Si le grain ne meurt
 農協の職員が先日バーク堆肥を配達にきたときのことである。50リットル入りの重いものなので、いつも何も言わなくても花壇のそばに積んでくれる。決して家のほうには持ち込まない。
 彼は集金に玄関のベルを押すまでのしばらく、我が家の菜園と花壇をくまなく見てまわったようである。バーク堆肥五袋分、2500円を妻が支払うとき、菜園の野菜と花壇の草花の育ち具合をとても誉めていたという。なかなか専門の農家でもこんなにうまくできないと。

 バーク堆肥とは、木の皮を腐らせて作った真っ黒な有機物だ。鶏糞や牛糞のように肥料としての効果は少ないが、まずもって清潔で臭くない。花を植えつけた後、バーク堆肥を土の表面いっぱいに敷きつめる。それは雑草が生えるのと土の表面の乾燥を防ぐためだ。また、降雨から病気を防ぐ効果もある。草花や野菜は、葉の裏側に、雨に打たれた土が跳ね返ると色々な病気に罹患することがあるからだ。さらに厳冬の時には、霜の害を防ぐ保温の役割ももっている。

 そうやって,バーク堆肥はいろいろと役にたつが,次ぎの季節には花壇を耕すときに、肥料とともに土の中へすきこまれて有機物となり,実際の堆肥の役割を果たす。バーク堆肥はしばらく風雨に打たれてからのほうが、植物の根にやさしい。

 近所の人たちは世話がたいへんですねというが、それほどたいした世話をしているわけではない。椎間板ヘルニアを患ってからは、八メートルある八つの畝を耕すこともない。ゴルフのように横の動きはどうにかなるが、重いものを持ったり、鍬で畑を耕すような激しい縦の動きは適わない。一年に一度だけ、シルバーセンターに頼んで、耕運機であっという間に耕してもらうのである。耕してもらうまでに、苦土石灰と友人がくれる有機酪農の乾燥鶏糞を十分にまいておく。耕運機の作業が終わると、最後は黒いビニールを各畝に敷きつめるマルチングを行う。やはり雑草が生えるのを防ぐためだが、保温と乾燥の防止の効果もある。私はほとんど見ているだけ、一年の菜園計画は一万円足らずの支出でまかなえる。

 ガーデニングの基本は、植物の出来不出来は、その八十パーセントが土作りと苗によって決まる。残りの二十パーセントの多くは気象条件によるものだが、どうなろうとそのことだけは受け容れるしかない。

 私の若い頃だが、仕事の一部に園芸部門があった。種子について、大根はあくまで大根であり、青首や大蔵、みの早生や時無などと種類がいくつもあるとは知らなかった。人参にしても同様だった。ある夏、私は試しにナスの苗を買って植えてみた。わずかな空き地の一角を耕して、二本を植えてみたのだ。だが、毎日何度眺めても実がなることはなかった。小さな花が一つ咲いて、親指ほどの実がなったといえばなったのだろうが。
 
 その夏のある日、ナスは枯死していた。水遣りを怠ったわけではなかった。その原因は自分には不明で、野菜作りは素人には難しいと思ったものだった。あとになって知ったのだが、土作りの大切さをわかっていなかった。石灰を入れて土壌の酸性度を適切にすることや、生育に十分な元肥を施すことを知らなかった。ナスは無駄な花がないといわれるほど、実がつきやすく作りやすい野菜だったのに、痩せ地で弱り果てて、挙句にハダニの攻撃を受けて枯死していた。植物は軟弱に育つと、病虫害への抵抗力が弱くなる。

 そんな具合だったから,そのころの私は園芸の知識が全くなかったといってよい。仕事上栽培の知識は不可欠だった。だから,私は意を決してNHKの趣味の園芸に入門した。それは、毎日曜日の朝にやる趣味の園芸をビデオ録画して,その月刊誌のテキストを読みながら実地研修をするものだった。あのころは金欠で,しかたなく始めたガーデニングは、実に都合よく、たいしてお金のかからない、実益をかねた趣味となっていった。

 その手探りの趣味と実益をかねたガーデニングの勉強は,およそ二年余り続いた。まず土作りからはじまり,堆肥や肥料の施しかたを覚えた。播種や育苗,苗の定植を見よう見真似で実践した。また,害虫の駆除法や病気の予防法を習った。テキストとビデオでの勉強は夜の時間を割き,実際の栽培は代休の日を利用した。やり始めるとなかなか面白いもので,思い通りに生育したときなどは、毎朝起きるのが楽しみだった。花が開くのを見たり,果実が結実したときなどは殊のほかうれしかった。

 気持ちをこめて熱心にやれば,園芸はそう難しいものではない。あのときの二年が私の園芸の知識の礎となり,滅多な植物でない限り、たいていの栽培は容易である。私は最新の基礎を学んだという自負がある。兼業農家の人たちの多くは,基本を学ばず,新たな農法を学ばず,生きながらに惰性で作物を作っているきらいがある。現在の私はたいした労力を使わずとも、いい苗といい土さえあれば,時期さえまちがえなければ,道行く人を立ちどまらせるほどの草花,野菜の順調な生育を見せることができる。それは決して自慢ではない。同じようにやれば誰でもができることだからである。

 といって、私のガーデニングはオール・マイティーではない。とりわけ盆栽は好まない。父がもらった盆栽の多くを、世話が面倒だから地植えにしてしまっている。十年前に芝生の中央に植えた銀杏の木が,あのときたった15cmだったのが、いまや10メートルに成長している。光に映える銀杏の葉のライムグリーンは,いつ見ても目にやさしく、さわやかだ。

 私は四季の折々に咲く花が好きだ。一年のある季節に種を蒔き,発芽を見,移植をして苗を育て,定植後の開花を楽しみにする。ひとつの季節の中で、それぞれの植物の生命が芽生え,その小さな生命が季節の流れの中で成長し,つぎの季節において見事に開花する。その絶頂期は短い期間だが,その美しき生を人はこよなく愛するものである。花が愛されるのは,その命が束の間なのだからかもしれない。美しき開花を見せたあと,花はつぎの季節には種子を残して枯れはててしまう。それは一年のうちに、種を蒔き収穫する野菜についても同じことがいえる。一年草の一年は,人の世の輪廻にも似ている。

 最近は品種改良が進み,草姿が美しく,病虫害に強いF1種(一代交配)がポピュラーなので、種子を採っても同じ花は咲かなくなっている。作物についても同じことだ。その種子は,原種に戻り,交配する前の姿となってしまう。

 小説の冒頭に「ヨハネ伝第十二章二十四節」のキリストの言葉を目にするときがある。『一粒の麦もし死なずば』である。『一粒の麦もし死なずば』は、アンドレ・ジッドの小説のタイトルでもあるが、全文はドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」の冒頭にも使われている。『誠に実とに汝らに告げん、一粒の麦もし地に落ちて死なずば惟一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし』

 ガーデニングを楽しみながら,上記のキリストの言葉を思い浮かべるわけではないが,その言葉の意味がわかるような気がする。私は必ずと言っていいほど,種子から草花,野菜を栽培する。安価で多くの苗を作るためではあるが,小さな命が芽生え,それが育ちゆく過程を見ることに楽しみを持っている。そして、それがやがて花開き、実がなることに歓びを感じている。季節の終わりに命を終え,多くの子孫を残し,枯れ果てるときまでをいとしんでいる。

 表題の「Si le grain ne meurt」はフランス語で、ジッドの小説のタイトル『一粒の麦もし死なずば』だが,どなたかこれに続くフランス語のフレーズを、ご存知の方は教えて欲しい。