季節
 我が家の花壇では、もうすぐ六月になろうとしているにビオラの花が満開である。早朝からの涼しい雨のおかげでまた元気をとりもどしてきたようである。昨年の晩秋より咲き始めてちょうど六ヶ月、さすがにパンジーのほうは花が小さくなり、色彩のトーンが褪せ、徒長した茎のせいで頭が下がってきているのだが、ビオラのほうはいささかの衰えもない。カラフルな色のウェーブが、五月の強い光線にきらめいて、道行く人たちをなおのこと楽しませている。例年なら名残を惜しみながら彼女たちを引き抜き、夏の草花のための土の準備を整えているころだ。

 ぼくのガーデニングの作業場、二畳ほどのアクリルのハウスでは、ジニアとマリーゴールドが蕾をつけている。育苗ポットの底からは白い根がたくさんはみ出し、生育度合いから窮屈極まりない状況になっている。花の定植には適期があって、その時期を逃すと十二分な生育と開花が望めない。できれば梅雨の季節に入るまえに植えつけて、土壌にしっかりと根づかせてやりたい。

 ハウスの棚にはペチュニア、メランポディウム、日々草、インパチェンスの幼い苗が次第に成長を速めている。彼女たちにはまだ一ヶ月ほどの猶予があるが、夏の草花の成長の速度は、遅々として進む寒い季節のものとは比べものにならない。

 だから、いまだ満開のビオラを見ているとひどいジレンマに陥ってくる。どう長く見積もっても選択の猶予は二週間、季節を超えてビオラを守り続けるか、盛夏にふさわしい彩りを選ぶか。真夏にまでビオラは咲けない。咲かせられれば、我が家の花壇は園芸大賞ものだろう。ぼくの選択肢は決まっている。花を手折ることに躊躇はないが、美しく咲いている花々を根こそぎ抜いてしまうことにはとても勇気がいる。無残なことをしているようで切なくてしかたがない。彼女たちは病気もせず、害虫にもやられず、どうして半年ものあいだ咲き続けることができたのだろうか?

 もちろん夏花壇の構想はできている。そして、真夏にそれぞれが満開のときを迎えれば、またビオラやパンジーの播種の時期がやってくる。夏の草花は、毎年秋が終わるころ、ビオラやパンジーを植えつけるとき、その寿命を終えていて、ぼくをこんなジレンマに陥れたことがない。季節はいつも巡りくるものだ。季節はいつも去っていくものだ。でも、ほんのときおり、その当たり前のことでぼくの気持ちが逡巡することがある。それは今年のビオラのことでもあるし、齢を経ながら人生の端々で対面する折々の機微でもある。