7月19日(土) 雨時々くもり
聖書日課

◆『あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。』
エレミヤ書17−17

クリスチャンの道は、いつも太陽が輝いているわけではない。時にはやみもあらしもある。
なるほど神のみことばには、
「その道は楽しい道であり、その通り道はみな平安である」と記されている。
まことにそれは一大真理であり、信仰は人に天上の喜びのみならず、地上の幸福をも与えるものだと考えられている。
しかし、「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる」にしても、時にその光がさえぎられることを経験する。
ある期間、雲が信者の太陽をおおい、信者はやみの中を歩き、全く光を見ないことがある。
しばらくの間、神の臨在を喜んだ人は多い。彼らが信者となったころ、彼らは十分な日光を浴び、「いこいの水のほとり」の「緑の牧場」を歩んだ。
しかし突然、彼らは晴れた空が雲におおわれるのを発見し、ゴシェンの地に代わって砂漠を歩かなければならない。
甘い水の場所には困難な川が流れ、彼らはその苦い水をなめて、
「もし私が神の子なら、こういうことは断じてあってはならない」と言う。

ああ、暗い道を歩む者よ。そういうことを言ってはならない。
すぐれた神の聖徒は苦よもぎを飲まなければならない。
神の最も愛される子どもたちは、十字架を負うべきである。
クリスチャンはだれであっても繁栄ばかりを楽しむものではなく、
常にたてごとを柳の木に掛けないでいられるわけではない。
おそらくあなたが弱く臆病であったために、主は初めのうち、やわらかく日の当たる道を与えてくださったのであろう。
主は毛を切った小羊に強い風が当たらないように配慮される。
しかしあなたは、霊的生活において強くなったので、神の成長した子どもとして円熟した激しい経験に入らなければならない。
私たちは自分の信仰を鍛練し、自己依存の腐敗した枝を除き、
さらによくキリストに根を下ろすために、風とあらしを必要とするのである。
わざわいの時が、私たちの輝かしい希望の価値を示すのである。

By Charles Haddon Spurgeon