2007 06/25 08:41
Category : 日記
定時に朝食を済ませて、横になりテレビを観ていると、いつの間にか、まどろんでいた。
朝から雨だから、娘一家は静かな日曜日を家で過ごしているかと思うに反し、既に、出かけていた。
婿殿も嫌がらないのか、好きなのか。毎週日曜日を外出する。
今日のショッピングセンターは彼らのためにあるようなもの。孫のクラスメートに聞くと、月に一回か多くて二回が外出だという。
我が家はいささか、例外のようでもある。出好きなばかりでなく、外で食事をするからである。
婿殿も外食が好き。皿洗いから開放されるのも原因か。
私が外の食事で旨いと思うのは、懐石料理かフランス料理かてんぷら料理だが、これもたまに食べるから良いのであって、毎日は飽きるのである。
一汁一菜が好きな私である。若者がそれでは困るのだが、台所で食事の音がするものなら、珍しい娘の家である。
彼らはこの私の監視(彼らはそう感じるのかもしれない)がプレーシャーにまた、ストレスとなるのかも知れない。
そんな時代なのだ。植木等さんではないけれど「分かっているけど止められない」のが私の気持ち。
その何分の一しか口にしない私のほうがストレスが溜まるはず。
残念ながら、この言葉はわたしには無縁である。くよくよ考えるのは嫌いだから、本当は思うことを全部吐き出したい。
若者が逃げ出すだろうから、我慢している。それを一般の人はストレスにする。
暑さ寒さもストレスなのだが、その感じ方で、健康と不健康が分かれる。
暑い、「沢山汗を出して体内の老廃物を出そう」と一杯水分を取る。少し、塩をなめることを忘れない。
飲みすぎと思うと、牛乳に変える。寒い、「田舎の寒さの比ではない」手がかじかまない。
今年は豊作だな。「お百姓さんは嬉しいな」夏は暑く、冬は寒いのが良い。
聖人君主ではないのだが、心の持ちようでストレスは解消となる。やけ食い。やたら物を買う。女人に多いストレス解消法である。
これも還暦過ぎて会得した方法かも知れないから、若者には無理なのかもしれない。
しばらく振りでやってきた娘の生みの母(家内の甥の嫁)は言った。「この歳になって、お父さん、お母さん(われわれ夫婦のこと)の言われたことが分かるようになりました。」
彼女は長女が出来ると子連れで私の元に働きに来ていた。大勢の人を使っていたから、身内の手伝いが何より必要だった。
甥の母が反対するから、私たちが結婚させた。だから、私たちを親だと思っていた。
甥の父親は家を出て、兄嫁と甥2人を私たちが面倒を見ていた。
本来なら兄が継ぐ家である。われわれが本家の役割を果たした。
今の娘は私たちにとっては孫的存在。結婚一年目は、我が家の離れで生活、その後独立して別に住んでいたから、帰りにはなき別れして毎日を過ごした。
自分から養女になりたいと希望したから、手続き上必要な家裁の人も、文句のない縁組と判断した。
高校一年生以来。今で流行といわれる名古屋嬢を十分にさせた。外出は正当以外は許さなかった厳しさもあったし、幾つになっても門限は9時。
短大へ入る頃はこちらへ移住。若者の住む家を隣に独立して建てた。
婿に入ってもと言う婿に「男は姓を変えるものではない」。とあっさり承諾したのに彼らは驚いたらしい。
大学を終えても勤めに出さない盲愛だったから、結婚は抵抗に会うと娘は思っていたようだ。
婿を一目で、人間性を見抜いたからだったのだが・・・・
唯一の条件は「どんなときでも女に暴力は許さない」と「いつか時がきたら、一軒準備しておくから隣に住んでくれ」だった。
頑固な父を納得させて結婚という話題性のある番組のターゲットにされ、結婚式にテレビカメラが入った。
朝日ビールのスポンサー番組でもあった。
習い事はお茶と華、塾は全然行かせず、自分が教えた。
結婚後の新婚時代3年は2人でマンション暮らしをさせた。
私は教師でもないのに、名古屋時代は事業の傍ら、名門中学、高校、大学生までを頼まれて教えていた。
中学の先生が進学は諦めろといった問題児も高校へ入学させた。
評判を聞いていろいろな相談が飛び込んだ、今なら、テレビに出ていたことだろう。
厳しさから開放されてのその反動で、自由に遊び、自由に買い物をするのかも知れない。
