ライカでグッドバイ
 ベトコンはアメリカに爆弾を落とさなかったし、アメリカ大陸で誰一人殺さなかった。だのに、アメリカは1961年から1975年という長期にわたって侵略を繰り広げ、およそ200万人とも推定されるベトナム人民を犠牲にした。あれは間違いなく侵略戦争だった。この戦争には、アメリカからの経済援助とひきかえに、各国の国策のもと、韓国、タイ、オーストラリア、ニュージーランド及びフィリピンから兵士が送り込まれたことも事実だった。

 ベトナム戦争とは、南ベトナムの民族解放運動に対するアメリカ(ならびに大韓民国をはじめとする参戦国)とサイゴン政府の戦争である。社会主義国である北ベトナム(当時のベトナム民主共和国)に対するアメリカの戦争、およびそれらの戦争に対する抵抗戦争という、さまざまな側面をもっていた。アメリカ側は、この戦争を「共産主義者の侵略から南ベトナムを防衛する」戦争とみなした。一方、南ベトナムの民族解放運動と北ベトナム側は、この戦争を「南部を開放し、北部の社会主義を守り、祖国再統一を促進する」戦争として、独立・主権・統一・領土保全の実現を主張していた。

 そうして、アメリカ側の「特殊戦争」戦略および「局地戦争」「エスカレーション」戦略と、ベトナム側の「人民戦争」「長期抗戦」戦略が真正面からぶつかりあい、第二次世界大戦以後の最大の戦争となった。また、この戦争をめぐって、いわゆる「参戦国」の戦争参加、「自由主義」陣営のアメリカ側への動員、あるいは一方における社会主義陣営・国際共産主義運動・世界民主運動の「ベトナム人民支援」など世界の諸勢力も二つの側に分かれて対決した。このなかで、日本も後方支援という形で、アメリカの戦争に深く結びつけられるにいたった。

 この戦争にアメリカは、ケネディ、ジョンソン、ニクソンと3代の大統領が関与し、1,500億ドルの巨費を投じ、ピーク時には年間54万人の軍人を派遣し、国の威信をかけて挑んでいた。が、あまりの長期戦に兵士の士気は衰え、1971年6月に国防総省の「ベトナム秘密文書」が、ニューヨークタイムズ、ワシントンポストによって暴露されるにいたって、アメリカのベトナム撤退が徐々に予測されてくる。それは戦争の是非を問う、アメリカ国内の混乱のゆえだったかもしれない。アメリカ軍兵士も6万人が戦死した。

 ベトナム戦争の実態は、南ベトナムを支援したアメリカと北ベトナムを支援したソ連、中国との政治戦略的な戦争といえなくもない。東西冷戦時代の象徴、それがベトナムの地で争われたのだった。東西冷戦終結以前にベトナムの南北統一はなされている。また、歴史はアメリカの敗北を物語っているが、その後アメリカはクリントン政権の1992年にベトナムへの経済制裁を解除し、1995年に通商協定を締結している。だが、大量に空中散布された枯葉剤の後遺症はいまだに残っていて、ベトナム人はもちろんのこと、アメリカ人兵士の生き残りにも深い傷跡を残している。肺がん、脳腫瘍、白血病などで絶命している人が多く、また精神的後遺症に苦しむ人たちの状況も特有である。

 1970年に大阪で世界万国博覧会があった。今日のNHKの朝ドラ「まんてん」で太陽の塔が映っていた。あれを見て思い出した。ぼくは「万博」に行かなかった。学校からのバス旅行に参加拒否をした。ベトナム戦争反対!そんな反抗があったのかもしれない。ただひねていただけかもしれない。が、学校は何も言わなかった。たぶん、おちこぼれの生徒の一人や二人どっちでもよかったのだろう。

 ベトナム戦争当時、報道の自由だけは確保されていた。世界中から多くの、フリーの、命知らずの報道員、カメラマンが「世界に事実を知らしめる、自分をアピールする」するため、ベトナムを目指した。そして、その真実のために命を落とした人々がいた。

 「ライカでグッドバイ」、カメラマン沢田教一が撃たれたのは、1970年10月28日、カンボジアのプノンペンだった。戦火の農村の川の中を逃げまどう母子の姿をとらえ、ピュリーツア賞に輝いたのは1966年のことだった。タイトルは「安全への逃避」、平和の願いをこめ、民衆のおかれている悲劇をまざまざと映し出しているものだった。

 沢田氏の夫人サタさんは、24年後の1990年に、その写真で母に抱かれた当時二歳の女性と、南ベトナムのフォクソン村で巡りあうことができた。カンボジアの戦場に散った夫の死から19年後の感動的な出会いだ。毎日新聞記者が生死のわからなかったこの女性を探し当て、サタさんの願いは実現した。

 サタさんは、26歳になったホエさんにこう語っている。「夫の魂が宿っているようなあなたを、遠い海の向こうでずっと自分の娘のように思ってきました。夫の短い生涯で、世界に訴えかけたものが『平和』だとすれば、『安全への逃避』のホエさんの姿は、そのシンボルのようなもの。娘に会えてうれしい」



『安全への逃避』 いちばん小さい子がホエさん

 先の湾岸戦争でアメリカ連合軍は、作戦中の報道関係者を完全にシャット・アウトした。これは、ベトナム戦争での教訓といわれている。さて、今回のイラク戦争の実際はどうであるのか、ぼくはいつもマスメディアの声を疑心暗鬼で聞いてしまう。心することは、決して扇動されることなく、付和雷同にならないように、いろいろなことを十二分に咀嚼し思考し、自分自身の意志によって発言したいと思うのである。戦争と平和ということについて―。