ケイチュウ白書
 某女子大教授による「ケイチュウ白書」なるものが出版されたようである。ピカチュウ、ジコチュウに続く三番目のチュウとして、ケイチュウは今年の流行語大賞を受賞するのではと、専ら注目されている。

 最近では、携帯は、若い世代を中心に、会話の道具としてよりもメールの交換に使われている。いわゆるメールごっこ、短い言葉で、何度もやりとりする。料金が安価なことも理由だが、短い言葉で往復書簡をかわしあうことを楽しみにしている。

 で、「ケイチュウ白書」では、携帯依存症なるものが取り上げられている。夜、メールが入ってこないと、切なくて、物悲しくて、胸が苦しくて、眠れないなどという症候群が多発しているらしい。名づけて『ケイチュウ・シンドローム』、鬱々たる病のようだ。待てど来ぬメールを待ち続け、挙句、誰彼なしにメールを送り始めるという始末。

 ま、そこまでいかなくても、かなりの人々にとって、携帯なしの生活は考えられなくなった。僕はその「ケイチュウ白書」なるものを読んでいないので、ジコチュウでしか考えを言えないのだが、実際、携帯電話なるものは、ある面でタバコほどに他人に迷惑をかけている。劇場で、講演会で、スポーツの試合で、病院で、電車の中で、人々が集まるいろいろな場所で、どれだけ静寂を破り、どれだけ雑音を流していることだろう。自ら心せねばと思っている。

 公園のベンチにひとり腰をかけ、黙々とメールを打っている乙女の姿は、一面叙情的でもある。遠距離で話すことができないからかもしれない。けれども思うのだ。顔を合わせて、目を見つめあって、言葉を声に出して言わなくては、本当の心情はわからないのではないか。男女の間だけではなく、人々の交流において、肌を接さずに、真の理解は難しいのではないか、そう思われてならないのだ。時代の流れとはいえ、こんなちっぽけな道具に毒されたくはない。もちろん、出会い系などは論外である。

 ○○さん、あなたは「ケイチュウ」ですか?