早く帰宅したと、午後4時に感心していたら、夕方、また出かけて、外食である。
家内は全て私の責任ですよという。
朝から雨だから、娘一家は静かな日曜日を家で過ごしているかと思うに反し、既に、出かけていた。
婿殿も嫌がらないのか、好きなのか。毎週日曜日を外出する。
今日のショッピングセンターは彼らのためにあるようなもの。孫のクラスメートに聞くと、月に一回か多くて二回が外出だという。
我が家はいささか、例外のようでもある。出好きなばかりでなく、外で食事をするからである。
婿殿も外食が好き。皿洗いから開放されるのも原因か。
私が外の食事で旨いと思うのは、懐石料理かフランス料理かてんぷら料理だが、これもたまに食べるから良いのであって、毎日は飽きるのである。
一汁一菜が好きな私である。若者がそれでは困るのだが、台所で食事の音がするものなら、珍しい娘の家である。
彼らはこの私の監視(彼らはそう感じるのかもしれない)がプレーシャーにまた、ストレスとなるのかも知れない。
そんな時代なのだ。植木等さんではないけれど「分かっているけど止められない」のが私の気持ち。
その何分の一しか口にしない私のほうがストレスが溜まるはず。
残念ながら、この言葉はわたしには無縁である。くよくよ考えるのは嫌いだから、本当は思うことを全部吐き出したい。
若者が逃げ出すだろうから、我慢している。それを一般の人はストレスにする。
暑さ寒さもストレスなのだが、その感じ方で、健康と不健康が分かれる。
暑い、「沢山汗を出して体内の老廃物を出そう」と一杯水分を取る。少し、塩をなめることを忘れない。
飲みすぎと思うと、牛乳に変える。寒い、「田舎の寒さの比ではない」手がかじかまない。
今年は豊作だな。「お百姓さんは嬉しいな」夏は暑く、冬は寒いのが良い。
聖人君主ではないのだが、心の持ちようでストレスは解消となる。やけ食い。やたら物を買う。女人に多いストレス解消法である。
これも還暦過ぎて会得した方法かも知れないから、若者には無理なのかもしれない。
しばらく振りでやってきた娘の生みの母(家内の甥の嫁)は言った。「この歳になって、お父さん、お母さん(われわれ夫婦のこと)の言われたことが分かるようになりました。」
彼女は長女が出来ると子連れで私の元に働きに来ていた。大勢の人を使っていたから、身内の手伝いが何より必要だった。
甥の母が反対するから、私たちが結婚させた。だから、私たちを親だと思っていた。
甥の父親は家を出て、兄嫁と甥2人を私たちが面倒を見ていた。
本来なら兄が継ぐ家である。われわれが本家の役割を果たした。
今の娘は私たちにとっては孫的存在。結婚一年目は、我が家の離れで生活、その後独立して別に住んでいたから、帰りにはなき別れして毎日を過ごした。
自分から養女になりたいと希望したから、手続き上必要な家裁の人も、文句のない縁組と判断した。
高校一年生以来。今で流行といわれる名古屋嬢を十分にさせた。外出は正当以外は許さなかった厳しさもあったし、幾つになっても門限は9時。
短大へ入る頃はこちらへ移住。若者の住む家を隣に独立して建てた。
婿に入ってもと言う婿に「男は姓を変えるものではない」。とあっさり承諾したのに彼らは驚いたらしい。
大学を終えても勤めに出さない盲愛だったから、結婚は抵抗に会うと娘は思っていたようだ。
婿を一目で、人間性を見抜いたからだったのだが・・・・
唯一の条件は「どんなときでも女に暴力は許さない」と「いつか時がきたら、一軒準備しておくから隣に住んでくれ」だった。
頑固な父を納得させて結婚という話題性のある番組のターゲットにされ、結婚式にテレビカメラが入った。
朝日ビールのスポンサー番組でもあった。
習い事はお茶と華、塾は全然行かせず、自分が教えた。
結婚後の新婚時代3年は2人でマンション暮らしをさせた。
私は教師でもないのに、名古屋時代は事業の傍ら、名門中学、高校、大学生までを頼まれて教えていた。
中学の先生が進学は諦めろといった問題児も高校へ入学させた。
評判を聞いていろいろな相談が飛び込んだ、今なら、テレビに出ていたことだろう。
厳しさから開放されてのその反動で、自由に遊び、自由に買い物をするのかも知れない。
早く帰宅したと、午後4時に感心していたら、夕方、また出かけて、外食である。
家内は全て私の責任ですよという。