土曜日が運動会
練習で疲れ気味の子供達。予行演習は一度した覚えがあるが、毎日、毎日練習した記憶はない。

マスゲームとか団体ものが多いからだろうか。

月曜日から木曜日まで習い事やクラブで一杯の孫娘であるが、空いた金曜日が彼女の唯一楽しい日。

友人宅か自宅か交互に親友何人かと遊ぶのが楽しみである。

今日も近くの友人と交渉。返事は親同士のメールで決まる。

これも昔と違うところか。われわれの時代は学校から帰ると、カバンを家に置くや否や、外へ飛び出して、友人達と遊び、暗くなって帰宅する。

勉強しないことでも、兄弟の中で有名だった。先生が兄より期待を示すと母は必ず「大丈夫です絶対勉強しませんから」と答える。

兄が秀才だと思いたいのかもしれなかった。父の法事で兄の小学校の担任の先生が来て下さったことがある。

家内も一緒だったが、われわれの隣に来た先生が、家内に言った。

学校で常に一番の兄さんと皆さん思っているようですが、学校が最も期待していたのは貴女の旦那様だったのです。

聞こえたらしく、母と兄は変な顔をしていた。自分を神童と呼ぶほどの兄だし、母もそう思っていたからである。

家内が私に聞くと私は「あれは先生が隣の私にゴマをすってくれたんだね」と笑い飛ばした。

勉強して成績が良くなるのは当たり前、学校の授業だけは真剣に学んだ。ある時、先生が「君の真剣なまなざしは、恐ろしかった」と。

優等生スタイルは大嫌いで、悪さもし、誰とも仲良い友達だった。

野山を走り、池や沼や渓流がプールだった。勉強をしろと一言も言ったことのないのは父だった。

中学になると雑穀の買い付けの父の手配の車と同行した。16貫、18貫の俵を背に黙々と働く父が好きだった。

懸命に私も担いだ。最初は父の手助けで背中に担ぎ、運んだ。いつの間にか、俵をたてにして、反動をつけて担ぎ上げるコツを覚えた。

大きい体ではなかったが、相撲部のキャップテンで、人より鍛えていた。

高一のときの運動会で俵担ぎ競争があった。50mを担いで走る競争だった。

体格の良い三年、二年から選抜された大男揃いであった。一年から出るものがいないから「俺が出よう」というと、クラスメートは「怪我するからやめろ」という。

笑って、スタートラインに立った。よーいドンで前においた俵を横に持って腹に乗せて走るもの、背に乗せるものとへっぴり腰が多かった。

一気に右肩へ担ぐとコールへ突っ走った。一等賞だった。

観衆のすべてが、驚いた。しばらくしてからだった、拍手が起こったのは。

同級生はぽかーんと口を開いていた。

人と同じことが嫌いだった。人前で勉強する振りは特に嫌った。遊ぶことは率先した。

今の子供達がかわいそうでならないのである。