昭和が明るかった頃 抜粋
 赤木圭一郎は詩を書き、カミュの『シーシュポスの神話』と倉田百三の『出家とその弟子』を好んで読んでいた。彼はその意味でも時代の子だった。ただ、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』には感動し、瓦礫とごみの中でみじめに死んでいったチブルスキーに強くひきつけられた。そして、あんな映画ならぜひ出たいものだ、と思った。

 1960年6月15日、赤木圭一郎はその代表作となる『霧笛が俺を呼んでいる』(監督・山崎徳次郎)の撮影中だった。彼はスポーツカーを運転して撮影所へ向かう途中、日米安保反対のデモ隊と行きあった。東大文学部学生樺美智子がデモ隊と警官隊のもみあう混乱のなかで死んだ日である。赤木圭一郎が、撮影所でもテレビで放映されつづけるデモのようすを熱心に眺めていたことを、その作品の共演者であった西村晃は記憶していた。

 1961年2月14日、赤木圭一郎は日活撮影所で昼休みにゴーカートを運転中に事故を起した。そのカートはブレーキとアクセルが逆についていたから、長門裕之たちは「あいつ、踏み間違えやがったぜ」と笑いあった。しかし、エンジン音はいっこうに衰えず、次の瞬間、どんという鈍い音が響いた。スピードを落とさぬまま、カートはスタジオの鉄扉に真っすぐぶつかったのである。走って引き返した宍戸錠が見たのは、気を失った赤木圭一郎の姿だった。その顔があまりに美しいままなので、当初は誰も頭蓋骨骨折などという大怪我だとは思わなかった。

 15歳の吉永小百合は21歳の赤木圭一郎が好きだったのだと思う。彼女はなかなか日活撮影所の空気になじめなかった。気まじめで優しく、またそれゆえに現代思潮の流行をまともに反映しがちな赤木圭一郎にだけは、似たもの同志のひそかな愛着を感じていたようである。