雨上がりの湿度
息苦しい程と家内は表現する。午後、洗濯物を干しに出て、日差しがではじめたから、気温も上昇だ。
年中汗だくで仕事をする私は、それ程気にならないから不思議である。
冷たいお茶はその代わり人一倍飲む。熱中症などとも無縁である。若い時から、エリートとは程遠い現場で、トヨタが1000CCのパプリカを発売した頃。港の砂漠石油タンク地帯を自転車で飛び回っていた。
車を購入するのも同業では最も遅い会社だった。同期入社の大学卒は一年未満で見切りをつけて止めていった。
兄の同期の紹介で入社したばかりに、やめる訳にもいかず頑張った。
給料は遅配。ボーナスが分割払いの会社だった。一流嫌いの私には似合っていたから、将来は楽しみが大きかった。
いつの間にか港ではいい顔になっていた。遂には、税関から一人退職者を引き受ける交渉を税関長とする立場にまでなっていた。
大手商社の代わりに港で給油する外航船へ徹夜で給油の仕事も忙しかった。
手土産に船長、機関長へ渡す日本人形を度々買い込んだ。当時でも何万円はしたのだが、燃料代金からすれば微々たるもの。それで気を良く取引にサインを取ることが重要だった。
何処の外国の船へ言っても、英語を最初は使わなかった。
必ず日本語で「日本語話せますか」と切り出すのが私のアイデンテティだった。
同行の商社マンたちに有名になり、最初口を開くのを私に譲ってくれた。
それなら英語を話してやると言うのである。若いくせに生意気だったのかも知れない。
トラブル、海難などでも名が知れて、神戸、横浜他から私個人にSOSの依頼が来た。
船底に穴の大型船が港へ入るから助けてくれという。10年で脱サラして事業を始めた私に船会社から誘いが沢山来たのだった。