白紙投票
 第十五回統一地方選挙、県会議員選挙では、やはりいつものように白紙投票をした。国会議員以下、県議会議員、市議会議員などに対して、やたら議員の数が多いのに異議申し立てのようなものである。アメリカなどの諸外国と比べて、およそ三〜五倍は存在する無駄なセンセイの数に最も税の無駄づかいを感じる次第である。二束のわらじで、プロレスや野球解説や漫才しながら、国のため地方のため誠心誠意、必死で働けるはずがないからだ。そんな人たちを面白おかしく選ぶ国民については、今、日本がおかれている状況に、故人や他国に一億総能天気と揶揄されてもしかたない。

 地方中小都市の場合、市長と県会議員の俸給は同じような額である。が、仕事の忙しさにかけては著しい差がある。ずいぶんと市長のほうが激務であり、拘束される時間が多い。それに反比例して、肩で風切る仕草は、もっぱら、概して県会議員のほうが上を行っている。汚職でもせぬ限り、たいてい批判の矢面に立つのは知事であり、市長のほうである。

 とりわけ市会議員については、極端な言い方をすれば月給泥棒まがいのものがいる。四年間、議会で一度も質疑応答もせず、ただ椅子に座っていただけの人物の名前を耳にすると、あながち月給泥棒という表現も名誉毀損には当たるまい。ま、それでも役職を利用して、公共事業を自らが関与する企業に取り込もうと奔走する連中よりはましかもしれないが。市議会などは、市長をとりかこんで、地区の代表として選ばれたボランティアと市の中心職員で運営すれば、事足りるのではないかと僕は思う。予算は使い切るものではなく、できるだけ節約して内部留保に努めること、常に地方税負担の軽減を図ろうとする意識がないといけない。いつの間にか、地方の事業は、一時しのぎのばらまき救済をもっとうとするようになってしまった。

 選挙公約に中小企業活性化を唱える候補者が多い。高齢化社会や医療制度改革など福祉充実を訴える候補者も多い。まず、中小企業についての公約についてだが、一般的な彼らの考えでは絶対に果たせない。メイド・イン・ジャパンの商品が年々減少し、メイド・イン・チャイナの商品がふえている状況下で、どうやって中小企業が生きのびることができるというのだろう。日本の国民生活が、月収三万円でまかなえるなら人口大国中国に対抗できるだろう。いつも彼らの中小企業対策は小手先ばかりで、そんなことをしている間に年々中小企業の数は減少している。日本が高度成長できたのは、メイド・イン・ジャパン製品が世界中で売れていたからで、日本国内ででもジャパン製品が減少している現状を鑑みれば、不況、物あまり、単価下落、デフレは自明の理というものだ。大手企業は国内の中小企業に見切りをつけ、コストの安い製品を作るため、中国を中心としたアジア諸国に生産拠点を続々と作ってきた。

 ソニーの停滞によって、先日電子機器メーカで時価総額国内ナンバーワンに躍り出たキャノンは、すでに17年前にあのヒット商品『オートボーイ』を台湾で生産していた。日本が地価高騰、株価暴騰で沸いていたころから着々と礎を築いていたわけだ。独自の開発力を持たない、中小企業が以前のように復活できるとしたなら、ガソリンなど輸入品が値上がりはするが、為替が一ドル200円を以上の円安になることか。欧米に比べて人口が多い日本は、やはり物を作って売ることが必須だからだ。でも、時代の流れは速いから在庫を抱えることは許されない。

 国の予算、歳入が歳出を四割下回る状況下で、国債を発行し続ける日本にアルゼンチン現象、通貨危機が起こらないという保証はない。外貨準備高が西ドイツを抜いて世界一になったのは、15年前のことだった。そのとき、日本はアメリカに次ぐ第二番目の格付けだった。光陰矢のごとし、ついに日本は先進七カ国の最下位の地位を揺るぎないものとし、資源なき国家として世界的な格付けは第二十六位、凋落の一途だ。去年一年間で、郵便貯金の七兆円ほどがアメリカドルへと逃避したと聞く。銀行預金もふえるはずはなく、経営不安が継続するメガバンクからは、法人、個人を問わず、続々と資金がアメリカドル、ユーロ、豪ドル、カナダドルへとシフトされている。資源国オーストラリアは、今年度より国債の発行の必要がなくなった。それはオーストラリアの財務が健全だからでもあるが、ジャパンマネーの流入が寄与しているという話もある。オーストラリアだと預金利息が五パーセントほどあり、つぶれそうな日本の銀行で貯金しているよりもずっと条件がいいからだ。

 あと十年ほどすれば、戦後の高度成長を支えてきた団塊の世代が年金受給者となる。が、このままでは、そのときすでに国家に支給能力はなく、紙くずを刷り続けてごまかすか、人口構成比が半数となった労働者(若者)に、賃金の半分ほどを納税させるかしか方法はない。平地が少なく、人口密度が高く、食料の自給自足ができなくなった現在、高齢化と少子化のバランスがほどよくとれる時代まで、年金受給者と労働者人口のバランスがほどよくとれる時代まで、日本人は我慢に我慢を重ね、高望みをせず、慎ましさをよきとする暮らしが、早晩必要になってくるだろう。

 こうして考えてみると、人の世は常に不平等で、貧富の差は広がるばかりだ。富めるものの富み方が極端すぎる。でも、人はそんなことに文句は言わず、近くにいる他人が自分より少しだけ優雅なことに我慢できない。誰も彼も小市民的で、目先のことばかりにとらわれている。僕は自分の生まれたときを振り返って、今よりもう少し、いやかなり質素にできるのではないかと思ったりする。物質的豊かさだけを求めまい、我々はもう少し謙虚になって、金、金、金と言わずにすむ生活を心がけよう。

 僕の白紙投票には、不要な税の無駄遣いをいい加減に止してほしいという願いがある。もちろん、ろくな政治家がいないということでもある。概して、政治家と役人とエリートぶった銀行マンは、世界的視野で判断されると、自分勝手で馬鹿である。