連合赤軍と弱腰外交
 北朝鮮日本人拉致事件には、少なからず連合赤軍の日本人が関与していたと思わざるをえない。よど号をハイジャックした連中の多くは東大安田講堂経験者で,甚だしい過激派であり,超左翼思想の持ち主だった。その後の「よど号」メンバーによる秘密工作を鑑みると,彼らの存在なくしては拉致はありえなかったと推測する。1970年以降の数年間に,ほとんどの人たちが拉致誘拐されているからだ。連れ去られて,洗脳され,彼らとの結婚を余儀なくされた日本女性の悲哀も推し量ってあまりある。重信房子をはじめとして,30年以上に渡って、彼らを取り締まれなかった国家の行政上の責任は重い。以下の記述は,主な連合赤軍の仮借なきまでの犯行である。

1970年3月 赤軍派9名による日航機よど号ハイジャック事件。彼らは北朝鮮へ亡命。

1972年2月 浅間山荘事件。10日間に渡る警官隊との銃撃戦。警察官2名殉職。

1972年 5月 テルアビブ空港乱射事件。24人を無差別に殺害。

1973年 7月 パリ発東京行きの航空機をハイジャック。リビアで乗客を降ろした後機体爆破。

1974年 1月 シンガポールの石油精製所爆破。

1974年 9月 オランダのフランス大使館占拠(ハーグ事件)フランス政府は超法規措置で逮捕していたメンバーを釈放。

1975年 8月 クアラルンプールの米・スウェーデン両大使館を占拠する。(クアラルンプール事件)日本政府は超法規措置でメンバー5人を釈放。

1977年 9月 ボンベイ離陸直後の日航機をハイジャック。(ダッカ事件)また日本政府は超法規措置でメンバーを含む6人を釈放。(赤軍と無関係の人も含まれていたコマンドとして利用したかったものと思われる)

1988年 4月 イタリアのナポリでアメリカ士官の車を爆破(ナポリ事件)


 よど号ハイジャック事件の際,乗客の身代わりとなった山村新次郎衆議院議員の死が痛ましい。1992年4月13日未明、山村新次郎は次女に自宅で包丁にて刺し殺される。彼女はそのとき精神に異常をきたしていた。
 
 自民党訪朝団の団長として、まさに出発する当日のことだった。訪朝団の目的は金日成主席80周年の慶祝行事参加だったが、もう一つの目的は「よど号」グループとの再会にあった。当時のリーダーの田宮高麿はそれを心待ちにしていたという。

 1970年,よど号事件当時、「身代わり人質」として一躍有名になった父、山村新次郎を羽田空港に出迎えたのは、ほかならぬ次女である。その後の彼女の人生において「よど号」事件は深くて暗い影を落としていた。そして「よど号」メンバーにとっては、日本政府とのささやかな繋がりを完全に立ち切られた事件となった。

 そして、ようやく現在を迎えている。彼らには永遠に罪を償わせるべきだと,僕は思う。もちろん獄中にある重信房子においてもだ。決して安穏たる余生を送らせてはならない。