洗礼のすすめ
私はかつて一度だけ、
洗礼のすすめを受けたことがある。

私に洗礼をすすめた女性はスウェーデン人で、
名前をエルスマリーという。
彼女は宣教師の娘として大阪府堺市で生まれ、
幼年期を日本で過ごしている。

私が彼女と出会った当時、
両親が滞在している教会は兵庫県西宮市にあった。
私はそこで洗礼のすすめを受けた。
幸いというか不幸とでもいうか
家が真言宗なのを理由にして固辞することができた。

彼女はストックホルム大学で日本文化史を専攻しており、
彼女の夫はリンシュピン大学で社会福祉関係の教授をしている。
夫はウーヴェという名前で、髭をたくわえたナイスガイだ。
現在でも二人は少なくとも一年に一度は
社会福祉団体の招待や大学での講演などで来日している。

私が彼女と知り合うことができたのは、
NHKが放送した高齢化社会シンポジウムからだった。
彼女は社会福祉先進国の立場からパネラーとして出演していた。
かの河合隼雄氏も出演していたのを覚えている。

社会福祉関係の講演会の世話役をさせられていた私は、
講師として彼女に白羽の矢を立てた。
日本語がぺらぺらのスウェーデンの美しき女性なら、
なまじ退屈な講演会に旋風を吹かせることができると思ったからである。

私は104番でNHK大阪放送局の電話番号を教えてもらい、
あっちこっちへまわされて、
最後にあのテレビ放送の担当だった石沢さんと話すことができた。

そのときはすでに彼女はスウェーデンに帰っており、
後日、石沢さんが国際電話で彼女に連絡をとってくれた。
講演会はOKで、後は彼女が来日をする日程の調整だけになった。
NHKの石沢さんには今でも感謝の念でいっぱいである。

私は何度も国際電話をかけ、何度もエアーメールを書いた。
彼女は日本語は話せるが、
漢字はだめだから必死で英文を書いたものだった。

その甲斐あってか、
幸運にも彼女が夫とともに来日する日が決まり、
滞在する合間を縫って講演会の日取りが決まった。

打ち合わせのため、
私がはじめて彼女と逢った場所は、
お父さんが牧師をしている西宮の教会だった。

私は彼女によって高齢化社会の問題点を知り、
後に寝たきりとなる母の苦痛を目の当たりにして、
日本という国の高齢化社会への遅れを知ることとなる。

私の気持ちがエルスマリーさんにどのように映ったのかは定かではない。
「洗礼を受けてみませんか?」と誘われたとき、
私はお茶を濁すようなことを言っただけだった。
それを聞いて彼女は
私のことをやはり普通の日本人と感じたのではないかと
今になって思う。

しかして、私は彼女のおかげで素晴らしい講演会ができ、
彼女一家とは現在も交流が続いている。
来日したとき 数年に一度は出会えるし、
一度だけだがスウェーデンを訪ねたことがある。
毎年クリスマスカードが届くのが楽しみになっている。
スウェーデンではグリコのポッキーが売っていなくて、
それが子供たちの大好物なので、
私は大奮発して1ケース丸ごと送ってあげている。

現在は西宮の教会に彼女の両親はいない。
年老いて母国へ帰ってしまったのだ。
お父さんは大の書道好きだと訊いていた。

時々思う。
私がもし洗礼を受けていたならどうなっていただろうかと。
でも、たぶん、ちっとも変わってはいないだろう。
きっと いつも 懺悔ばかりしているにちがいない。