ノーベル賞候補
 もうすぐノーベル賞の発表の時期である。昨年は、島津製作所の一研究員の田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞し、日本中をあっといわせた。人柄もよろしく、気さくな人で、これまで受賞してきた学者タイプとは全くに異なっていたからだ。田中さんはけっして雲の上の人ではなく、普通のサラリーで普通に働いていたのだから。

 で、一昨日、ヤフーのトップページの見出しをクリックしてみて驚いた。うちの隣の家で育ったN君が物理学賞の候補に挙がっているではないか。彼はぼくより一級下だった。小学生のころ、原っぱでよくいっしょにソフトボールをしたものだった。あのころ小学生にしては寡黙で、雰囲気だけで子供ごころに聡明なイメージが感じとれたものだ。

 ぼくが一年先に中学に入学して、彼との交流は途絶えた。ぼくが運動部で多忙だったから。彼が勉学に勤しみはじめたから。ぼくと彼は一年違いで同じ中学、高校で学んだ。が、学力の差は歴然としていて、小学校で一年逆転し、中学で二年、高校になると彼の入学時と僕の卒業時が似たようなものだったろう。

 高校でのぼくの成績はよくはなかった。が、ぼくがひどいアホだったわけじゃない。彼ができすぎただけなのだ。ぼくが受験生だったとき、ぼくの部屋より先に彼の部屋の明かりが消えることはなかった。20メートルほどの空間を隔てて、ぼくたちの部屋は二階で向かい合っていた。彼が二年生のときのことだった。旺文社全国模試で全国一になり、校内では驚きをかくせず、多くのものが一目置くようになった。『できるとはわかっていたが、それほどにすごかったのか!』と。ぼくらが卒業してのち、三年生になった後輩がいうことには、先生よりもずっとN君のほうがよくできると。そりゃあ、そうだったろう。わかりきったことだった。とりわけ、英語、数学、物理にいたっては教師として教壇に立つ先生たちの面映(おもはゆ)さが手に取るようにわかる。自分が教えることでドジを踏んでいないかと戦々恐々だったのである。運悪いことに彼が三年生のとき、アカン部類の教師の多くが彼の前に立っていた。

 彼はとてもよく勉強ができたが、いわゆるガリ勉タイプじゃない。文武両道、スポーツもそれなりにできたし、理系だったが、俳句を詠んで朝日新聞の紙面に載ったこともあった。特選だったと記憶している。だから、隣に住んでいてうらやましいと思ったことはなかったが、日々近寄りがたい存在になってしまった。また、トーベ・ヤンソンの著作の翻訳、研究で有名になったHさんも彼と同級生で、同じ町に住んでいた。

 彼の現在は東京在住で、帰郷時にときおり姿を見かける程度だ。彼のつれあいは高校の同級生だ。勉学に励みながらもひそかに恋心を育ませていたときく。恋を打ち明けたのは東京のT大に入学してから、関西の私大に通う彼女とは遠距離恋愛が続いたそうな。はじめは彼の片思いだった。結婚にいたるまでのいろいろなことは、後日談で、寡婦となってひとり住む彼のおかあさんの自慢話の中から聞かせてもらったものだった。

 先日、彼は帰郷し、母校で講師を務めた。例年、母校出身者の成功者にいろいろなことを語ってもらって、在校生たちに勉学への意欲をわかせ、またこれからの人生において、社会人としての意識づけをさせるためらしい。彼の講演が終わって三日後、ノーベル賞候補に彼の名前が挙がった。母校ではこの報に驚いているにちがいない。

 最近、家をでるとき、彼のうちを避けて通っている。おかあさんと出くわすと、世間話からはじまり、延々と息子二人の自慢話となっていくのである。一人暮らしの老婦人の話を聞いてあげればと思う。もし、彼がノーベル賞を受賞したら、お祝いをもっていきたいとも思う。母校の誇りとか郷土の誇りなどとは思わないが、子供のころ、いっしょに遊んだことを誇りに思う。

 候補に挙がっただけでも彼は物理学のでは世界的に著名になっているはずだ。それはすばらしことだ。10年ほど前、「電子型高温超伝導体」の発見で仁科記念賞を受賞したときには、ちんぷんかんぷんながらに感服をした次第だった。ぼくは学問としての理系の話は著しく苦手だ。
 
 窓の外では彼のおかあさんが水遣りをしている。年齢は70代半ば、東京暮らしがいやで、良人亡き後ずっと一人暮らしを続けている。彼女にとって、彼の受賞は、候補に挙がっただけでも、わが人生に悔いはないだろう。時間があるとき、ゆっくりと話を聞こうと思う。彼の小学生のころのなつかしい話を・・・。しつけだとか教育だとかそんなことではなく、ぼくらと遊んでいたころの彼のことを・・・。