暗闇へのワルツ (終章)
 もし誰かがあなたを心から愛したなら・・・・・・
 (いや、事実そうだったのだが、フォスティーン、あなたは知らぬ顔だった)
             ―――スインバーン


 ニューオーリンズの裕福なコーヒー商社経営者ルイスは、新聞の見合い広告を通じてセントルイスに住む娘ジュリアと結婚する。だがやってきたジュリアは、見合い写真とはまったく違う美貌の女だった。ルイスは彼女にすべてを捧げるほど溺れてしまう。しかしルイスを待っていたのは女の裏切り。女は男の財産を持ってこつ然と消えてしまう。すべてが偽りだったと知っていても、姿を消した女を執ように追うルイス。それは愛なのか、それとも・・・・・。


音のない音楽が流れ、
踊る人形二つ
そっと寄り添い,
ワルツがはじまる。



 「僕たちはこれから、このワルツみたいな人生を送るんだ。なめらかな、円滑な、美しい人生を。耳ざわりな不協和音のぜんぜん入らない人生をね。こういうふうに、いつもぴったり寄り添って、いっしょに生きていこうね。心も体も一つになって」

 「人生のワルツね」彼女が夢見るようにささやいた。「翼をもったワルツ。終わりのないワルツ。澄みきった青空のようなワルツ。金色のワルツ。白無垢のワルツ」 彼女は恍惚と歓びに酔ったようにして、そっと目を閉じた。


 これはルイスとジュリアの「暗闇へのワルツ」の幕開けだった。

 そして、ジュリアはルイスの金を持って逃げていった。

 怒りのあまり、ルイスはジュリアとの文通の先セントルイスのジュリアの家を訪ねるが、やはり本物のジュリアは行方不明だった。ルイスはジュリアの姉と私立探偵を訪ねる。ジュリアの捜索とにせもののジュリアを捕まえてもらうために。探偵は偏屈だったが有能だった。探偵はルイスと別れるとき、必ず結果を報告にしに行くと誓う。

 時間が経るほどに、ルイスにはジュリアとの情熱の日々が絶え間なくよみがえり、その切なる思いは断ち難く、ジュリアの思い出を背負ったままで、ルイスはニューオーリンズで暮らしていくのが耐えられなくなったいった。

 「ロマンチックな男ほど、失恋の痛みもはげしい。彼がそうだった。ロマンチックな男なればこそ、自分に割りふられた役をまぬけな男の役を、せりふ一つまちがえず演ずることができたのだろう。いわば、彼は当然女の餌食になるように生まれついた男だった」

 旅先のホテルで知り合った好色な退役軍人、彼がきっかけでルイスはジュリアを発見する。ルイスはジュリアを罵り、ニューオーリンズの警察へ連れて行こうとするのだが・・・・・。

 嘘と思いつつも、ジュリアの言い訳を信じずににはられない哀しい男ルイス。彼女の美貌に、蜜の誘惑に抗うすべなく、ルイスはジュリアと恋の逃避行を続けていく。偽りのジュリアのほんとうの名前はボニーだった。

 ある街で一軒の家を借りて暮らしていたとき、ひょっこりとセントルイスの探偵が現れる。本物のジュリアがミシシッピ―河から遺体で見つかったこと、偽物のジュリアをニューオーリンズの警察まで連行することを告げる。しかし、ルイスはボニーをもう手放すことはできなくなっていた。ルイスは半ば無意識のうちに探偵を射殺してしまう。

 それから、ルイスとボニーのほんとうの逃避行がはじまる。しかし、金銭感覚のないボニーをつれていては、たちまちに金が底をついてしまった。ルイスはボニーをホテルにおいて、ニューオーリンズに戻り、親友の共同経営者にすべての資産を売却し、有り金すべてをもってボニーのもとへ戻ってくる。だがいくら大金でも、好きなだけ使いつづければ、早晩再び底をつくのは明らかだった。

