午後の時間
 唯一写真だけが時間を止めることができる。実際は止めることはできないのだけれど、かつての記憶の中にたたずんでみると、垣間止まっているかにある。

 昨年末の改築の折、書棚の整理とともにアルバムの整理をした。懐かしい写真に見入りながら、忘却していたことがこんなにもあったことに驚かされた。

 そして、落ち着いた年始の三が日にネガの整理をやってみた。白熱灯の光線に透かしながらの結構面倒な作業だったが、色褪せたカラーフィルムにも一瞬時間が止まって見えた。

 振り返ることで今の自分が考えられた。ゆっくりと立ち止まって、自分の周辺を見渡し、それから明日のことを考えてみた。

 漢文の授業で「光陰矢のごとし」という言葉があった。現在という時は以前に増して、物理的な時間をも越えて疾走している。高校のとき習った言葉が、今やけに切実なものになったことを実感する。

 きのう、サンマルクで夕食をとりながら二日遅れの娘のバースデーを祝った。予定通りにピアニストがバースデーソングを弾いてくれた。デザートのあとには記念のシャッターを押してもらった。現像には先ほど出してきたから、もうすぐ写真はできあがる。うまく写っていたなら引き伸ばして部屋を飾ることになるだろう。

 新しい白い壁にはその時代その時代の時が止まっている。けれど、それはやはり過ぎ去ったものであり、今の現実ではない。きのうの娘と家族の写真ですら、もうすでに流れのあとにおかれている。

 僕はデスクの前に腰掛けて、南から差し込む太陽の光線を見つめ、それから20平方メートルほどある西側の白い壁に目をやる。そこでは大仰すぎるほどの枚数の写真が額に入り、サイズごとに整然と飾ってある。その様は、ここ数年のものから一(ひと)昔、二(ふた)昔前のものまでが順を追って時を刻んでいるかのようだ。

 一昔の一の語彙は十年を表しているが、現実的な一昔という言葉の感覚は五年、いや三年、いや一年というほどにまでなってしまった。時代は年々速度を増し、僕たちの生きる感覚までが速度を増しているかにある。

 今日は久しぶりに太陽が輝き、レースのカーテン越しに明るい日差しが入っている。観葉植物の緑が映え、部屋の中で育つアフリカホウセンカの蕾が一つ開いてきた。優雅な午後のひとときである。背の側のきれいに整頓された本に抱かれながら、温かい紅茶を飲みながら、過ぎし日の写真を眺めていると、何度も止まった時に出会うかのようである。そして、僕は思う。時間は絶対止まらないのだけれど、ゆっくりと立ち止まってみることをしようと。生きていくことの楽しさ、幸福について、しみじみと味わってゆきたいと思うのである。