女性たちへ〜ロシアより愛を込めて〜
 議論なるものが嫌いである。特に最近、議論することを面倒だと思うようになった。どちらかというと短気で、少々頭に血が上りやすいたちで、また物事を冷静に理詰めに考えることが苦手だからでもある。

 が、議論にもいろいろあって、20世紀半ば、『革命か反抗か』という−カミュ=サルトル論争―は、思想的に、文学的に、歴史的にも世界的に貴重なものとして残っている。彼らの論争は、時の流れとともに、わずかにサルトルのほうに軍配が上がったようであるが、互いの主義主張、反駁は、まさに微に入り細に入る絶妙のものだったといえる。彼らは文学史上の好敵手だった。

 サルトルのよき伴侶だったボーヴォワールは、自身の回想録、『事物の力』の中で次のように述べている。
 「カミュは観念論者、モラリスト、反共産主義者だった。彼は一時<歴史>に譲歩せざるをえなかったが、一刻も早くそこから抜け出そうとしていた。彼は人間の不幸に対して敏感でありながら、その不幸を<自然>の罪だとしていた。サルトルは1940年以来、観念論を拒否し、見にしみついた個人主義から抜け出して、<歴史>を生きようと努力してきた」

 ボーヴォワールのこの言葉は、どことなくわかるような気がする。でも、ぼくは、『ぎらつく太陽のせいで人を殺した』というムルソーの告白は、自然の罪にちがいないのではないかと、『異邦人』を読むたびに思うのである。

 どうも話が飛躍しすぎたようである。国会中継における議員連中の質疑応答などは論争にあらず、野次怒号が飛びかい、のらくくらりとかわす与党に、全くもって論破できない無能な野党・・・・・。痴話喧嘩のようで、みっともなくて、レベルが低くて、あほらしくて見てられないのである。

 で、本題だが、Gaiaxというコミュニティの中で、一日300〜400ヒットを数える人気サイトのかたが、突如悲痛なクローズ宣言をしているのである。望むべくもなく、傷ついてしまって・・・。たまたま本日のぞいてみたら、以下の記述がされていた。

 「”光のかわりに闇がきた”ここはもう2度と 帰ってくることのない 大切な人々との かけがえのない思い出が 散りばめられている わたしの聖域でした 天国のMKJごめんね もうがんばれないや」

 詳細については、他者である自分のうかがい知れぬところであるが、わかる限りにおいて述べると、執拗かつ破壊的な掲示板攻撃にある。相手は偏執狂のようであり、病的でもあるのだろうと察する。面倒を逃れるためには、初めに慎重な偵察ありきなのだろうが、ネット掲示板にそこまで神経は使えない。時を経て、回復されんことを祈るばかりである。

 無用な議論、不用意な論争、無意味な言い争い、インターネットの時間の多くを、そんなことにつぎ込んでいる人がけっこう多いことに驚かされる。見えないことを幸いに、ヒーローのように立ち上がる人がいる。悪魔のように、ジェイソンのように、しつこくまとわりつく人がいる。見えない恐怖のやから、悪魔の称号666−オーメン。ちょいと悪乗りのしすぎだけど、狙われるのはたいてい女性だ。

 心のひだを見せすぎないこと、生身の自分をさらけ出さないこと、しつこい応酬にまきこまれないこと、掲示板ごっこはほどほどにが、ぼくの衷心からのメッセージである。どうか男なら、ジェームス・ボンド、もしくはハリー・キャラハンのような、甘くハードボイルドなタイプをお選びに・・・・・。