海鳴り 【藤沢周平作】
 江戸の時代、有夫の女と通じた男は引き回しのうえ獄門に懸けられ、女も死罪になる。

 妻子あるお店の主人新兵衛と不遇に生きる大店の妻女おこうとの許されぬ恋。それは現代風俗とも似かよった閉塞した状況を描いているのだが、そこで情欲や焦燥感や空虚なものが支配する世界を見てきた我々は、物語の終末において意外なものに出くわす。

 それは哀切とでもいうべき感情で、新兵衛とおこうがお互いに純粋な愛情を抱きあったときに生じたものである。

 二人は駆け落ちのようなかたちで江戸を逃れ、旅の途中に残してきたものを振り返る。逃れきれるのかどうか?

 おこうが新兵衛に謝っている。新兵衛はお互いさまだという。おこうが江戸のことは忘れてくださいねと祈るようにいう。

 四十半ばの男と三十半ばの女、二人は立ちどまって顔を見合った。ついで手をにぎり合った。新兵衛は野を見た。日の下にひろがる冬枯れた野は、かつて心に描き見た老年の光景に驚くほど似ていたが、胸をしめつけて来るさびしさはなかった。むしろ野は、あるがまま満ちたりて見えた。振り向いて新衛兵はそのことをおこうに言おうとした。 「完」