オリンピック考
 ソルトレイクオリンピックでの日本選手たちの惨敗は、戦わずして決まっていたように思える。日本を出発する際の抱負は、「楽しんできます」 が多かった。

 もとよりオリンピック精神は、「参加することに意義がある」だった。それがいつの間にか国別のメダル争いに変わり、さらには商業主義に変遷していった。メダルさえとれば、一生が保証されている種目だってあるほどだ。

 今回の日本選手団の派遣は、純粋なオリンピック精神に則っているといえなくもないが、どう見ても多勢なだけである。厳しいようだが、結果が伴わないのにあまりに楽しんでもらってはこちらが面白くない。

 選手団には強化の段階から国家の費用が投入されている以上、選手たちには必死で競技する義務が伴う。「楽しんできます」という言葉には、最初から勝てないでしょうと言っているように聞こえるのだ。自分にのしかかる重圧に耐えてこそ、勝利の喜びがもたらされると、私は思っている。

 競技を終えていちばん無念の表情をしていたのが、わずかの差で優勝を逃した清水選手だった。事前の不調を覆して、素晴らしい健闘を見せてくれた清水選手には心から拍手を送りたい。だが、敗れた悔しさをかみしめている選手よりも、気の抜けたような笑顔を見せている選手が多いのにうんざりさせられてしまう。

 シドニー五輪では、韓国チームに敗れたプロ野球の中村選手が悔しさに涙していた。プロとして出場した彼らに金銭欲など全くなかった。これまでプロとして培ってきたプライドのようなものが、彼らを必死で戦わせた。自国を背負った重圧とも戦いながら、精一杯のプレーをした。それが敗戦での悔し涙となったのだ。

 
 私はゴルフが好きだ。海外で転戦しているプロ選手には、公費が支給されるわけでもなく、交通費、宿泊費、プレー代などすべてが自費負担だ。さらにキャディーさんには手当てを払わなくてはならない。二日間の予選で落ちれば、一円にもならない。その一週間は全くの赤字だ。野球選手なら、けがをして休んでいても年俸は保証されているが、彼らはそういうわけにも行かない。自分が戦って、決勝ラウンドに勝ち残ってこそいくらの世界なのだ。だから、彼らはいつもハングリーだ。

 試合に出られるプロは、現役プロの中で二パーセントにも満たない。賞金がでるトーナメントに出るだけのために、彼らは自費を使って何度も予選会を勝ち抜かねばならない。

 アマチュアの試合では、個々人のプレーに公費など一切使われない。公費は大会の運営と彼らの名誉に使われるだけなのだ。アマチュアは、日本オープンなどプロの競技で入賞しても一円ももらえない。ゴルフは自己責任のスポーツとも言われるが、全くにすべてが自己負担なのだ。

 ゴルフがオリンピック種目に加えられないのは、実に不可解なことだと思う。世界中の競技人口からいっても、老若男女を問わないスポーツという観点からいっても、ずっと以前に加えられていて当然だと思うのだが。競技人口のおそろしく少ない、わけのわからない、面白くも何ともない種目をふやしてみたってしかたがない。メダルの数をふやすのにはちょうど都合がいいのだろう。

 ゴルフには審判の判定やら、疑惑ある採点などというものがない。あくまで自分がボールを打ったスコアがすべてであり、他者が介在して手をくわえることが決してできない、自然の中でのスポーツなのだ。敵は自分であり、天候であり、味方もまた同じなのである。「風の声を聴け!」