日の出の時刻を過ぎても暗い
空一面が暗い雲、雪空に似た空模様である。今朝は夜中に起きた。そのまま仕事を少し。

今日はM.R.I.の撮影である。忙しい今、健康診断をしたことを後悔している。

こんなものは暇な時にするべきである。祥瑞の細かな染付けを沢山描かねばならない時なのである。

ベストコンディションで悠々と行きたいものである。

ようやく午後、仕事に入ると、娘が「Iチャンの二度目のインフルエンザの注射なんだけど」といってくる。

我が家だけの会話である。一般には「だから連れて行って」とか「お願いします」なのだが、曖昧語が多い。

ついでに日用品をスーパーで買い物をしたいという。帰ると、孫娘の塾通い。孫達との接点が持てるときでもある。

彼らが公然と私に甘えることのできる一時だ。留守番に回った方は家内と留守番の間甘えることができる。

それぞれがわれわれに語るのは「ママに叱られた」これが共通語。時に暴力、「往復びんたと背中を蹴飛ばす」などと言う。

「そんな時はじいじのところへ来なさい」「じいじか同じことをママにしてやるから」という。

恐ろしくで言えないのだが、私が叱れば反動は孫達の方へ行く。幼年期に生みの親に虐待されていたのかも知れない。そう思うしか考えられない。

養女になった高校、大学時代は世間も驚く良家の娘を演じていたのだろうか。常に私がどこへでも連れて歩いた。

買い物、食事の殆どが一流店だつた。どこへ行っても良い待遇を受けたからか、相応しい振る舞いができた。

急変したのは結婚後である。われわれから離れた自分達だけの生活になって地が出てきたのだろう。

新婚時代は二人だけにと思った思いやりが仇となったのかもしれない。

甥の子を今の孫達と同様に可愛がったのだが、それは時々で、生活の殆どは甥夫婦の家庭。

おいは40で早死にしてしまったから、嫁が主になっての生活が続いた。生活の援助はわれわれがして、女の子二人のうち一人が今の娘を高校一年のときに養女に迎えた。

本家の我が家に後継者がいないから、可愛がるわれわれの元へ娘を入籍するのが最良と思っていたのだった。

彼はわれわれを親と慕い、尊敬してくれていた。われわれはわが子のように彼を可愛がった。

世間のどこから見ても理想の関係。勿論、今もそう思っている。今も私に甘えている娘だから、言葉が乱雑なのだと家内は言う。

「親しき仲にも礼儀あり」を大切にする私には通用しないから、時々、叱る事になる。

30過ぎに来た反抗期なのかも知れない。それと、狂った現代の影響も加わるのかもしれない。

私の考えた理想の家庭像が遠くなってゆく。救いは孫達のぬくもりである。言葉ではない。親達のいないところで、われわれに甘えてくる。

二人とも可愛いのである。親達はそれがねたましいから、遠ざけようとする。

とはいっても、都合の良い時は私の車がないと生活が成り立たない。それは別なのだから勝手が良い話である。