盆栽1
前回の続きを記したくなった。焼き物との縁は盆栽からきている。

結婚まもなく、親の残してくれた枯山水と庭に盆栽を楽しみ出したのは20代であった。伊勢湾台風間もなしだが、落ち着いた気持ちからその気になった。

寺の縁日の元締めと知り合いになり、彼の勧めで何点か入手。

本式の盆栽へと進んだ。そうなると当時珍重がられる支那鉢かわずかの日本鉢は引く手あまたであった。

盆栽業者さんに連れて行ってもらったのが、日本で有名な作家であった。

全国の業者と愛好家が押しかけて、紹介なしでは会えないお人だった。

手土産に自作の色紙を一枚持参した。初対面で気に入ってもらって、半年後に私の注文を受けてくれた。

ただ、あなたはアーティストだから自分でも挑戦しませんかと土を頂いた。できると持参して、窯へ入れてもらった。

業者や他の人がいなくなるとね隠しておいた窯出し間もない新作を見せてくれた。

人に見せない作業の工程を「今日は何々をするところだから見てゆきませんか」と誘って、秘伝を披露下さった。

私が作る気になったのを見抜いたのかも知れない。この世界では有名な「陶翠」である。文人植松陶翠と言う人が、自分でも製作したのだが、ほとんどはこの方水野正雄氏の作品であった。

この世界でも真相は闇の陶翠の作家騒動を知るところとなった。

持ってゆくたびに成長する作品に、彼が本腰を入れて、私に焼き物のすべてを伝授する気になってくれた。

寸分狂いのない水盤でも有名であった。狂いのない平ものがどうして作られるかを知った。

彼に会うことのほうが楽しみになった。サラリーマンから、まもなくある事業へと脱サラした。この脱サラと言う言葉ができたのもそれ以後だつた。

脱サラ第一号のようなものだつた。家内がお世話して近所の主婦たちにあるメーカーの仕上げ製品を作ることをしていた。

高度成長期で、税金問題で困ったメーカーの協力をしたことから、男手が欲しいのと現在の仕事を規模拡大して欲しいとの依頼から始まった。

名を上げれは誰でも知っている日本一のメーカーである。自由業に近い立場で、盆栽愛好者から、窯を設けて、本式に自分の作品を作り出した。

あくまで、自分の盆栽をいれるためであったが、いつも間にかマニアの知るところとなり、あらゆる種類に挑戦した。

前記の国風展にも私の鉢に植えられた小品盆栽が出展された。

また、蔓青園支店の加藤照吉先生は盆栽と水石で、私ははやきもので、日本園芸協会の教授陣に加わった。

ヨーロッパで行われる文化交流の中の盆栽の催しでは、先生が、フランス、ドイツ、オランダなどで開催市の市長へは私の作品を贈呈品として持って行ってくださった。

私本人より早くヨーロッパの各地の偉い方の手に私の作品が海を渡ったのである。

オランダの都市の市長は祝賀会で、我が家の家宝にするとみなに披露した。

いつの間にか泥ものから、釉もの、そして染付けへと進んでいった。

他の陶芸と大きな違いは、轆轤で製作したものは大量生産の分野に見られて、安物扱いする偏りがある世界であった。

ほとんどが板仕上げ、別名たたら起こしとも言う。狂うことを嫌い、カラスの板の上でがたつかないかを調べる程、厳しいものである。

今日、皇居に残る「のんべいの水盤」は有名で、それほど狂いのない焼き物を珍重した。

縁あって、二度ほど皇居の盆栽園を拝見した。有名な将軍の五葉松、伏見家から贈呈の薩摩の盆栽鉢を見ることができた。

それだけでは済まない私の向上心は、一般陶芸への道へと進むのであった。