 彼女の趣味は贅沢、特技は演技と誘惑であった。
 金髪は男殺しと言われているが、まさにそれを地で行き、はちみつのような色をしたやわらかな髪。小柄で、ミルクのように白い肌…。見た目には夢のようにはかなく愛くるしい。

 何はともあれ、美貌とは一種の才能である。性格はともかくとして、人を騙せるほどの美しさという点では、羨望のまなざしを送らずにはいられない。

 ジュリアが一芝居打ったことに気づいたルイスの心には、激しい復讐の炎が燃え上がる。しかし、次の芝居の幕が開けば、彼女の名演技にこれまたあっけなく幻惑される。

 彼女に溺れた男には、見え透いた嘘も真実に聞こえる。男は、囚われの身のようにして、官能の誘惑に身をゆだねざるをえない。哀しく切ない男のさがである。

 淑やかそうに振る舞うのもうまいが、実際の彼女は、何につけても手際がいい。常に、危機を脱しよう、相手を出し抜こうと、せわしなく頭をめぐらせている。 だから、ルイスの殺人の後始末でさえやすやすとこなすことができた。

 ところで考えてみよう。男というものは女の嘘を見抜く勘が鈍い! どう考えても女が嘘をついているという状況でも、あっさり騙される例が多いものである。


「生きたいわ! 生きたいわ! どうせ、短い人生だもの。二度と生まれかわるわけにはいかないんだし――」

 彼にドレスや宝石やシャンパンをねだったあとで、彼女がこう叫ぶシーンがある。彼女は彼女なりに精一杯生きていたのだろう。その精一杯さを他のところに向けていたら、本当の幸せをつかんだかもしれない。

 だが、気がつくのが遅すぎた。ボニーが飲ませた毒でルイスは死んでいく。ルイスはそのことを知りながら、それでも最後まで彼女を愛していた。

 「もうだめだ。 彼はしびれた唇の間からささやいた。「何もいわないで・・・・・・。おまえの唇をおれの口においてくれ。そのままさようならをいって」

 別離の口づけがかわされた。二人の魂がたがいに行き交うようだった。永遠に一つにまじりあってしまったようだった。だが、ついにそれはできなかった。二人の魂は次第に離れ、一つは暗闇に滑り落ち、一つは明るい世界に残った。

 「これで、おれは満足だよ」 彼がほっとため息をついた。目が閉じた。死が影を投げかけた。

 「ちょっと、もうちょっとだけ待って!あと一分だけ待ってくれれば彼を行かせるわ!ああ神さま!いや、誰でもいいから、あたしに一分だけください!彼にいいたいことがあるのよ!」

 彼女は彼の上に身を投げ出した。彼女の髪がほどけて、彼の顔をおおった。彼の愛していた金色の髪が、屍となって彼をおおった。

 彼女の唇が彼の耳を求め、それにささやきかけた。聞いてくれるものは彼しかいなかったから・・・・・。「あなたを愛しているわ。愛しているわ。ね聞こえる?あなたはどこにいるの?あなたはいつもあたしの愛をほしがっていたけれども、もうほしくないの?」

 彼女の嘆きが冷たい耳へ流れた。「ルイス!ルイス!ああ・・・・・遅かったわ。あたしがあなたを愛するのが遅かったのね・・・・・・・」

 ノックの音も、ざわめきも、嘆きも絶えて、部屋はただしんと静まり返った。 「それが、あたしの罪なんだわ」


 その容姿で人を欺き、数々の悪事をはたらいてきたボニーであるが、最後の最後でぐらつくところに、一抹の救いを残している。

 彼女は、自分が世界の中心で、すべてを操っているつもりだったのだろう。 しかし、彼女自身も踊らされていたのだ…。

  そして、暗闇へのワルツは終わりを告げるのである。


 音のない音楽が絶え,踊る人形は
 崩れるように床へ落ちて,
            ワルツが終わった。


   /ウイリアム・アイリッシュ