ラスト・サムライ
 1977年(明治10年)ごろというと、かの西郷隆盛による日本の最後の内戦「西南戦争」が思い浮かぶ。明治新政府への士族の反発が引き金となり7カ月に及ぶ長い戦いが繰り広げられた。

 開戦直後の明治10年2月26日、熊本市河内沖に集結した官軍の軍艦が艦砲射撃を開始。海岸に接近した小型船からは火箭(せん)と呼ばれる西洋製のロケット攻撃を加えたという。終始劣勢だった薩軍は、ときおり猛反撃を試みたが、多勢に無勢、宮崎・長井村で官軍に包囲された薩軍は諸隊の解散を宣し、九月末わずか残った500人で可愛岳を越える。薩軍の多くの若者が鮮烈な死を遂げ、陸軍大将の西郷隆盛は敗戦を覚悟して、戦場で割腹、部下の陸軍少将の桐野利秋が介錯をした。このラストが、表題の映画の設定と少々類似しているといえなくもない。

 昨日、三時間以上待って、満席の隅で「ラスト・サムライ」を見た。成人式だからでもあったのだろう、若いカップルが大勢いた。いつにない青年たちの人いきれだった。映画はさすが人気作品だけあって、初っ端から楽しめるものだった。興味津々の出だしだったのだ。

 娯楽作品において、史実に忠実である必要はない。あくまでもフィクションである限り、登場人物がどうあろうが全くにかまわない。「ラスト・サムライ」はトム・クルーズという超人気俳優が描くサムライ・ファンタジーであり、ハリウッドの金もうけ戦略のターゲットであり、はやりの若者向けエンターテイメントなのだった。そして、それは今のところ、日本では大成功のようだ。

 子供のころ、近所に東映の映画館があって、ぼくは幼年時代、少年時代を東映の時代劇を見て育った。「大菩薩峠」「丹下左膳」「旗本退屈男」「鳴門秘帖」「清水の次郎長」「赤穂浪士」「里見八犬伝」などなど。近所のよしみ(おばさんに子供がなくてかわいがってもらっていた)でただだったので、100作品以上は見ていると思う。また、青年期、司馬遼太郎や藤沢周平などの本をよく読んだ。侍、武士、武士道なるものをよく知っているつもりなのである。

 「ラスト・サムライ」のストーリーがハチャメチャなのは、ハリウッドのビジネスだからしかたがないと思う。トム・クルーズ演じる『オールグレン大尉』がかっこいいのも当然だと思う。トム・クルーズファンには、こたえられないサムライ・ファンタージーに仕上がっていた。

 が、みんなが感動している場面を見ていて、ちと悲しくなった。武家には仇討ちというものがある。勝元(渡辺謙)の弟を殺し、負傷したオールグレンを、勝元は弟の妻(小雪)とその息子二人に住居を共にさせ、世話をさせる。そして、その母子はオールグレンに愛情を抱くようになる。これは考えられないサムライストーリーだ。良き夫を殺した相手にとは・・・、ここで拒絶反応が始まる。どうにかほのかなロマンスにとどめているのだが、子供には全くに父親を殺された憎しみがない。いくらなんでも心広し、神秘で不可思議なサムライ心情といえど、絶対にありえないことだ。また、勝元の住処、吉野の里はまるで隠れ里のようであり、彼らは侍ではなく、甲賀忍者の末裔のようでもあった。

 吉野から東京まで馬でひとっとびくらいはどうでもいい。横浜に電線がやたら多かろうと、そんなことはどうでもいい。汽車への襲撃や最後のマシンガンによる殺戮など南北戦争と思えば似たり寄ったりだ。でも、鉄砲は信長の時代から存在していた。矢と刀だけの戦術など時代錯誤も甚だしい。あげく、勝元を忍者が襲うのにはあきれはてた。

 サムライとは時代錯誤な精神をさすのだろうか? これはぼくも映画ともに否である。が、ぼくはそれを日本人の古き良き心とおきかえたい。神秘的でもなんでもなく、人をたて、思いやるどこにでもある普遍のものだと。

 敗戦が確定し、勝元がオールグレンに助けられて自害に至るとき、官軍の兵士たちは勝元に向かって土下座した。英雄を讃えるつもりだったのだろう。指揮官の大村が激怒してやめさせようとしたが、兵士たちは無言のままだった。土下座を見て、気分が悪くなった。生死を賭けた凄まじい争いのあとで陳腐きわまりなかった。

 で、楽しめたかどうか、たぶん、居眠りをしなかったから楽しかったんだろうと思う。明治維新ごろの日本の時代背景、志士の維新の心をを知っていて、みんながあの映画を楽しんでいたならと、思わぬでもない。彼らが列強から日本を守り、欧米以外で唯一独立の道を歩ませたのだから。

 洋楽、洋画、海外小説を愛するぼくは、かえって古い人間なのかもしれない。君が代という明治以前の古来からある歌はきらいだが、武士道なるスピリットは嫌いじゃない。生き延びたオールグレンがなぜ吉野の里へ帰っていったのか、あれは夢の中の光景で、ジョージア州タラの大地へでも、もどっていてくれたならと思うのである。

 PS ハリウッドは世界発である。
    ハリウッドの捉え方が標準となる可能性を持っている。