マドンナ
 娘と息子といっしょに近くのパスタの店へランチを食べに行った。席に着いたところ、そこは予約席だからと別なテーブルへ移らされた。よく見ると、崩した書式のイタリア語で、小さな『リザーブ』のポップがカードケースに入れて置かれていた。

 ぼくたちが別なテーブルに着くとすぐ、垢抜けした女性二人が入ってきた。美人のほうが年齢にわりに、ずいぶんと若いファッションを着こなしていた。いわゆるへそだしルックというやつ。彼女が誰か、すぐ記憶がよみがえった。

 一昔前、テレビのコマーシャルにも出た東進ゼミナールの古文のマドンナ、○野文子だった。一億円講師の呼び名も高く、受験用参考書の売れ行きも好調で、受験生の人気の的だった。古文を必要としない理系の受験生までもが彼女の講義を受講しようとさえした。

 ぼくやぼくのかみさんと年齢はあまりちがわない。加えて彼女の兄さんとぼくとは同級生だった。彼女は高校の同級生と早くに結婚して○野姓になっていた。実に奇遇だった。が、彼女はぼくのことを知っていない。ぼくが彼女を知った理由は、たまたま同級生の妹で有名人になっていたから。

 その同級生というのは、頭はよかったがいい男の部類ではない。義務教育の時代から私立の進学校へ移っていて、エリートコースを歩んでいた。そして、彼の妹二人は地元の高校を普通に卒業して、一人は女優に一人は平凡な道を歩んでいるはずだった。

 が、人生とはかくもままならぬものであろうか。同級生と結婚をし、いちばん平凡な道を進んでいたはずの彼女が、一人の人間として自立し、人生において見事に成功を収めていった。

 ぼくの目はパスタを食べながら、何度も彼女に注がれる。イタリア調の照明のせいもあるだろうが、彼女はぼくたちよりもずいぶんと若く輝いている。一昔前のマドンナはいまだに健在だと思った。

 これから10年の後、ぼくもいまだ健在だと思われるようにありたいものである。