ひさびさに
 一日が長くなった。夕暮れの訪れが日ごとに遅くなっている。早やあと一ヶ月もすれば夏至がくる。

 快晴の日の夕方を散策するのは殊のほか優雅な気分にひたることができる。空気は澄んでいて、ときおり吹く風が心地いい。まわりはどこも新緑がいっぱいで、植物の息吹は外気だけでなく、人の心まで浄化させてくれるように爽快だ。

 バラが開花し、梅や花梨の実が見事な緑にふくらんできている。十二月に花開いた枇杷の実は来月には収穫である。カラスの親子がアホウ、アホウと鳴いているが、そのほとんどは彼らの餌となる。我が家のビオラは未だ満開で、先からの長雨にも草姿を崩しさえしていない。夏野菜の苗もしっかりと根付き、夏の訪れとともに例年と同じように収穫をもたらしてくれるだろう。

 通りの家々のプランターでは、ペチュニアやマリーゴールドなどの夏の花が顔をならべ始めた。園芸店ではすでに一ヶ月前から夏の花の季節に入っており、植え込まれた苗の生育状態は気温の上昇とともに季節を先取りしている。

 我が家の夏草の生育は順調である。先月末の気温の低下のせいでペチュニアとインパチェンスの発芽状態が今ひとつだが、その他の草花の苗は、パンジーとビオラの盛りが終わるのを今か今かと待っている。フレンチ・マリーゴールド、日々草、百日草、メランポディウム、そしてすでに縁どりとして半分ほど植えつけたスィートアリッサム。それから新種のペチュニアとインパチェンス、ブルンバゴとペンタスである。

 久々に記している間に日が暮れてしまった。怠惰な日々を過ごしている間にもいろいろな出来事があった。人は何をしていても、何をしていなくても時だけは過ぎていく。生きているということはそういうものなんだとつくづくと思う。いわゆる世の中のこと、また個人的なこと、どのようなことでも関わろうと関わらまいと、時だけは必ず過ぎていく。今日の一日の名残にようやくの快復を感じる次第である。

 体調がよくない間に東京へ行っていた。

 朋あり遠方より来る
 亦楽しからずや

 冒頭に上記の論語の一節が記された手紙が届いたのは、今日の午後のことだった。彼を故郷の山河でもてなし、旧友を暖めることができる日を待ちわびてしまう。彼に故郷と呼べる家はすでになくなっているのだから。