くない。老婦人にはそこまで手が回らない。朝起きて、自分の身のまわりのことをすませて、どうにか午前11時に店を開ける。そして、ただひたすらカウンターの椅子に腰をおろし、数少ない客がやってくると、立ち上がって珈琲を入れる。亡夫がやっていたそのままに。

 これまで彼女の役割はウェイトレスだった。自分の役割をするものがいなくなって、彼女はゆっくりと自分が入れたコーヒーを客席まで運んでくる。二度動くのは体がきついので、水をいっしょに持ってくる。そして、彼女はほがらかに挨拶する。「どうぞごゆっくり」

 優雅に時間をすごせなくなったぼくは、老婦人の好意に反して、そそくさを店を出て行くことが多いのだが、ときどき読書をしている少女を目にする。それは一杯の珈琲で一冊の本を読破しているかに見える。不安げな眼差しで、ため息をついたり天井を見つめている青年がいたりする。彼らは文学少女だったり、悩める青年だったりするんじゃないか、と思いを馳せてみることもある。あんな時代があったのだと。

 「ルンバ」は老婦人の命と共にある。午後6時に店は閉まるから、日曜日はお休みだから、ぼくがそこでゆっくりできることはあまりない。優雅な時間が持てなくなったぼくに、かのマスターがお断りを言っているのかもしれない。

 ぼくが「ルンバ」を知ったのは10ほど前のこと。生まれた町なのに、ぼくが生まれる以前からあった店なのに、そして、マスターが25歳のときから始めていた店だったのに、それまでぼくは知らなかった。学生時代の名残がある店が自分の住む町に残っていたことを。七年前まで、自営をはじめるまでの三年間、ぼくはどれだけ「ルンバ」で思索に励んでいたことだろう。僕はここで時間を買って、自分の道しるべを見つけることができた。一日たった250円で―。

 演出家の蜷川幸夫はこう語っている。「喫茶店という、どこにも属さないニュートラルな空間は、そこを利用するものにとってだけ固有の意味をもつ。その意味は、やがて時間をも意味づけてゆくのだ。時とともにその意味づけられた空間と時間は、四角い箱のようにぼくの内部に蓄積されてゆく」

 時代とともに失われたものは、空間だけではなく、そこで憩う人々のゆとりもまた失われたではないか、とそんな気がしないでもない。「カフェは時間を買うところ」と、パリの人々がいうように、かつての喫茶店には安らぎの時間が流れている。懐かしい昔ながらの喫茶店を見かけたなら、一度立ち寄ってみたらどうだろう。そこでは、今も濃厚な時間が漂い、芳醇な香りとともにノスタルジックな記憶に遭遇できるかもしれない。