アンドレルチアーノ
 アンドレルチアーノというブランド名には、懐かしい思い出がある。あまく切ないといったほうがいいのかもしれない。

 現在の彼女の年齢を指折り数えてみたら,すでに三十路に入っていた。私が彼女と初めて会ったのは,彼女が愛媛大学英米文学科三年生のときである。

 二月の寒い季節だった。私は仲間たちと松山に旅行に来ていて,夜の宴会で彼女と知りあった。アルバイトのコンパニオンの中で彼女だけが学生だった。ひとまわり以上年齢が離れていたというのに,私たちは意気投合した。宴会がすんでから,私はみんなから抜け駆けをして,一番町の女性自身というスナックで彼女と落ち合った。

 そのスナックは取引先の社長のいきつけの店で,私は何度か飲みに来ていた。私はその社長のボトルを拝借し,熱いお湯わりを作ってもらった。温子は服装を変え,化粧をしなおしてきていた。コンパニオンのユニフォームを脱いだ温子は,まだ初々しさが感じられた。温子はそのとき二十一歳だった。

 アルコールが入ると陽気な娘だった。流行の歌を彼女なりにアレンジして歌い,ソプラノのような高い声は誰の耳にも響きわたった。どこかのグループのボーカルとしてもやっていけそうだった。うまいというより個性があった。

 松山では愛媛大学のことを「愛大」というらしい。高松から来ている温子は,一人ワンルームに住んでいた。いろいろなアルバイトに精を出しながら,お金をためて秋からのロンドン留学をめざしていた。

 温子は一重瞼だった。すべてが小作りな顔立ちで,おちょぼ口がとても似合っていた。二重瞼のほうが目がくっきりとするので,二重瞼の美容整形は最も一般的だが,温子はその切れ長の一重瞼が似合っていた。

 宴会ではロンドンの話をよくしていたように覚えている。私は三度ばかりイギリスを旅行していたし,大学では温子と同じ英米文学を専攻していた。私の話は半分作り話のようなものだったが,温子は熱心に耳を傾けて,友人たちが中に割り込んでくると,さっと身をかわして,また私のところへ戻ってきていた。

 その夜,私はタクシーで温子を送った。午前一時をすぎていたころである。温子のマンションの名前は「葡萄館」だった。温子を送り届けたあと,タクシーが奥道後に向かって走り出したとき,私が名残を惜しんで振り向くと,温子は私が見えなくなるまで手を振っていた。そのことに私は感動を覚えた。

 旅行が終わり、家に帰ってしばらくしてから、私は温子に手紙を書いた。どんなことを書いたのか,それは全く記憶に残っていない。ただ,色恋でなかったことだけはまちがいなかった。私は一番町のスナックをでて,温子と歩いているすでにそのとき、彼女との恋はないと直感していた。それでも、私と温子はとても話が合っていた。

 しばらく手紙のやり取りが続いた。まだあのころはお互いにポケベルしかもっていなかったので,電話で話すことはごく稀だった。夏のある日,私は温子を神戸に呼ぼうと思った。その提案をすると,温子は行ってみたいと返事した。温子二十二歳、四年生の七月である。私は松山伊丹の往復航空券を送り,やってきた温子に神戸の街を案内した。

 宿泊はそのころの神戸でいちばんいいホテルを選び,神戸の夜景が一望できる部屋を選んでいた。私はツインの部屋をとっていた。その夜は温子と眠るつもりだったのだ。あのときの直感を忘れ,温子を抱くことを期待した。

 神戸のしゃれたナイトスポットで楽しい時をすごし,ホテルに戻ったとき,意外にも温子には警戒心が生まれていた。酒に酔い,開放感いっぱいだった温子の表情が一変した。「いっしょに寝るなんて思ってなかった」

 その夜,私は温子の肌に触れることなく睡眠をとった。温子がすやすやと眠る寝顔だけを早朝に見た。次の朝,私は午前中港を案内し,それから空港まで送っていった。私はたいしては落胆していなかった。あのときの直感が思い出されたからである。

 その後,温子のイギリス留学をはさんで,五年間ほど交流が続いたと記憶している。以後、三度の出会いがあり,それは再び松山の一番町だったり,岡山だったり,京都だったりした。温子は郷里高松でOLになっていて,家族と一緒に暮らしていた。

 私は妻子ある身だから、温子の縁はいつ切れてもおかしくはなかったのに,手紙のやりとりや電話での会話は長く続いていた。私と温子は,情を交わすうえで相性がよくなかったのだろうと,今になって思う。友人でいられたなら,兄と妹のようでいられたなら,今でもまだ温子の消息を知っていただろうと思っている。

 私と温子の縁の切れ目は,アンドレルチアーノのコートだった。秋の終わりのころだった。四条河原町の百貨店に入ったとき,イタリヤードの店があった。温子は一目散にそのコートのそばへ走っていき,何度も試着しては欲しい欲しいと言っていた。決して私に買って欲しいといったわけではなかった。しかし,私は買ってやった。

 ホテルまでの帰り道,手提げ袋にアンドレルチア-ノのコートを持った温子は,私の左腕にしがみついて,「ありがとう,ありがとう,うれしい、うれしい」を連発した。そのとき,温子の胸のふくらみが私に触れて大きく弾んだ。

 私はその夜,アンドレルチア-ノのコートを着て喜ぶ温子を抱こうとした。しかし,温子は激しく拒絶した。「私には好きな人がいるの。あなたには奥さんがいるでしょ。無理やりするならこんなものいらない。あっちへ行ってよ」 

 「嫌なら嫌で,言いかたってものがあるだろう。僕はどうしてそんなひどいことをいわれなきゃいけないんだ。もう帰るよ」 私は地下の駐車場から車に乗ってまっすぐに家に帰った。私は車を運転しながら,「はじめの直感を忘れていた。縁があるなら男と女は自ずと結ばれていくもんだ。無理はよくない。これで終わりだな」そんなことを考えた。

 翌朝、携帯には留守電が入っていた。「ごめんなさい。ひどいこと言っちゃって。あなたにはいつもやさしくしてもらってたのに・・・・・,許してくださいね。さよなら」

 それから私たちは一度も連絡を取り合わなかった。震災のとき,心配をして電話してきた温子の声が思い出される。初めて会った夜の温子の歌声が聞こえてくる。必要のない欲望を抱いたがために,一人の女性の友人を失ってしまった。

 あれから六年が過ぎた。温子はきっとどこかへ嫁いでいるだろう。あの夜にはすでに、温子は好きな人を失ってしまっていたのだった。アンドレルチアーノ,その名前をついこのあいだ耳にした。温子はまだあのコートを持っているだろうか? そして,元気でいるだろうか?


 三日前,京都のアパレルメーカー,イタリヤードが自己破産を京都地裁に申請,同日破産宣告を受けた。負債総額は五十八億円,イタリア調のカジュアル衣料など婦人服の販売低迷が続き,資金繰りが悪化した模様である。

 1976年に設立された同社は,若い女性向のブランド「アンドレルチア-ノ」「フロリダキーズ」などの販売で急成長,1995年に大阪証券取引所第二部に上場した。

 しかし,その後の消費低迷で人気が衰え,1996年7月期に175億円だった売上高は,昨年同期には70億円にまで落ち込み,上場から六年余りで自己破産申請に追い込まれた。申請時点では43億円の債務超過だったという。