二百十日。旧暦でそのように呼んでいた日
防災の日、安倍首相が警戒宣言を発して訓練が開始された。

どうか、訓練で終わって欲しい。私は伊勢湾台風に遭遇した経験を持っている。

幸いに命は助かったが、多くの知人の死亡を知ったのであった。

都市の半分近くが水没したのだから500人以上が亡くなった。

悪条件が重なったのだが、海に関係していた仕事のわれわれでさえ、強烈な台風の実態と進路を知らずにいたのであつた。

気象庁の責任の重さを知った。以前に、注意を喚起していたら、あれほどの被害を出さないで済んだと思うからである。

就職したその秋に名古屋へ転勤。その月末に被災したのである。

以後、親戚や知人では私は嵐を呼ぶ男と称された。

自分の社宅の荷物は一ヶ月以上放置して、取引先や知人の見舞いに奔走した。

その後、落ち着くと、船乗り達が大勢で社宅の片付けをしてくれた。

縁の下は泥に埋まり、壁は潮の上げ下げで抜け落ちていた。

二軒つなぎの平屋の分譲住宅だったが、隣は新婚さんの住まいで、ローンを組んで購入したばかりの方だった。

住宅とヘンス他の修理を会社が行い。お隣分も全部同時に完成させた。

これは会社のお隣さんへの援助とした。

今、問題の賄賂を常とする高級役人とはわれわれは正反対の人の善意による民間ボランティアのようなものだった。

ボーナスを何度かに分割して支給する経理状態の船会社だった。

アメリカのミシシッピー川ではプロパンガスを積んだタンカーが往来している英字新聞をみて、社長に進言した。

飯野海運についで日本で二番目に、ガスタンカーを建造して竣工させた。

二代目社長で女性好きの英雄でしたが、早逝されました。

何年前だろうか。私が23才のときでした。