非日常的であること
私が住んでいるところは昔でいう播磨の国である。
その東側に位置する市や町の文化連合会が一年に一回文芸誌を出している。
現在の事務局は兵庫教育大学のそばにあるのだが、
発刊されてからはや25年が経過した。
中身のほうはともかくとして、「群像」の半分くらいの分厚さである。

草創期のころは太宰治に憧憬の深い評論家兼大学教授が、
その編集に携わっておられたことを思い出す。
かの先生は夫婦仲が至極よろしくて、
夫婦でエッセイ集を二度刊行された。

25周年ということもあって、
かの先生が冒頭の言葉を飾っておられたが、
その気の利いた文章を読んで
さすがに執筆というものを心得ておられると改めて感心した。
かの先生が執筆した書物の数冊は私の本棚の隅にもある。

何度か子供が挿絵を描いているので、
その文芸誌は私のところにも届くのだが、
事務局から今度私にも何か書けと仰せが来た。
子供が絵画教室で画家の先生に
「おとうさん、ネットで小説書いてるよ」と言ったせいらしい。

私はにべもなく断りを入れた。
みなさんはチャンスじゃないかと思われるかもしれない。
でも、私はそうは思わない。

私がネットでものを書くのは非日常的ななかにいるからだ。
誰も何も知らない人たちの中にいるからこそ私は物を書こうとする。
私はネットという非日常の中だからこそ物を書いて楽しむことができる。

今日配布された25周年の文芸誌を開いてみた。
短編小説と童話が各二、詩が十五、随筆が十七で
ほとんどの誌面は短歌、俳句、川柳と点描わが町で占められている。
目次を見るだけで中を読んでみる気にはならない。
もともと雑誌の類いが嫌いな私だが、
知るべき人の作品を駄作だと思いながら読むことはさらに苦痛だ。

私は空想したことを書いて楽しんでいる。
もしそこに現実が入り込んでくるなら、
私の書くものは断固 想像だとは言いきれず、
どこからともなく無意味なことを勘ぐられるのがおちだからだ。

私は地域の文芸趣味の会になど入りたくはないし、
地域で文化人ぶっている人が好きでないことが多いのである。

私が日々継続できるのは、ネットの世界がファンタジーであり、
わずかでも物書きとしての自分に向きあえる場所だからでもある。

メールである人からこんな言葉をいただいた。

「マイナーだろうが独断だろうが、私は自分から派生する文というものとちゃんと向き合いたいし、毎日創作を吟味して、楽しみたいと思う。それでも時に、楽しみつつも、あうんの呼吸で感じてくれる人がネットの向こうにいてくれたらいいと、私は密かに思っているのです。それは日常的なつながりとはまた別の、何か琴線に触れるような静かなものではないかと思っているのです」

そう、僕の琴線に触れたあたたかい言葉だった。