終戦
昭和20年8月15日、日本は連合国軍に無条件降伏した。

米英から始まって、中国、最後に友好条約を結んでいたソ連が参戦した。

忘れもしない父の郷里に疎開していた私達は、本家の隠居所に住んでいた。

本家とわれわれ全員が中庭に集まり、玉御放送を聴いた。

音の良くないラジオで途切れ途切れナノと陛下の古典調の言葉は大人でも理解に苦しんだ。

「どうも戦争に負けたらしい」と聞いて小学校5年の私は悔し泣きした。

男は陸軍か海軍の大将になることが希望であった。

日が経つにつれて、徐々に真実が分かり始め、本家の伯父は男子に日本刀を一本ずつ渡した。

アメリカ兵が来たら、「女子を守るのだ」といった。

県で指折りの豪農であった本家は蔵が三つあり、表の蔵には、日本刀が数十本仕舞ってあった。

半月後それも撤収された。武装解除の一種だろう。

本家の伯父は悔しがって、裏の竹やぶで、試し切りをしていた。その上、どうしても出せないと、油紙に包んで、裏の藪の中に埋めていた。

後で知ったのだが、銘刀だったようだ。

私も選んだ仕込み杖は欲しかった。桜の皮で巻いた杖なのだが、抜くと細身の日本刀が仕込まれていた。

満州に軍の御用商人をして隆盛を誇っていた叔母の安否が母は何より心配だった。

何年か後、逃げる途中で亡くなって、叔父だけが帰ってきた。

母は自分だけ生還した叔父をなじったのを覚えている。

ソ連のぎりぎりの参戦と満州と樺太へ進駐して、悪さをしたことは今でも許せない思いである。

友好条約を結んだ仲だったからだ。子供もつれることができず逃げ帰った日本人は、満州に子供を預けた。

それが残留孤児である。叔母の話だと万人は人柄がよいということだったが、今日までわが子のように育てたことを考えて立証される事実である。

日本の軍部も広島、長崎で原爆投下で、敗戦を覚悟したようだが、陛下の御意思だったとも聞く。

武器もないのに、本土決戦といい続けた軍部の暴走はお粗末だった。

それを防げなかった政治家。多くの犠牲の上に終戦のあることを忘れてはならない。

いずこの例を見ても、戦争は人間にとって最悪の選択であることも知った。

空襲他と夏休みで学校がやすみだったが、9月登校をすると、今までの教科書を墨汁でよくない部分を消すように命じられた。

半分以上が墨で真っ黒の教科書となった。