秋の気配
 ひどく疲れたときには何もしたくない。ごろんと横になって、スポーツ番組かサスペンスドラマでも見るくらいしかできそうにない。そんなとき、感情のバイブレーションは細波ほどにしかない。

 疲れたときと悲しいときとは全然ちがう。突っ伏して号泣するときなどは、心の奥底に津波が押し寄せるみたいに、からだの隅々までがにがくて息苦しい。けれど、それは結果的に這い上がりたい、逃れたいと思うから苦しいのだと思う。どうでもいいとき、人は悲しんだりしないものだ。

 慢性的に疲労が重なると怠惰になってくる。できるだけ面倒は避けたくなる。安易な平坦さを求めるようになる。他人との議論から極力逃げようとする。そんなときはけっして恋なんかできない。だから、悲しみもやってこない。悲しみと向き合う気力すらないものに、ほんとうに人を好きになることはかなわない。

 これはぼくのことのようであるが、そうでもない。かなり疲れてはいるが、とことん疲れきってはいないからだ。いまだどことはなく恋をしたい希望は持っている。不幸に遭遇した悲しみだけではなく、自分から能動的に行動して、その結果としての悲しみを受けとめる気力をも持ち合わせているつもりだ。

 今日は一日中冷たい雨だった。夏が終わろうとするときの、秋の気配を感じさせるような、長くて激しい雨だった。あした、雨が上がったなら初秋の風さえ吹くのではないかと思うほどだ。季節のデリケートなオーバーラップを雨音や風や光の中に感じながら、ぼくはかつての夏の風景の中に身をおき、あのときこのときの切なさを振り返っていた。