小説
 小説を書くのに年齢は関係ない。それなりの想像力と感性、ありのまま思いのままを率直に言葉にする能力があったなら。
 
 綿矢りさの「蹴りたい背中」の立ち読みの続きを読んで帰ったところ。少々足が棒になったが、残りを飲み終えるのに40分、ケチをつける気はサラサラない。一週間前に読んだ前半部分と、芥川賞を受賞したと知ってからの後半部分とでは、今日のほうが若干目の凝らしかたが違ってはいたのだろうが。
 
 新鮮な気分だ。当たりまえだけど、難しい単語、漢字、難解な文章、面倒な情景描写は全くない。衒いがなかった。このままずっと、すくすくとは書いていけないだろうが、19歳の女性らしいネガティブではない、さわやかな香りを感じた。

 残念ながら金原ひとみの「蛇にピアス」は在庫が切れていた。あったところで、せいぜい文字を眺めるくらいで、立ち読みには体力が限度だった。で、ただ読みしたお返しにと、これまで一度も読んだことのない京極夏彦の受賞作を買ってしまった。残り一冊きりだったからと、今さらながらに分厚いハードカバーを眺めて、買った理由を思うのである。

 大河小説を書くには、経験や取材や人的交流やいろいろな要素が必要だろう。忍耐や根気、かなりの情熱と体力が要求される。が、それぞれの人生のひとコマを小説にする気なら、誰でも小説を書くことはできる。他人に読んでもらえるかどうかは別にして。

 眉間の苦悩のしわひとつ感じさせない、つやつやした若い女性の小説をうらやましく思う。明治や大正のころは喀血しながら、生きんがために、死なんかと悶えながら必死で多くの文士が物を書いていた。第一回受賞作から列記されている作家の名前を見て、少年のころ読んだ小説のことを思い出す。時代は変わった。受け容れるものも受け容れられるものも。

 これからも次々と綿矢りさや金原ひとみのような若い世代が登場してくるのだろう。時代は光の速さで動いている。その多くは消費文化に食いつくされ、時代の速度と同じほどに、現れては消えていく。そう、日々耳にするポップスと同じような感覚で。そのことをよいことだとも悪いことだとも思わない。

 ぼくの伯父は10年近い歳月をかけて、原稿用紙6000枚にわたる大河小説を書きあげた。そして、1冊およそ400ページのハードカバー、全7巻を自費出版した。20年以上前のことである。巻末にある価格が7巻14.000円であるので、兄弟等に協賛を募りはしただろうが、出版数が300セットと推定して500万円近い自費を要していた。

 かのトルストイの「戦争と平和」ほどの文字数の長編小説を伯父は書いた。もちろん手書きで、400字詰めの原稿用紙にである。日の目を見たのは市民会館での出版記念パーティーだけだった。参加者は某有名人の記念講演を聞き、編集者の労をとってくださった大学教授の推薦の言葉を聞き、無料で全7巻の「将棋三國志」をもらって帰ったのである。が、その後、ぼくを含めてすべてを読んだという人の話を、20年間全く耳にすることはなかった。儚いといえばそうであるが、あの日、伯父は出版できただけで満足であったろうと、あの日の感涙の表情を思い浮かべてしまうである。

 今回の綿矢りさや金原ひとみの受賞は快挙ではなく、ごく当たりまえのことだととらえたい。読者はご大層な名士や年配者だけでなく、同年代、同世代の若者も多くいる。明治時代の自然派の文学がいかにつまらなかったことか。延々と続く退屈で難解な情景描写、たいてい30ページが辛抱できずに音をあげていた。純文学という名に憧憬し、呪われ、翻弄されつづけた私小説作家たち。過去が優れていて、現代が劣るということは一切ない。時代は変わりゆくものだ。劣るとすれば、ただひとつ日本語の拙さであろうか。

 で、近頃の自分はというと、小説には根をあげている。確かに忍耐がない。才覚が欠けていると、気どるつもりはない。読むほうが楽しいのであって、書くことが苦痛になっている。ぼくには伯父の真似はできそうにないし、まして自書に500万円も使うのならば、ちょっと加えてメルセデスを買いたいと思う。

 「遺書」はホームページビルダーで継続してはいるものの、いっこうに指が進まない。19歳の少女がちょっとばかり憎たらしいほどなのである。