岡崎の書家神谷葵水先生逝く
岡崎で事業を展開した際の理解者。よそ者が城下町の封建的な古い都市へ出向くと言うことは容易ではなかった。

協力する振りをする偽者、様々だった。その中で老体を運んでくれた。

最も仲介に、中日新聞社の文化センター役員さんの骨折りもあった。

定年間近で、その役を受けて、当時、教室の生徒の減少に悩んでいた彼が、私の世界規模のとんでもない美術館開設に驚き、また、励みになったという。

毎週来ては、現代フランスの名匠、ル・サロン、サロン・ド・トーヌ、コンパレゾンなど有名な会の会長、名誉会長の名画はどこででも見られるものではない。

門外漢の彼は必死でその風を受けようと試みてくれた。

図らずも、本社の担当部長がまた、私と知己であったから不思議である。

岡崎の教室の人気の大物先生たちを交互に連れてきたり、勧めてくれもした。

そんなご縁で、できた神谷先生との縁は良い関係で続いた。

互いに主宰する会の催しを訪問し、干支や記念となる作品、出版物を贈呈してくれた。

町おこしの三年間は終わったが、イオンの大型SCができると、そちらへ恒例の行事として続いている。

市の美術協会の古い仕来たりを破れないで、私に愚痴ることも度々の大物先生だった。

愛知県ではトップクラスの書家であり、愛知教育大学で、また、書壇で多くの後継者を育てた。

岡崎で彼先生を除いての書壇は考えられなかった。そのお弟子さんたちも私との交流が広がった。

先生の筆による記念碑、学校、役所、他施設の碑は一体幾つあるだろうか。

見ると先生の筆になるものは私には直ぐ分ったほど、他に類のない名筆である。

我が家の先生の書物、色紙、作品は家宝になった。

葬儀が岡崎近くであったことを午後知った。

岡崎展の折に、線香を上げさせてもらいに参上する積もりだ。

奥さんとも親しくお付き合いさせていただいた。

私の作品も一つ欲しいと所望されて、お届けしたことがあった。