真っ白な記憶
 ほんのときおりだけれど、記憶が真っ白になることがある。たとえば、ある場所までたどり着いた道を忘れてしまっているとか、顔見知りであるはずの人物の名前を忘却しているとか、数ヶ月前に見たビデオを無意識にレンタルしてしまうとか。

 ひとは僕のことを物覚えがよいという。ぼくの記憶によって抜き差しならない思いをしたひとからは、記憶力抜群の人物だと揶揄されることもある。

 どうも記憶が真っ白になることと、記憶力とは脳細胞の別な部分であるような気がする。といって、ぼくは若年アルツハイマーの心配をしているわけでもない。

 都合よくいやなことだけを記憶の外を追いやることができたなら、ひとはどれだけ幸せになれるだろうか。だが、人生は無粋なもので、折々大切なことを忘却させ、しがらみのようなものをいつまでも不意打ちのようによみがえらせてくる。

 だから、ひとはよく酒を飲むんだろうと思ったりもする。酔いしれることによって、自分の都合のよい記憶をたどりながら、束の間心地よい郷愁にひたるのだろう。

 が、こんなくだりを記したところで、ぼくの記憶が真っ白になることの説明にはならない。何でだろうと、しかと考えてみる。日々が単調で多忙だからだろうか? いや、ぼくよりもっともっと単調な仕事で多忙な人はごまんといる。

 ぼくには空想癖がある。夜、ふとんの中で夢見るように想像する。決してアブノーマルなことや億万長者になることや有名人になることなどは考えない。空想には過去、現在、未来があり、ぼくは思うまま、自由自在にそこかしこで好きなことをする。そうして、やっぱりぼくはいつも男で素敵な女性を探している。それは映画「バック・トゥ・ザ・ヒューチャー」の世界に似かよっているのかもしれない。

 また雨が降っている。ここ3週間でまともに晴れた日はわずか五日だけだ。どうにもエルキュール・ポアロの三分の一にも満たない脳細胞に靄(もや)がかかっているようである。失われた記憶でない真っ白な記憶、一片のメモすら必要ないほどの些細なことの記憶、それがぼくには見つからない。今日、ぼくはどの道を通って商工会議所まで行ったのか思い出せない。一ヶ月前に、税務署から源泉納付書が届いていたことすら思い出せないのだ。

 なぜか小学三年生のとき転校していった女の子の面影をよく覚えている。文通や年賀状のやりとりすらしなかったのはもちろん、個人的な会話すらしていなかったというのに。名前は洋子ちゃんだった。

 頭の中に真っ白な記憶というノートがあって、自分の大切なことだけを書き込めたなら・・・・・、などと他愛ないことを考えている手仕舞いの時間である。間断なく激しく降る雨音を聞きながら・・・・・。